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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

鈴木孫一または原田信種というハナシ


朝鮮人になって、一生国を守る、金忠善(金忠善)

何度論破されても不死鳥のように繰り返す主張ってこれも韓国型?


私たちは小さい頃から歴史(歷史)を学んで偉人伝も読むが、長くて長い歴史の中で国のために身を捧げた英雄たちをみんな分かっていない。
李舜臣(イ・スンシン)将軍のように、後代によく知られた偉人のほかにも、多くの英雄がいた。
今回は李舜臣(イ・スンシン)将軍とともに文禄・慶長の役の時、国を守った長寿'金忠善'の話だ。


金忠善は1592年の文禄の役加藤清正(かとうきよまさ・加藤清正)の右先陣として参戦したが、慶尚道兵馬節度使の朴振(パク・ジン)を通じて朝鮮に帰化した。 丁卯胡乱丙子胡乱の時、敵を撃退しながら、何度も大きな功績を立て、その後も国のために66歳まで戦場に出て戦った。 先祖に自ら'金忠善'という名前を下賜されて嘉善大夫(従二品相当)の官職まで上がり、その功労が認められた。

ニホン版Wikiココ ※誰だかわからないのにチョウセン人が主張している


1592年4月14日、釜山沖に数多くの船が停泊した。 日本軍らは明に行くので、道をつくってほしいとし、朝鮮はこれを拒否した。 中華の本家を打つという朝鮮が日本の要求に応じるわけがなかった。 当時、日本の戦国時代を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし・豊臣秀吉)は野心的に準備してきた大陸侵略戦争を命じた。 東アジア全体の盟主になるということだった。 'デッポ(てっぽう)'(中国では'鳥銃'と呼ぶ)新兵器を掲げた3千人余りの日本軍はスムーズに押し寄せており、刃物と槍を掲げた朝鮮軍は新兵器を受けて出すことができない、釜山鎮は陥落した。 侵略者たちの先鋒には火縄銃部隊の隊長、さや(沙也可)がいた。 ところが、釜山鎮陥落後、その恐怖の人物は数百人の部下らと共に忽然と消えた。

数日後、無口な長寿の命令のもと、今回には朝鮮軍が火縄銃を持って現れた。 予想しなかった攻勢に倭軍は困惑した。 朝鮮軍は破竹の勢いに乗って出かけて、倭敵が占領した18地域の城を奪還した。 後日、人らは言葉もなく朝鮮軍を率いていた長寿、ベールに包まれたその人物がまさに忽然と消えた二十二歳、日本のサムライ沙也可というのを分かるようになった。 そして彼の新しい名前が金忠善ということも明らかになった。
※およそ100年後の18世紀になって書かれた朝鮮説話の内容を裏付ける史実はニホン側に記録には何も残っていません。


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▲活躍のおよそ140年後に作られた物語が韓国では史実であったように伝えられている



日本人沙也可、彼の行動
当時、沙也可の日本での行動は残っていない。 沙也可の家門も日本から消えた。 彼の文が掲載されたにも、沙也可が日本でどのように生きていたかについて出ていない。 長い歳月が経ってようやく日本の歴史学者たちは沙也可の過去を復元しようと乗り出した。 その結果、二人の人物に絞られた。 鈴木孫一または原田信種、これらは、文禄・慶長の役の出場以来、行方が分からなくなった人物だ。



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鈴木孫一という主張は、沙也可が火縄銃専門家だったという、但し書きで始まった。 当時、日本には鳥銃を直接製造して撃つ集団がいくつかあった。 その中で和歌山(わかやま・和歌山県の'雑賀'と呼ばれる部隊が全国的に威力をふるったが、その組織は、文禄・慶長の役が起きる7年前、豊臣秀吉によって焦土化されてばらばらになってしまった。 秀吉の支配に反発している永住と仲良しだという理由からだった。 この雑賀部隊の隊長が鈴木孫一、すぐ沙也可ということだ。 実際に鈴木孫一は出征後、行方不明になった。 


