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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国軍人にポーランド軍出身者がいた



特別総力読み切り特集⑰

韓国軍人にポーランド軍出身者がいた

満州国国軍やニホン陸軍出身者ばかりじゃない、南京政府の軍隊にいた朝鮮族も帰国したらすぐに将校さんに抜擢、軍隊が35年間無かった国では自己申告で階級が決まる。

イメージ 1[ミリタリーミーナ]こんなお話の前に”軍事英語学校”というものについて知っておきましょう この軍事英語学校は”1945年12月5日に1期生は60人ではじまり、主に日本陸軍士官学校満州軍官学校を卒業した将校たちに平均年齢は23〜24歳を超えた。1946年4月30日廃校になった。”っというようにわずか4ヶ月ほど存在した当時の米軍政庁が”英語の出来ない韓国人”のために作った学校でした。(ペク将軍が軍事英語学校卒業の扱いだけど通訳が必要なほど全然英語力が無かったという話はまた次回に...)

このわずか4ヶ月のあいだに110人が”卒業”しているといわれています、っといってもニホン軍などで将校の経験のあったのは2~3日で卒業ということもあったようで、軍事英語学校(Military Language School)というのはたしかに翻訳するとそれらしく見えるけど、すでに南北分割統治されていた朝鮮半島で右や左が入り混じっていたのを選別する意味で募集したものだと思われます。(朴正煕はこのとき間に合わなくて1946年9月に国防警備隊士官学校に入っています)

それで何をお勉強していたのかといえば”駐留する米軍に便利な通訳の養成”ってことだったようで”軍事用語を英語風に教育したり自動車の運転の練習をしていたり”したようですね。(お給料も出たらしい)

そのあった場所は朝鮮人を陸軍が徴兵しようと考えていた訓練所にあったようです、そしてこれが”韓国軍士官学校のはじまりだと考えられていますが、韓国軍もいきなり出来たわけじゃななくて”国防警備隊”っていうのが先にありましたよね

南朝鮮国防警備隊南朝鮮國防警備隊)は、大韓民国国軍の前身として、1946年 1月15日に米軍政が1個連隊の兵力で創設した。この日は、陸軍の創設記念日でもある。1948年大韓民国政府樹立と一緒に「陸軍」に改編された。



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▲ニホン兵が連合国の軍人を取り囲んでいる様子、ではない。三十年式銃剣をつけた九九式小銃も持って”国連軍将校”にお稽古してもらっているところ
軍靴までまったくニホン式を使っている。
※この格好を見れば多くの韓国人(1948年から韓国)はニホン兵だと勘違いする。慰安婦おばあさんを連行したのもこんな韓国人だったかもしれない。


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▲国防警備隊の軍装品はニホン陸軍仁川被服廠にあった在庫品の廃品利用から始まった手に持っている銃は陸軍制式九九式小銃改(7.62mmの30.06口径に改造されたもの)足に巻いているゲートルまでニホンのものまねとなっている



アメリカの軍政は1948年8月15日まで続いたわけですからその間には米軍がいっぱい駐留していたわけです、それが”韓国建国”にあわせて徐々に撤兵して”軍事顧問団”だけを残して帰っていったというあたりが朝鮮戦争のはじまる直前のようすですね。

こんなわけで1948年に陸軍ができて海軍のほうはというと、

”1945年 光復直後、孫元一を中心とした海事協会(Marine Affairs Association)の発足を皮切りに、同年11月11日には海軍の母体となった海防兵団、Marine Defense Group)を結成、翌年、朝鮮沿岸警備隊(Korean Coast Guard)に改称して、1948年大韓民国政府樹立と共に大韓民国海軍に正式発足した。”

っというのが歴史で語られているようです。この孫元一ってひとは”解体潜水艦”で名前を残しているひとですが、このひとは軍人の経験がまったくありません。なぜならニホン海軍は”朝鮮人”を一人も採用しなかったからですね。

当時の朝鮮沿岸警備隊っていうのはニホン軍が置いていった小舟を数隻持っていただけで、その後お金をあつめてアメリカ海軍から除籍されていたホワイトヘッドUSS PC-823(白頭山艦)を買ってきたひとでもあります、白頭山艦が韓国に届いたのは1950年4月になってからで、そのへんのところは過去カキコに書いてあります。

