minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

キムチは伝染病に効くだけじゃないんだ




キムチが伝染病予防薬だったというカキコが発見されたよ


角切りキムチは伝染病予防薬
2015-06-19 08:31


イメージ 1[きむちミーナ]韓国人にキムチは薬だった。 田舎ではわずか数十年前までは、子供らが腹痛をしたらお祖母さんが甕台から涼しいトンチミ汁や白菜キムチ汁を食べさせ、苦しい腹をすかしてくれたのにキムチの汁に本当に薬効があるか、あるいはおばあちゃんの心のおかげか腹痛が治ったようにあった記憶がある。
 
1970-80年代の暖房に練炭をたくさん使っていた時代にもキムチは薬だった。 練炭ガスに中毒されば、遅滞なくドンチミ汁や白菜キムチ汁を飲むと中毒で目覚めることできるとし、応急処方でキムチ汁を奨励した時代もあった。 事実12年前、中国に重症呼吸器症候群、サーズが蔓延した時も、中国人は韓国人がキムチを食べるから感染がうまくいかないとし、わざとキムチをみつけてたべたりもした。
練炭中毒にキムチ汁が効くと噂されたのはなんと”宣粗(1552~1608)”のころだという与太話がある、朝鮮人化石燃料を使うようになったのはニホン統治時代からである
 
キムチなしには生きられない我が民族にキムチは昔から立派な薬だったが、さらに、朝鮮時代には実際に水キムチを伝染病予防と治療薬を処方したりもした。
 
朝鮮中宗の時の1524年、平安道龍川地方で伝染病が大きく回った。 その年、死亡者だけでも670人に上ったが、その膨大な数字でもあるが、当時、隣人地方の人口が1,200人ほどだったそうで俗っぽい言葉で地域全体が伝染病で廃墟となった。 これにより、平壌監査が問責されて朝廷が騒しくなったが、このとき、伝染病予防と治療に使われた薬が水キムチのだった。

翌年、中宗(チュンジョン)は昨年あった伝染病が再び広がることを未然に防止するため、防疫措置を施す一方、衣冠のキムスンモンとパクセのをさせて'ガンイビョクオンバン'という医学書を出した。 ガンイビョクオンバンは漢文を学んでいない一般の民も読まなければならなかったので、純韓国語で書いたが、ここに伝染病予防のためにカブでつくった水キムチ汁を大人子供関係なくいずれも一杯ずつ飲みなさいと指示したという内容が見える。
 
一見、伝染病阻止とし、水キムチ汁を飲むようにとしたことを昔の人々の根拠のない民間療法だと指摘することもできるが、食べ物や薬がお互いに変わらないという料理動員の観点から見れば、大根は野菜の中でも最も有利な作物であり、小便をコントロールして衰えた力を補充すると述べただけに、伝染病が蔓延している地域で患者気力を補充して病気を予防し治療するのに役になったかもしれない。
※カブなどに含まれるカリウムに利尿作用があるらしい
 
薬を買う金もなく、きちんと治療する余力がない力無き民たちだけが水キムチを食べて伝染病を予防したわけでもない。 朝鮮時代には、王も体が不自由だったら、キムチの汁を飲んたが、代表的な人物が朝鮮時代の最長寿の栄誉を享受した英祖王だ。
※英祖1724-1776 韓国の与太話には頻繁に登場する王様、長生きした
 
英祖は消化不良のためだったのか食べ物をよくあげられず、それでいつも食欲がなかったため内医院で格別に注意を傾けた。 英祖が食欲が落ちたときには食欲を取り戻してくれる食べ物がいくつかがあったが、キムチの汁もそのうちの一つだった。 承政院日記には英祖が食欲を失った時は魚の中では早期を好んで聴き、あるいはコチュジャンやキムチの汁で食欲を取り戻したと出ている。 英祖の頃になると、今と同じ白菜キムチはまだ広く広がった前だったので、多分大根でつくった水キムチの種類ではないかと思う。
 
