minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

戦時中の思い出の韓国料理

 
 
各地の韓国自由総連盟では
戦時中の思い出の韓国料理の試食会を開いた
 
自由総連って何?
 
 
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イメージ 6[国防ミーナ]韓国自由総連盟忠清北道報恩郡支部は、6.25韓国戦争第64周年を迎え、自由と平和の大切さを知ってもらうための戦争料理の試食会を26日、ボウンウプ中央交差点で開いた。
この団体は、試食会で6.25韓国戦争当時、貴重に食べたおにぎり、すいとんなどを作って住民に提供した。
この日の行事は、戦争の痛みを盛った料理を披露し、戦争世代には難しい時代を思い出させるようにして、現在の豊かな生活に戦争の悲劇を知らない戦後世代は戦争の残酷さを知らせた。
 
 
 
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▲戦争の思いでを味わってもらうために企画された行事だ
 
 
 
 
鎮川でも戦争体験試食会に行列
 
 
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▲茹でたジャガイモや草餅などが振舞われている
小奇麗な韓国型おばさんらには戦争の記憶など無い
 
イメージ 7[ニュースミーナ]韓国自由総連盟鎮川郡支部20日午前11時から午後1時までジンチョンウプ在来市場内の広場で'6·25戦争当時、食品再現試食会や写真展」を開く。 韓国自由総連盟鎮川郡支部女性会の主管で開催されるこの日の行事は大麦おにぎり、小麦すいとん、スクゲトクなど、朝鮮戦争当時の食べ物を住民に無料で配る予定だ。 また、戦争の惨状を住民が間接 ​​的に体験することができるように避難民たちの生活を写した写真展を開く予定だ。 イギョンジョン自由総連盟鎮川支会長は「戦争当時食品や写真を通して、私たちが享受している平和がどれだけ大切なのかをわかることができるきっかけになってほしい」と述べた。
 
 
 
仁川でも開催、戦時食の無料体験
 
 
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▲試食コーナーには物珍しさもあって大勢が訪れたりした

 
 
イメージ 8[週刊ミーナ6/25]韓国自由総連盟仁川甕津郡支部は6.25第64周年を迎え、戦争当時の食べ物を再現試食会と護国安保写真展を25日、仁川沿岸旅客ターミナルで開催された。
甕津郡支部の主管で行われた今回の行事は、本地域の住民や観光客に、韓国戦争の惨状と民族史的意味を正しく転送し、戦争当時の難しかった生活を間接的に体験することで、南北の和解と平和統一の必要性を認識させるために用意した。
食品の無料試食会は、戦争当時に有り難く召し上がったコンボリおにぎり、大麦スクボ水など当時の社会像を盛り込んだ料理を披露した。
これと共に行われた写真展は、解放政局、6.25戦争の状況、避難生活、国を愛し護国報勲、南北の和解、天安艦と延坪海戦など50点余りを展示して分断国家の民族の悲哀を再確認する時間を持った。
会場を訪れたジョユンギル郡守は、「再び戦争の悲劇を経験しないためには、6.25が与える教訓を我々は決して忘れてはならず、今回の行事を通じて、朝鮮戦争を経験した世代には戦争当時の思い出を振り返って、戦争を直接経験しなかった戦後世代には自由と平和の大切さをわかっているきっかけになってほしい」と述べた。
 
 
イメージ 5あちこちで戦時中の食事を再現してみた
 

イメージ 11[ニュースミーナ]韓国自由総連盟清原支部(会長代行ギムミョンヒョン)が19日、ミウォンミョン事務所前広場で、管内の機関長と小·中·高校生など、住民500人余りが出席した中、韓国戦争当時の食べ物を再現無料試食会を開催しました。
試食会では、麦おにぎり·ゆでたジャガイモ·小麦スイトン·草もちなど様々な食品が展示された。
 
 
 
 
 
 
韓国自由総連盟大邱寿城区支部 6.25戦争当時、
食品再現試食会開催
 
 
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イメージ 10[うなぎミーナ]韓国自由総連盟大邱支部でも”6.25戦争当時食べ物再現試食会”を開催した。 この日行事は護国報勲の月を迎えて朝鮮戦争当時の難しかった過去を再び回想して、自由と平和の大切さを呼び覚ますと同時に勤倹節約する精神を鼓吹するために用意された。 市民と幼稚園生など1,000人余りが参加してカクルカクラン麦おにぎりとポリゲトクを食べてもう一度自由の大切さを認識させる契機を用意した。
 
 
 
(翻訳:みそっち)
 


 
韓国自由総連盟(韩国自由总联盟)は、大韓民国の極右理念運動団体である。政府系団体として国庫支援を受けており、2003年から韓電産業開発の株式51%を保有しており、1997年の大統領選挙介入安企部北風工作事件に関与して、容共操作事件を操作するために協力をしたこともある。ソウル特別市 中区奨忠団で72に位置している。
自由総連盟は、大韓民国自由民主主義擁護の発展を目的に様々な活動をしており、月刊誌「自由公論」と「自由新聞」などを出版している。
 
ニホン統治時代には食糧不足とは無縁だった朝鮮半島でしたが、わずか3年間のアメリカ軍政のあとには完全な無法地帯となって米価は20倍にも跳ね上がり国中の食料は底をつき国連支援の余剰食料を緊急支援したりあちこちの国からコメを運んだりして混乱していた韓国でした。
これは食べる人数が増えたわけでもなくコメの不作が続いた訳でもなしにお金のある人が無計画に買い占めた結果でした。そうした世情不安を対キタ朝鮮に求めて盛んに武力挑発を繰り返してきた韓国でしたが国境付近に少数配置された国軍は食べるものだけは保証するからといった甘い言葉だけをたよりに志願した韓国の若者ばかりだったそうです。
それでも食べるものはキムチと雑穀50%麦30%米20%という主食の怪しいものでした、芋掘りの時期になると部隊総出で芋畑の警備に当たったりと散々な日々に抜け道を見出したのが再び国連の支援に戻るという選択でした。その結果、独立間もない韓国政府は税金の徴収をやめ現物配布というかたちで公務員給与を支払うことになりました。
小学校の初級教導の手当は月に米8升相当といいますから主食として食べるにも不足する分はアワやヒエといった雑穀のほかにイモなどで支払われたそうです。
 
 
戦後の方が食糧難だったりするのか?
 
 
 
イモ+麦という1950年代を代表する弁当の一例、食物繊維が豊富であることは認めるがオカズは白菜キムチだけである
※キムチの過剰摂取により韓国人が“進化”するのもこの頃からだ
 
 
発展するキタ朝鮮に負けじと毎日罰ゲームのようなお弁当を持って学校に行き、家に帰れば家業を手伝いながら下の子どもの面倒をみながら勉強なんかしたんでしょうか お弁当さえ持っていけなかったのが半数以上いたそうですけど
※夜8時からの停電が解除されるのは1977年から
 
 
 
 
 
 
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ごはんをやわらかめに炊くの