minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

信念の鳥人のひとが死んだ




戦争孤児1千人助けた6·25参戦勇士ディーン·ヘス大佐死去

あの韓国空軍の恩人?がアメリカで死去(98歳)


イメージ 1[国防ミーナ]6·25戦争当時、米国空軍のパイロットとして参戦し、韓国空軍の助産婦の役割をし、約1000人の戦争孤児を救ったディーン·ヘス予備役大佐が3日(現地時間)死亡した。享年98歳。

イメージ 2第二次世界大戦当時、戦闘機のパイロットとして活躍していたヘス大佐は1950年6月、米第6146基地部隊の部隊長に任命された。韓国政府の要請に米空軍のF-51戦闘機10台を韓国空軍に導くために創設された部隊であった。
当時、韓国空軍は訓練機のみあった。
ヘス大佐は、韓国軍のパイロット10人と一緒に日本米空軍基地に渡って、F-51戦闘機を大邱空軍基地持って来た。

※戦闘機を空輸したのはアメリカ人10人ですよ、過去カキコ超時空空軍戦記をよく知ってみる。

「バウト·ワン」と呼ばれるこの作戦は韓国空軍の建設作戦だった。6·25戦争で250回以上出撃したヘス大佐は、初期の航空作戦を主導した。

空軍関係者は「当時、米空軍のパイロットは100回出撃すると、非戦闘地域である日本やアメリカで転出されたことを勘案すれば、彼の犠牲の精神使命感がどのよう透徹したのか知ることができる」と述べた。F-51戦闘機操縦教育まで引き受けた彼は韓国空軍の礎石を立てた。彼の専用機であるF-51Dムスタング18番機には、「信念の鳥人(信念の結合)」という句が刻まれていた。

イメージ 3モットーである「信念で飛行する(By Faith、I Fly)」を移したこと。ヘス大佐は整備士であったチェウォンムン軍曹に自分のモットーを翻訳してくれと頼んだ。
※ここもちがう、戦闘機の整備はアメリカグアムからやってきた第4772整備中隊がしていて韓国人の整備士は1953年から

この機は、大韓民国空軍パイロットの気象を象徴する表現になった。1982年には「信念の結合」という軍歌も出てきた。1975年作曲された「必勝空軍」という軍歌でも「空高く噴きと信念の結合」という歌詞がある。

ヘス大佐は1951年1·4後退直前中共軍が降りてくるとき、米空軍の牧師だったラッセルブレイズデル大佐と一緒に1000人余りの戦争孤児を金浦から済州に避難させた。捨てられた孤児たちが寒さと飢えに耐えられず死んでいくのを見て、米空軍指揮部を説得したのだ。彼は「韓国のマザー·テレサ」と呼ばれたとファンオンスン夫人、空軍の軍医だったとギェウォンチョル将軍と一緒に済州で10ヶ月間保育園を運営した。1956年にアメリカに帰りながら孤児の少女一人を養子縁組し、20年間の戦争孤児を支援した。


(翻訳:みそっち)



かれらは嘘つきですから事実じゃないことでもさらりと言ってのけるんです、とくに最近の記者なんかだと最近作られたドラマや映画のシーンが実際にあったものと認識しているらしくて多少つじつまの合わないことでも何度も繰り返すうちに自己暗示のようなトランス状態から”超時空戦記”を書き上げたりしちゃうのです。

1950年6月中旬、米極東空軍司令部に配属された彼は、当時米空軍でサポートしたF-51ムスタング戦闘機10台を韓国空軍に導くために創設された部隊の部隊長に任命され、韓国空軍の戦闘機のパイロットを訓練した

韓国空軍によると、戦闘機のパイロットである故人は、1950年7月から1年間、韓国空軍の戦闘機のパイロットを訓練させただけでなく、自分も25​​0回出撃している任務を遂行した。
http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2015/03/04/0200000000AKR20150304128500043.HTML


別名「Bout one」と命名された韓国空軍の強化プログラムは簡単だった。大隊級部隊である第6146部隊が、F-51ムスタング戦闘機10台を持って韓国に行って韓国空軍パイロットと整備士を教育させた後の戦闘機を韓国に引き継ぐものであった。


それでも空輸してきたF-51ムスタングの操縦を韓国人にさせたようですよ、そしたらすぐに墜落しちゃって”韓国空軍初の戦死”、ところがこのF-51単独墜落事故もあれよあれよと尾ひれが付いて”南進するキタ朝鮮戦車部隊に果敢なミサイル攻撃をしかけたあと被弾するや敵装甲車両に突撃した”なんて書いちゃうんです。 関連過去カキコ:ニホンの陸軍士官学校、1945年3月入校


特に、彼は1951年1·4後退以降、中共軍がソウルにどっと降りてくると、米空軍の牧師ラッセルブレーズ·デル·中佐と一緒に15台のC-47輸送機を動員し、1千人の戦争孤児を済州島に無事に避難させたことで有名である。彼は後に「戦争孤児の父」と呼ばれ始めた。
ふぅ~~ん、なるほどねぇこういったあたりは過去カキコにまとめてあります

C-47っていうのはダグラスDC-3のことですからニホンでは零式輸送機の名前で400機以上も作られて飛んでいました


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▲機体の整備も韓国人が触れるようになったのはずいぶん後のことになる


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▲どっかのバカがまちがったキャプションをつけた例、ただし攻撃に”発進”するのではなく”訓練”に発進するのだと思えば間違っていないかも
※韓国人パイロットは地上滑走だけで2機壊している。


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▲韓国人パイロットに操縦を教えていたようす、韓国人パイロットが実戦に参加するのは停戦交渉が始まった1953年ころから
※かれらが何語で会話していたのか謎になっている、離陸許可も理解できないのが操縦桿を握るとおもうと危険がいっぱいでしょ


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▲1959年に孤児救出で李承晩大統領に褒めてもらっているところ
※この翌年にはハワイに逃げ出すことになる李承晩大統領

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▲武功勲章をもらったところ、もちろん戦時中の写真じゃないです(釜山まで後退したあとに勲章なんか無かったでしょ)

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▲1956年に自伝を書いたので李承晩大統領にあげてるところ、※孤児対策に李承晩大統領は1銭も出さなかったことは割と有名


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ヨドバシカメラの歌で有名なあれ、ご一緒にどうぞ♪♫♬



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▲この活躍は1957年にアメリカで映画化され”戦争賛歌(Battle Hymn)”という題名で公開されました。 もちろん飛行機はホンモノですがパイロットは全部アメリカ人で、橋梁爆撃までアメリカ人がしたことになっています。韓国人パイロットのはなしは一言も出てこないけどね


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▲米国オハイオ州ボストンで行われた「米空軍博物館韓国戦争館の開館式」でディーン·ヘス(Dean Hess)大佐と、わがもの顔のバク?ジョンホン空軍教育司令官が韓国寄贈遺物前で記念撮影 ※この施設はアメリカにあります




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生きてたんだね、ウソがちいさくなってたよ