USS PC-823は検索すると韓国の方が丁寧な説明をつけてくれていますが、まぁだいたい間違って無いようで唯一”大韓海峡海戦”っていうのが完全なフィクションである以外は何の活躍もできずに済州島に燃料不足のまま放置されていたようです。

さて前置きが長くなりましたがポーランド軍出身の韓国軍人のハナシにようやくたどり着くことができました。

ポーランド軍出身者は陸軍士官学校、特3期出身のキム・サンギョム(金相謙)だ。元ポーランド軍の大佐で、韓国に連れて来た妻もポーランド女性だった。キム・サンギョム氏を日本の韓国戦史研究家の佐々木某教授が書いた韓国戦史本で発見した後にその方の身元が知りたかったけどこの前にイチオプ将軍の自叙伝で、あの方の略歴が短く紹介されていた。
キム・サンギョム氏は1898年、元山(カンウォンド・ウォンサン)出身だから彼が国軍に足を踏み入れた時の1947年に彼の年はすでに50代に入っていた。彼は帝政ロシアの時、ハルクマ陸軍士官学校に入校し、1913年ロシア陸軍士官、少尉に任官した。少尉に任官したという年齢が韓国の年で16歳だからその時のロシア陸軍士官学校はかなり幼い年令にも生徒たちを卒業させたようだ。1923年に帝政ロシア軍の武装解除と解体により、中佐として除隊した 。そして、彼が26歳の時に帝政ロシアの中佐になったのは、少尉に任官して10 年されていなかった場合の状況だから、少し疑いが行く。  少尉任官から中佐まで10 年も経たないということは、白人国家の軍隊で東洋人として破格的な昇進である。(韓国軍では即日少佐はもとより翌年に准将になりその翌年に中将になったようなのがいっぱいいるけどね)

そして帝政ロシアが崩壊して軍隊が解散すると、すかさず彼は1924年ポーランドに行って軍の大佐に任命された。彼は、ポーランド軍に大佐として勤務し、1929年に除隊した。ポーランド軍を離れた彼のどこで何をしたかは明らかにされていない。
その後、ギムサンギョム氏は、おそらく当時の人事権を牛耳っていた米軍に接触して国軍に入ってきたようだが、とにかく、上記の不確かなキャリアをそのまま認められて国軍の初代警備隊参謀長に就任した。  しかし、若い将校が主流となっている警備隊で、このような不慣れな軍隊から積んだ不審なキャリアの所有者が年齢まで多いため心良く見えたはずなかったものと思われる。
彼は麗水順天事件(1948年)の時の指揮官として鎮圧に出動したが無能が発見されて解任され、済州島討伐軍司令官に左遷された。その後のギムサンギョムの情報は、まだ見つからをできなかった。彼はその後韓国に住んでいたかどうかを再度、外国で出かけたかは未知数だ。
(麗水順天事件のあとに朴正煕は南朝鮮労働党にからんで逮捕されちゃう)


彼は、だらしない創軍の初期、ガラクタのような人間でも一押しの割り込む祈ったあの頃だったが、いずれにせよ、そのようなキャリアを持ったという人もいたことは興味深い論エピソードだ。


(翻訳:みそっち)



”建軍初期過程に過去日本軍や満州軍はもちろん、中国軍などの軍事経歴者たちを選抜したため、多彩な外国軍の背景を持った人たちが軍に入った。 その中にはとても特殊な背景や履歴を持った人たちがいた。 その例を見れば6.25動乱の時、東部戦線でよく戦った8師団長 李成佳将軍があげられる。
彼は、中国軍出身だが、他の中国軍の出身者とは違って、ニホンが中国占領地に汪兆銘を首班と建てた南京政府の国軍出身だった。 この南京政府はわずか数年続いて、汪兆銘(~1944)が死んだら権力闘争で消えてしまった。 李成佳将軍は、この短命な傀儡国家で少佐にまで昇進した。 そして韓国では6.25戦争で戦闘指揮をよくして軍団長にまで昇進して陸軍少将で退役した。”
  
”また、他の人物ではのちの全斗換(チョン・ドゥファン)大統領の義父となる李圭東(イ・ギュドン)将軍がいる。 彼は満州軍で経理関係の軍属だったが、解放後に帰国、38歳に陸軍士官学校に入って任官した。 他の人たちより年が入って任官したが、経理分野で頭角を表して後に将軍までなった。”


ほかにも面白そうなのがありましたが今日はこのへんで おしまぃ



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おにころを買いに