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▲金忠善の詩文集<モハダン文集>。およそ100年後の1798年(正祖22)6貸倒れ半蔵が刊行しており、その後、1842年(憲宗8)の中間された。 /韓国民族文化大百科

原田信種という主張にも豊臣秀吉との縁が明らかになっている。 日本の伝統の家系である原田信種は、豊臣秀吉に領土を奪われて強圧的に秀吉の側近である加藤清正の下に隷属されてしまった。 これによって原田信種は、豊臣秀吉加藤清正を仇で思ったのであり、彼らに復讐をするため、切歯腐心したと歴史学者たちは推測している。

彼は最初から文禄・慶長の役大義名分のない戦争と見た。 そして日本軍らが罪のない子どもと婦女子を虐殺することを見て大きな会議を感じた。 <朝鮮王朝実録(朝鮮王朝實錄)>によると"沙也可は戦争中に本人の命より両親の命を大切にして年老いた親の背中に背負って逃げた朝鮮人の姿で大きな感銘を受けた"という。 彼は5百人の部下らと共に朝鮮人側に立つ。
朝鮮に帰化して戦うという敵将の手紙を受けた兵馬節度使パクジンウン苦心の末にこれを受け入れた。 沙也可は、倭軍たちから取っていた火縄銃で朝鮮軍を訓練させ、火縄銃部隊を作った。 彼は士気が落ちた官軍を激励し、一方で自発的に参加した義兵たちを語らって部隊を新たに訓練させた。 チョチョンウィの使い方だけでなく、火縄銃と火薬の製造技術を伝授した。



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金忠善が使っていた火縄銃と伝わるもの

李舜臣の<乱中日記(亂中日記)>には文禄・慶長の役が始まった翌年、朝鮮軍が日本軍の鳥銃を模倣して製造することに成功したという記録が出ている。 以降、日本の新式兵器弔銃で武装した朝鮮の軍事はわずか1年も経たないうちに日本軍と対等な戦闘が可能になった。 そこには、朝鮮に投降した日本軍、ハンウェ(降伏した倭人)の役割が大きかった。 金忠善のほかにも<朝鮮王朝実録>には40人を超えるハンウェの活躍が記録されている。

"所長が帰化した後に本国の併記を見回る時、刃物と槍と斧と弓がいるとは言え、直接戦闘にされては使えそうな兵器がほとんどないので、嘆かわしいことです。 鈍な武器で戦うのは自分の兵を敵に出して任せるのです。 所長が火砲と鳥銃の作り方を知っているので、この技術を群衆に広く教えて戦闘に使えば、どんな喧嘩にも耐えられずか?"帰化を宣言した直後、金忠善が節度使に送った書簡だ。


