minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

買ってきたエンジンに生産設備投資の費用も補償

 
 
ジェットエンジンの開発投資は買ってくる式
  
エンジン開発部門に最大の投資を行ったサムソンテックウィン、輸入商社に転落、有事の際の部品供給なんて気にしない。
  
   
イメージ 1[経済ミーナ]駆逐艦ガスタービンエンジンは、55億ウォンで防衛産業F社が納品している。ところが、55億ウォンのうち41億ウォンに該当する材料がすべて輸入である。FA-50用エンジンなどは半完成品を買ってきて組み立てる式で調達40機分のエンジン2455億ウォンで契約された。 https://ko.wikipedia.org/wiki/KAI_FA-50
 
防衛産業で国産化は、コアコンピタンスの一つである。業者を選定したり、今後の管理する際にも国産化率を高めたが、このような政策は、現場では有名無実だ。監査院が摘発した防衛事業体の実態である。駆逐艦ガスタービンエンジンやFA-50用エンジンなどは、それぞれ55億ウォン、2455億ウォンで契約された物品であるが、すべての輸入部品である。いざ製造施設を備えていない部品を単純組み立てだけの企業が防衛産業に選ばれたのだ。
 
サムソンテックウィン2455億ウォン規模のエンジン事業受注
2013.6
 
サムスンテックウィンは、防衛事業庁と2455億ウォン規模のFA-50エンジン後続量産事業に関連する契約を締結したと3日発表した。契約金額は、サムスンテックウィン年間売上高の8.37%に相当する。サムソンテックウィンは韓国型ヘリコプター(KUH)事業用T700エンジンを共同開発し、量産用のエンジンを昨年から供給している。エンジン部品事業も活発に行われている。GE、PWなどの海外のエンジン製造会社にエンジン部品やモジュールなどを長期的に供給している。特に民間航空機の需要が拡大し、事業規模がますます拡大している  
 
監査院側は「平時に輸入部品の価格が急騰し、戦闘力を維持するために困難になることができ、戦時には輸入自体が制限される 可能性がありうる」と指摘した。
政府は1973年以来、信頼性の高い軍需品調達のために防衛産業を指定運営している。80年代末には75社371品目にとどまったが、徐々に増え、昨年4月基準97社1317品目まで増えた。防衛産業になると、排他的な配達権を保障されて、様々な補助金が支給され、生産設備投資の費用も補償される。
問題は、このような排他的な利点のために透明な運営過程が保証されていない場合は、ややもするとコストの無駄が発生しやすいという点である。また、独占的な地位のために技術開発に消極的で、競争力の低下をもたらすことができるという懸念が 提起された。監査院が、防衛事業庁などを対象に、大規模な監査を行った結果から、このような懸念が現実のものに明らかになった。
 
 
 
(翻訳:みそっち)
 

 
自分のところに工場をつくって製品をつくるよりも出来上がったものを買ってきたほうが手っ取り早いし安全で確実なわけです、ニホンの自衛隊装備でも売ってるものを買ってくる式を主張する人と国内産業の技術が大事とばかりに国産化を採算度外視でもやろうとするひとがいるわけです。
YS-11なんかだとニホンでも飛んでいた国内線がDC-3(零式輸送機のアメリカ版)だった時代に同じ狭い飛行場から飛ばそうっていうのでご苦労様でしたが。
※あれは戦時中の5人の設計者が何をしたのかという議論が今でもあります。
それと前後して旧中島飛行機はT-1、三菱がT-2、川崎がC-1、川西航空機ではPS-1だっけ?というあたりでオリジナルな飛行機を飛ばしていますがエンジンは外国製をお手本にするしかなかったのが残念です。それでも買ってきた式ばかりじゃないところがどうにも何だかです ※T-1Bの国産エンジンは橘花のエンジンの拡大型ともいえる