中東呼吸器症候群メルスのために国が不安だ。 こんな時こそ、キムチとごはん一杯さっと平らげて活気に満ちた生活するのが一番よい予防法ではないか。


(翻訳:みそっち)



有名なハナシでは李承晩はキムチが嫌いだったそうです、外国暮らしも長くオーストリア人の奥様を貰ったのでキムチを嫌いになったのでしょうね。上海臨時政府時代の内輪もめで代表を干された原因もキムチを強要するほかのメンバーとの軋轢が原因だといわれています。 
時代はさらに遡り、朝鮮の王様がキムチを食べていたのか?というと、広義の意味でのキムチとして水キムチがあり、食べられていたことは記録にもありますが、現在のような塩漬け白菜に唐辛子調味液をまぶしたかたちのキムチは当時は存在していなかったので少なくとも支配階級にはキムチを食べる習慣はなかったようです。


関連過去カキコ
信じていたキムチ冷蔵庫の裏切り オススメだけど 閲覧注意 


◆ ◆ ◆

 

[再掲載]

無理に宣伝されたキムジャン(キムチの漬込み)文化
 

朝鮮時代のキムチ漬けの写真からみるキムジャン文化の大嘘 
キムジャンっていうのは塩漬け白菜に調味液を混ぜること?、それならキムジャンの起源は1970年代ってことになるんだけど。
 
イメージ 3[キムチミーナ]ここに数枚の写真がある、どちらもキムチ漬けの様子を捉えた写真だ、この写真を詳しく見てみるとこれらの写真はほとんど同じ場所で撮られていることがわかる。
 
写真の説明の多くは”朝鮮時代のキムジャン”になっていて、多くの瓶が並んでいることから”金持ちの屋敷”での撮影であるとか”白菜キムチは朝鮮時代から食べられていた”などといった与太付いた説明がついていることが多いようだ。
 
イメージ 1
 
大小の瓶が並ぶ手前側ではどのようにも説明のできる作業が行われている
多分、洗濯をしているようには見えないだろうが、”キムジャン”の真っ最中だとしても薬味をこれだけ並べていたのでは”非能率的”にしか見えないのだ
 
この写真に登場している女性たちは何者なのだろうか?、この写真にウソは無いのだろうか。
 
イメージ 2
 
 
まずこの写真を撮影した場所について見てみよう、お堂のように見える建物の境内とでも言うような場所なのである。すくなくとも人が生活する住まいでは無いようだ。
建物の脇では子供がこちらをみている、そして漆喰で固められた石塀の前に大小の瓶が無造作に並んでいる。
 
個人の住居としては大きな方だが女性ばかりの使用人が主人家の分のキムチを漬けているとでも言いたそうな構図となっている。
※朝鮮時代には使用人のいる金持ちの家などは存在していない、(貨幣自体が無い)奴婢は勝手に好きなところに住み、少数の両斑身分でも使用人は置かずに質素な暮らしをしていた。

イメージ 8

▲記録用として撮影されたキムチを漬けている光景はこの他にも数種類のシーンがある、実はこれらの写真は”朝鮮風俗”を記録した絵葉書に使われたものだ。

ニホン統治時代になり朝鮮半島では衛生面でも格段の改善が行われたが、数次にわたるコレラ患者などの多発と風土病の蔓延により朝鮮半島に渡るニホン人はほとんどいなかったとされる。そんな朝鮮の惨状を広く知らせるために撮影班が組織され、~1930年頃までに、現在に残るこれら数多くの”朝鮮風俗”が記録された。この時期に”朝鮮人”によって記録されたものはほとんど無い


イメージ 9

▲キムチ漬けを朝鮮人に奨励したのはニホン人だということだろうか

 これらの写真について解説をしよう 、現在の”キムジャン”との大きな違いがいくつかある。まず、下の写真だとよくわかるが作業台の上に”たらい”に入った材料が並んでいる、小さいのは唐辛子だろうし白いのは塩や米汁かもしれない、その混ぜられた調味液を塩漬けされた白菜にまぶすことが”現在”のキムチ漬け作業だとすればあまりにも手際の悪さだけが目に余る。なにしろザルに上がったものまで後ろにならべているのだ。
写真中央手前側の女性は瓶の中に手をいれていて中に入れる白菜がその左側にあるものだとしよう、これにキムチを漬けたら重さは30キロ近くなるのではないだろうか、これを動かすというのだろうか?
 