平和を選択した倭将、朝鮮人の金忠善に再び生まれる
 
沙也可は敵陣の先鋒として活躍しただけに、敵の動向を誰よりよく知っていた。 彼は、随所で多様な戦略と戦術で、日本軍を驚かせた。 慶尚道の義兵と力を合わせて、慶州のイギョンデソントゥを勝利に導き、蔚山城の戦闘では過去の自分を指揮した倭将、加藤清正が率いる軍隊を殲滅した。
1597年丁酉再乱が起こった際には宜寧戦闘に参加して、多くの功を立てた。 海に李舜臣がいたら陸地には沙也可があった。 沙也可が率いる兵と李舜臣が指揮する軍事が相次いで勝戦ニュースを伝えてくると、朝鮮軍の士気はさらに高まった。
1598年に戦争が終わった後、先祖は沙也可の功労を認めて官職を下し、新しい名前をつけてくれた。 新しい名前は'金忠善'。"海を渡ってきた砂(沙)をろ過し、金(金)を得た"は意味を込めて金氏の姓を与え、海を渡ったと言って本館を金海(金海)にした。 日本の名前さや(沙也加)に砂(沙)が入っているのを見て着想した先祖の奇抜な命名だった。 名前は忠誠がてやさしいしてチュンソン(忠善)とした。 (金忠善家門は金海金氏だが、首露王の子孫たちがないため、特にこれに'賃金が降ってくれた苗字'という意味の'四声(賜姓)'二文字をつけて'四聖金海金氏'と呼んだりもする。)
<承政院日記>は、若い長寿の姿をこのように書いている。 "度胸が優れ、性格も丁寧て控える。"
朝鮮人として朝鮮を守りながら住んだ
7年間の戦争が終わった後、三十歳の金忠善は晋州牧師ジャンチュンジョムの娘と結婚してノクチョン(今日の大邱(テグ)ダルソングク嘉昌面ウロクリ)に定着した。 文禄・慶長の役の後北方の女真族の侵入が多くなってから、金忠善は1603年から10年間志願し、北方の国境を守った。 1624年イ・ガルの乱に続き、1627年の丁卯胡乱が起きた時は壬辰倭乱当時、朝鮮に投降したハンウェの子孫たちを率いて戦場に乗り出した。 丙子胡乱が起こった際には王の命令を受け取っていない、軍事を集めて後金の軍隊に立ち向かって敵軍500人余りを射殺する成果を上げた。 サムチョンドで仁祖が後金にとって屈辱的な降伏をしたというニュースを聞いた後には"礼儀の国、君臣としてどう蛮夷の前にひざまずくことができるだろうか、チュンウの大義も終わったのね"大泣きし、再びノクチョンに戻った。
仁祖は彼に今日の長官級に該当するジャホンデブを下賜した。 安らかに送っだとし、田畑も降ってくれたが、彼は民の道理をしただけだと述べ、仕様して生涯に学問を磨いて後学を養成した。 そして朝鮮に来てから50年が経った72歳で、第2の故郷である朝鮮の土地に埋められた。

英雄と逆賊の間、 
人道主義者…新たに照明されている金忠善の存在

朝鮮人としての金忠善、日本人沙也可。 二人の名前はすべて日本歴史から消えた。 日本の立場で沙也可は祖国を捨てた裏切り者であり、反逆者、売国奴だった。 日本史学者たちは金忠善が朝鮮が作ったフィクションの人物とした。 消された名前が復元されたのは1970年代たためだ。 日本の歴史小説司馬遼太郎が彼の位牌が祀られている鹿洞書院を訪問して本を書きながら雰囲気が反転したのだ。 金忠善帰化400周年になる1992年には日本NHK放送が彼に関するドキュメンタリーを制作して放送した。
以降、日本では沙也可の研究団体が設立された1998年には同時に韓国と日本が教科書に沙也可、金忠善の話を載せた。 2-12年には彼の位牌を祭る鹿洞書院の隣に'韓日ウホグヮン'が入った。 ここは、日本人観光客が大邱(テグ)に行けば必ず立ち寄る名所となった。


'鹿洞書院韓日ウホグヮン'鳥瞰図/朝鮮DB
朝鮮に帰化した抗倭(ハンウェ)将軍としての金忠善例を挙げ、韓・日友好強調した日本自民党総務会長
韓・日関係改善は、政治家責務、難しくても挑戦しなければ…
日本、壬辰の乱の時朝鮮に亡命した長寿記念碑建立し、目を引いた


 
金忠善、もっと知らなかった話
朝鮮時代'降倭(ハンウェ)'らの活躍
金忠善はクォン・ユルとともに戦闘に参加し、日本軍の首を切っただけでなく、日本軍の軍需品を奪取してきており、しかも捕虜になった朝鮮人100人余りを亡命させていた。 これはこれ以上彼が日本人ではないという事実を言ってくれるものであり、朝鮮政府の日本軍に対する帰化や懐柔政策が実効を挙げていたという証拠でもある。
 
