あの日あの時、1970年代のソウル生活
買い占め売り惜しみ
練炭品薄買い占め「極性主婦」
大きな家ほど「積み置く、掻き集める」
前払金を預け1〜2ウォン上回っても
1973年12月の記事を見ると、練炭事情がこのように悪くなった原因として、主婦たちの行き過ぎた「積み上げておく」「掻き集める」作戦を指摘しています。練炭配達人は、配達を促す家庭ほど、いざ行ってみると山ほどもの練炭が積まれていると言いました。さらに、事前に前金を預けておいて練炭値も他の人より1本あたり1〜2ウォンより与えるながら大量注文をする欲張りな家もあったそうです。
▶越冬準備のために練炭をあらかじめ買っている主婦たちの姿。とりあえず練炭は物価の優等生として価格は厳しく監視された。手が黒くなる配達のアルバイトは上京してきた苦学生の役目だった。
韓国ソウルで夜間外出禁止令がなくなったのは1982年のこと、テレビ放送は午後11時まで延長された(カラー放送は1980年から)
足りない練炭
1973年11月27日、ソウル市は、練炭の需給計画を修正しました。燃油波動に練炭の需要が急増したことが主な原因でした。さらに、仮需要さえ増え、一日に練炭が860万個も売れるなど、当初ソウル市が予想したよりも350万個も足りなかった。
ソウル市はソウル市内練炭の需要を一日5百15万個と見越して、冬練炭の需給計画を立てました。しかし、燃油難のために練炭の需要が急激に増えることにより、11月24日には860万個もの記録的な練炭が売れました。このように、練炭の需要が急増したうえに練炭の生産量は鉄道の輸送事情が悪くなるに従って、ソウル市練炭の需給計画に支障があったとします。
▶練炭を買って行くために並んでいる人たちの姿。 練炭は粗製濫造の時代から計画的粗製製造へと変化してゆく。
主婦の憂いを軽減します。12時間持続する練炭
「練炭ああ、練炭ああ、長い長いニダよ「1978年2月、石炭工業技術研究所の研究者たちは、24時間ずっと練炭の火だけ見て座っている主婦たちが一度か二度だけ履きこん夜明けまで睡眠ですっきりしておはようを入れることができるよう、”2交換型練炭”を試験しました。
最初の3日間のテスト結果4600キロカロリーのものが基準燃焼状態に応じて、6時間だったものを19時間30分まで乗せることができるということで記録したそうです。しかし、この結果は、あくまでも実験室のデータであるだけで、一般家庭で使う練炭規格を保証するためには、わずかの境界に入った初歩的なテストに過ぎていました。
※現在の練炭の標準燃焼時間は4時間~7時間程度
※長持ちさせようと空気口を閉じると途端に一酸化炭素中毒になる。カナリア(十姉妹)を買うことが流行したのはそれが最大の理由だった。
ソウル市内でガスが一般的に使われるようになったのもこのころのこと、ニホン製のプロパンガスボンベが中古で大量に輸入され液化石油ガスが普及しはじめたのは1980年代になってから
新しい22号炭の標準規格発表、以前よりも直径が6mmちいさく
1974年4月6日、工業振興庁は新規販売されている3.6kg建ての22号炭の標準規格を制定発表しました。この時発表された22号炭(3.6kg型)の標準規格は、従来の4kg建て22号炭と高さが同じで直径が6mm短く、また、カロリーが1千4百80カロリー減でした。新しい22号炭は1974年まで使用してきた22号炭オーブンでも使用が可能であったが直径が少しちいさくなったため、練炭と火鉢の間の空間が広がり、カロリー消費が増えてきたことで工業振興庁では新しい練炭規格に合った新しいかまどを作成販売したりしました。
▶多様な規格サイズを持っている練炭の種類。 それぞれが専用のコンロで使用されることが理想的である。
練炭ガス中毒のみ5万人が死亡
今ではワカラナイ話だが1970年代のテレビの「死神(死神)」、一酸化炭素中毒が1年に人口10万人当たり272人に達しました。練炭使用人口2千万人のうち、毎年5万人が練炭ガスで亡くなったり苦しんでいるという事実が、1974年ソウル大学医学部のチーム疫学調査の結果で明らかになっていました。
▶練炭を換えに行くたびに辛い練炭ガスを引き受けなければならならなかった。
また、研究チームは、一酸化炭素中毒の回復がどうかを調べた結果、一度ガス中毒にかかると全体の5〜6%程度が取り返しのつかない後遺症を残る明らかにした。
これらのガス中毒事故は、その当時、毎年増加する傾向を見せたが調査で練炭ガス中毒は、他のどの事故や病気よりも数十倍もの国民保健を蝕む存在で明らかになって練炭ガスの根本的な対策が早急に立てなければならないという意見がでていました。
▶練炭ガスを飲んで病院に運ばれてくる人が一晩に一度や二度あった。
▶舶来品はとくに厳しく取り締まられたりした