韓国では韓国航空宇宙産業(KAI)っていうのが一社あるだけなんですがIMFの前まではサムソン・現代・大宇の3社体制で ”軍需業者” として機能していました。
その当時から部品の不正納品が日常化していましたが ”国内技術力” にあわせて国産化をさせようと防衛産業支援法をつくって資金援助までしていたんですね、ところが手っ取り早く買ってきちゃったのでした。
いまでは整備などで分解組立ても慣れたものかもしれませんが、完成機の整備をするのは軍であって企業ではありません(保証期間が過ぎるとアレですから)予備部品を供給するのがメーカーですがめんどくさくて儲からないのでかなり多くの部品が多くの個人規模の企業で輸入されているのが現状です。しかも飛ばない飛行機は意味がありませんが配備数を水増し申告するのが当たり前になっていたり部品の使い回しをしたり共食い整備なんかもあってF-16の近代化改修計画のほうも見積もり機数は総配備数でしたが実際の交渉は2~3機ずつのわけのわからない状態で行われています(まとめて見積もりさせて小ロットでも単価を下げろ式の交渉じゃない)つまり現在飛行可能な機体が足りていないんでしょうね。(なぜか近代化改修のために飛ばせる飛行機を再整備するんだとか)
 
 
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みそっちのどーでもよいコラム⑯
 

イメージ 2朝鮮戦争が始まる5年前にニホンは朝鮮半島から撤収しました、すぐに米軍政になった下朝鮮はなぜかニホン人がいなくなった途端にコメの生産量が激減します、1944年の収穫量を100としたときに翌年の1946年には76へ、翌々年の1947年には41にまで低下しました。わずか2年で生産量が半分以下になったわけです。これは同時にニホンが残してきた資産を食いつぶすことで独立の時期を迎えることになったわけです。

キタ朝鮮の独立宣言にあわせて大韓民国も独立をしましたが1948年の税収は米軍政から引き継がれた1764億ウォンだけという有様でした。つまり文無しの状態で独立しました。それから開戦までの2年間は韓国にとっての唯一の経済活動といえるものが”南北貿易”だったわけです。
南朝鮮で獲れたコメをキタ朝鮮に運ぶことで石鹸や衣類などと交換するという今では考えられないような状況だったし、電気もキタ朝鮮から買っていましたね。やがて両者の関係が怪しくなると両方が軍備を整え始めますが、徴兵制度が根付かなかった下朝鮮では”食べられるだけマシ”という入隊希望者が列を成します。その当時になると韓国にいたのはアメリカの軍事顧問団などでしたが、そこからの指導で ”兵隊の上限が10万人” ということで、競争率はおよそ2倍だったのが韓国国防軍だったのです。それ以外にも米軍政期に解体された民兵組織(略奪団)が多く残っていましたね。やがてそれらが討伐されたり吸収されたりしながら軍としての体裁を整えていきます。(済州島にも似たようなのが根強く残ってたり)

その当時、ニホンでも人気のあるぺク大佐(当時)が師団長をしていた第1歩兵師団は開城市(いまはキタ朝鮮領)にありました。今でこそソウルまで戦車で2時間程の距離ですが、当時は38度線ほ挟んで対峙しているキタ朝鮮軍との最前線だったのです。

とは言ってものんきなもので、兵隊に食べさせるコメや毛布までキタ朝鮮に送って私腹を肥やした前線守備隊長やらが散見できます。ちなみにぺク将軍が頭角を現したのは1949年当時に釜山の警備隊連隊長をしていた時に ”米軍物資” の横流しを摘発したことからだったことはよく知られています。

その当時から ”キタ朝鮮と交易するよりもアメリカ物資を手広く扱ったほうが儲かる” 式の発想があったことは否めません。さて開戦直後に大打撃を受けあっけなく敗北した第1師団の師団長は韓国軍が軍事統制権をアメリカに放り投げた直後に准将に昇進します。これは戦闘の主役となる米軍との連絡役にうってつけだったからでしょうか、その後の彼は常に米軍と行動を共にして自身の部下を持つことなく翌1951年9月の停戦交渉開始へと活躍の場を移します。

それはまた別の話ですね。彼の指揮した第1師団の本拠地は現在の開城市(北朝鮮領)ということなので彼が戦争のことを多く語りたがらないのはそれが原因かもしれません。 ※もうじき100歳だね
 
 
 
 
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最近忙しくって。

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