流しの下に置いたぬか床を想像してみて欲しい、あれでさえ一般家庭にあるものなら10キロを超える重さがあるというのに30キロを超えるキムチ瓶を”陽のあたる路地”に並べていたのが”朝鮮時代”だったとでもいうのだろうか。
 
 
イメージ 4
 
この瓶がキムチ用、あるいは味噌用だとしてこの大きさから見ると小さいものでも中身が入れば重量は30kgを超えるだろう、大きなものでは200kgをゆうに超える重さになる、特に石塀のそばに置かれた大型の瓶は一段高くなったところに置かれているにもかかわらす小さい瓶は足元に置かれている、中身が入った大きな瓶をわざわざ高いところに上げたりするだろうか。
朝鮮時代には商業というものが存在しなかったので”一般向け小売用キムチ漬け風景”という説明もにわかには信じ難い。ならば”自家消費用”だとしても複数の参加者をあつめて共同作業としてキムチを漬けているという説明にも疑問が出てくる。
 
”朝鮮時代は女性が共同してひと冬分のキムチを漬ける習慣があった”とでも言い出せば納得がいくというのだろうか?、その移動不能なほどの大きな瓶に漬けた大量のキムチを複数の世帯が分け合って食べていたことにすれば”現在”のキムジャン文化に通じるものがある。>>>>そんな未知の考えからはじまったのが現在の”強制押し付けキムジャン文化”なのではないだろうか。
 
 
イメージ 5
 
▲毎年この季節になると”ヤクルトおばさん”がソウル広場で”愛の分かち合いキムジャン”を始める、お年寄りの一人暮らし家庭には10キロものキムチが届けられる、写真はおばあさんの家に上がり込み、口にキムチを押し込む様子
※今年も11月14日ソウル広場です
 

石塀のそばに置かれた大きな瓶にキムチが丸々入るとして底のほうのキムチはどのように取り出すのだろうか想像してみて欲しい。
 
また写真の中には水場が見当たらない、衛生観念の無かった朝鮮時代だったとしても現在ではゴム手袋で完全装備をしての”キムジャン”の日なのにあまりにも無防備なのだ。
 
朝鮮半島で白菜が栽培されたのは1910年代からであり、現在のキムチの形が完成したのは1930年代だとも言われている。食用として唐辛子朝鮮半島で大量に栽培され始めたのもそのころである。
 
 
ここまで解説したところで写真の隅に”計量秤り”でもあれば笑いものとして魅力があるが、とりあえず今日のところは”朝鮮時代のキムチ漬け写真”はヤラセじゃないのか?というところまででおしまいにしよう。
 
 
 
(テキスト:2ちゃん番長)
 

 
実は”朝鮮時代”を写したとされる写真のほとんどは撮影者もわかっているものらしいです、レンズの画角を比較することで写真機を同定することができますし現在ではネット情報などからも同一の写真を探しだすことが可能です
例を挙げれば以前にまとめた”猫車”の写真ですが、あれはニホン人撮影家が朝鮮人にポーズを取らせて撮影したものだということがわかっています。そしてその撮影時期も比定することができるわけです。

その撮影時期は1929~30年ということですから。朝鮮時代の生活や文化を残そうとしたものであると考えられますが、なんと昭和のころの撮影した資料を韓国コンテンツ振興院では堂々と”朝鮮時代のキムチ漬け風景”と紹介しているところがかわいそうでなりません。薄々勘付いている韓国人もいるようですが、”韓国型単一思考教育”の前では、”5000年の歴史を持つキムチ”というのが一般的に信じられているものだと知られていますよね。 アハハ
 
 
 
イメージ 7
 
▲朝鮮の市場で白菜が山積みされている写真も同じく1930年代の撮影
 
 
 
イメージ 6
 
内容と編集方針が違ってる場合もあります