minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

'ゴム靴こそ韓国の真の固有の文化


日帝強占期に入ったゴム靴、韓服の基本だ

歴史と伝統がゴム靴だって? 朝鮮皇帝も履いたゴム靴
1960年代の国交回復からニホン向けのサンダル下請け生産で活況に


イメージ 1[ソウルミーナ]韓服はわが民族の服でありながら、もう、大多数の人々にそっぽを向かれた道で韓服を着た人を見ることが難しいです。

ところが、韓服を着た人を見るとゴム靴を履いた人が多いですね。 まるでゴム靴が韓国の伝統浮かれてなるように言葉です。 それもそのはずが我が韓国の韓服で学界最高学者であるとの方は自分の本に、"最近はたいていゴム靴と靴を兼用しているが、韓服には足袋にゴム靴を履くのが原則だ。"としていました。 正しい言葉でしょうか。
  
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▲60~70年代に人気を集めていた黒いゴム草履(左)、鋼鉄よりもっと丈夫という日帝強占期の地球印ゴム靴広告(右)


イメージ 6日帝強占期直前まで朝鮮人は、裸足か草鞋と草履を主に、両斑らは革で作った革靴でテサヒェ(太史鞋)やダンヒェ(唐鞋)を履きました。 しかし、草履やわらじはザラザラしているだけでなく、不便で雨が降る時に履く下駄も厚い足袋を履かなければ、足が痛くて遠く行くことができませんでした。

このような朝鮮人にあった1910年代末、ゴム靴が入りました。 ゴム靴は"ホモファ(護謨靴)"としたが、"ホモ"の日本式発音が"ゴム"だったのです。

ゴム靴は、わらじ五足分の代価を払ってやっと一足買うことができるほど高かったが、着用感がよく、経済的なゴム靴の需要は爆発的でした。

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当時、ある新聞では"昨年(1921年)以来、ゴム靴がどうしてよく売れるか京城はもちろん、地方僻村で、草履を履いていた人までようやくぐにゃぐにゃしたゴム靴を履けるようになった。"としたんです。
しかし、このようなゴム靴は丈夫ではあるが、汗が私ば、抜け出すことがないため、衛生上で深刻な問題がありました。

これによってゴム靴中毒によって、幼い子供と女子生徒たちの足に腫れ物やできものが出来て問題を起こすという報道が新聞に出たりしたんです。
※ゴムの成分で足裏が茶色になるらしい
  
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そのようなゴム靴を韓服に基本だとは、まったく合わない話です。 韓服は朝鮮時代に定着した服です。 したがって、韓服を着るときは、朝鮮時代の人々が履いていた靴を履くのが原則だと言うべきことです。
ただ、今では草履や紙のわらじを履いては悪いので、それに固執することはできないのです。 今テサヒェに踵をつけて改良したものが出て、国楽人らが公演する時履く革靴があって韓服には似合います。


◇ ◇ ◇


伝統革靴と草履を模倣して製作されたゴム靴は1916年、日本の植民地時代に大いに流行した。 手頃な価格と強いゴム材質で作られたゴム靴は長く履くのにぴったりだった。
ゴム靴は、当時にゴム製品では履物が唯一の生産品だった。 また、革靴やダンヒェ・草履より防水がうまくなって実用的であり、価格も紙が25銭に比べて40銭と安かった。
ゴム靴の需要が増えたのは日本の靴業者らが朝鮮に入ってきて出す販売を開始してからだ。 これによって数千年間、庶民が履いていた草履は急速に消えて、ゴム靴は需要の増加で品薄現象が起きたりもした。

朝鮮で最初にゴム靴を履いた皇帝は純宗(在位1907~1910年)だという。 このように朝鮮の人々にたくさんの愛を受けてきたゴム靴は値段が安くて便利であり、長持ちする長所だけでなく、皇帝、両班(ヤンバン)、商人、白丁の誰彼なしにみなが好んで履いたために身分を判断できない靴つまり'平等の靴'だった。
 
イメージ 81960年代ソウルの町はずれを背景に描かれている我が国の代表アニメ'黒いゴム靴'も一時代を風靡したゴム靴の'平等さ'を加味した思い出の漫画だ。 3代が集まって住んでいる大家族の家の息子の小学生のキエイと丸坊主の中学生キチョリが行ったさまざまな物語の中に貧しい環境も家族間の愛で勝ち抜くメッセージを込めて、国民に愛されてきた作品だ。 
一方、1960年頃から足の皮膚と衛生的な面を考慮して製作された運動靴と西洋から入ってきた靴が生活化されてゴム靴は次第に姿を消したものの、依然としてゴム靴は、当時の時代的背景を見せてくれている。

今はたとえ'変心'したときに使われる言葉で意味が変形された部分もあるが、厳しい時期を乗り越えとした1900年代当時、国民の必需品'ゴム靴'こそ韓国の真の固有の文化ではないだろうか。




ゴム靴

英語の表示:Rubber Shoes
分野:政治・経済・社会、経済・産業、生活・民俗/生活
タイプ:概念用語/概念用語(一般)


[定義]
釜山地域でゴムを材料にして作った靴。

[はじまり]
開港と共に釜山地域に新たな物資が流入し始めたが、ゴム靴も当時、流入された物品の一つだった。 ゴム靴が入ってくる前まで韓国人たちが愛用していた最も庶民的で大衆的な靴は、まさに草鞋だった。 しかし、草履はすぐになくなる上、雨の日には白い足袋が濡れてしまっている反面、ゴム靴は耐久性と着用感が優れて防水がうまくいってたいへんな人気を集めており、高級品で認識された。

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日帝強占期から生産され始めた黒いゴム靴は光復と6・25戦争を経て、大韓民国最高のアイコンになった。 当時、ブームは最近流行する'ナイキ'や'アディダス'それ以上だった。 代表的な黒いゴム靴ブランドは、大半が釜山地域で生産されており、国際化学・テファゴム・三和ゴム・東洋ゴムなどは韓国の靴産業の先鋒であり、中心地だった。 これは1965年の韓日国交正常化後、日本の靴業界が、低賃金や豊富な労働力の活用が可能な釜山を生産基地にしたのが決定的なきっかけになった。

[変遷及び現況]
釜山(プサン)地域の靴産業は1923年8月釜山広域市東区佐川洞688番地に日英ゴム工業社を設立したことから始まった。 日英ゴム工業社は、当時、年間19万2000足のゴム靴を生産した。 1925年21ヵ所だった靴の工場が1933年72ヵ所へと急増すると、政府が13ヵ所の靴の工場を合併した。 これによって1934年9月18日、東区凡一洞に三和ホモ(三和護謨)が設立された。 当時、年間1000万足を生産できる施設を備えており、、1937年日中戦争当時には軍需工場の役割を担当した。

光復以後、釜山(プサン)の靴メーカーは、サムファゴム[1952年に設立、三和ホモ払下げ]・ボセンゴム[1936年に設立]・朝鮮ゴムなどの敵産工場と京城ゴム・ササンゴム・天日ゴム・新興ゴム・新羅ゴムなどの土着資本、国際化学[1949年に設立]・テファゴム[1945年に設立]・東洋ゴム[1953年に設立などの新興の資本が三つ巴(三巴戰)を浮かべながら成長した。

1950~1960年代の代表的なゴム靴商標では京城ゴムの満月ピョ、国際化学の王子印、太和ゴムのマルピョ、三和ゴムのボムピョ、東洋ゴムの汽車票、チンヤンゴムのチンヤンなどがあった。
ゴム靴工場は現在の釜山鎮区凡川洞、東区凡一洞など洞天(東川)周辺に密集した。 洞天では産業用水の供給を受けて、近くに追い込まれた避難民で労働力も容易に確保することができたからだった。 これによって太和ゴム、三和ゴム、東洋ゴム、チンヤンゴム、ボセンゴム、大洋ゴムなどがこの洞天一帯でゴム靴を生産した。

1960年代半ば以降、日本から新しい靴製造技術が入って布靴[canvas shoes]、ケミファ[人工皮革、化学繊維利用、chemi shoes]の生産が増加した。 1970年代以降は、生活水準が向上され、靴の主力製品がゴム靴からスニーカーに変わってしまった。


(翻訳:みそっち)



履き物のハナシですね、むかしの履き物はというと草鞋風のものはありますが朝鮮の足袋には指がありませんからニホンのものとは随分違います。
※ニホン人はつま先が二股になってるからブタ足のチョッパリなんだからね

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1930年代の再現された朝鮮風俗写真では何だかよくわからないものを履いています。しかしつま先が二股になっていることはありません。

そうなると、草履(ぞうり)もニホンと違ってサンダル式になります。ということでビーチサンダル形式のものは韓国ではあまり見かけません。


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それにしても、”国民の必需品'ゴム靴'こそ韓国の真の固有の文化ではないだろうか”
って何かすごくない?

そういうわけでこれから韓国人のことをゴム靴と呼びましょう コムシンね




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