<宣祖実録(宣祖實錄)>にはこのようなハンウェらの勲功が数え切れないほど多く記録されているが、上から見た沙也可の言及内容が記録された11月22日(己酉の字にも"ハンウェソンシに(孫時老)が戦闘で逆転して弾丸を迎え、生命が危うくなるので別途に授傷して彼の心を喜ばせてくれなければならない。 倭賊の頭12級と奪った不純物はハンウェらがすべて自分で持って上がることを望むので、要求どおり与えて上げて送る。"は内容が見せており、ハンウェたちがどれほど情熱的に戦闘に取り組んでいたのかを類推してみることができる。 (参考=韓国コンテンツ振興院)

私の中で悲しみ抱えて、子孫たちに謙遜を教えて
名分を追ったが、離れた故郷の地に対する郷愁は仕方がなかった。 金忠善が残した詩文にはその哀切な郷愁があちこちににじみ出ている。
"意中に決断して先祖の名残て/親戚と別れし、七兄弟と、二人の妻一時にすべて去ったら/悲しい心ソルウた意味がない、うわべだけだから(述懐が・述懷歌)"
"南風がゴンドゥッフ/もしや故郷の便りもたらすか/急に起きたらその魚人狂風か/忽然と風の音だけが僕だけ見ることができないね/ホタルヒ嘆いて就いたのだから/以内、生前に肉親(骨肉至親)の消息知るすべがなくて/書き込みにひけをとらないと(南風遺憾・南風有感)…"
そのような悲しみのせいにむしろ子孫にもっともっと故郷の話を控えたものだと推測が多い。 長男敬遠(敬元)は父頭取で"いつも先代の祭祀の日を受けると日中涙を流して南風が吹くと、医学部を解いて南へ向かって長くため息をついて嘆いて時には涙を流した"と書いた。 また、"兄弟8人のうちで最も最後だから人たちが、兄弟が多いことを見ていると、涙を流して、あやかりた"とした。
金忠善ができても人間的な苦悩を振るっていない彼は述懐分けるこのように締めくくった。 "国家に不忠(不忠)して死文(私門)に親不孝されたら/天地の間、罪人が私しかあるのか/多分、世の中に不吉な運命は私一つだけしておこう"
そして、子孫たちにこのような家訓を残した。 "絶対に栄達を望んでいないことであり、耕作して生きろ。 余裕のあるときにトムトムヒ勉強しながら人らしく、送って。"異邦人と他国に根を下すには絶対にであるドラジー・ず、謙遜に生きろという意味をうかがわせる内容だ。


金忠善、私は生(生)を捧げた当時(護國)
金忠善、後代の話

子孫キムサンボ、宗親会長
"韓半島で日本人の始祖を公開的に明らかにした一族は韓国が唯一だ。 それだけ堂々としということだ。 子孫は11つの派に7500人になる。 キムチヨル元内務長官も私たち家門だ。"
チェボシク記者の'チェボシクが出会った人'で紹介されたキムサンボ(68)、親戚の会長は、金忠善の12世孫だ。 韓日ウホグヮンの建立を推進してきたキムサンボ氏は"韓日両国がもう、葛藤と憎悪の歴史を洗って新たな友好関係に進まなければならない"、昔、金忠善と韓日ウホグヮンという建物が両国にいかなる意味をもつのかを強調した。
彼はまた、'日本の立場から金忠善は'逆賊''売国奴'仕事しかないのではないか?'という質問に"1997年日本NHKは'出兵に大儀(大義)はない秀吉(豊臣秀吉)に背を向けた男'というドキュメンタリーを放映した。 一武士の義を貫いた決断、名分のない侵略戦争を拒否した人道主義者、日本の良心などで再評価されているのだ。 韓日関係が悪化する時、金忠善は特に、日本の方に意味のあるメッセージを投げかけてくれているのだ。"と答えた。
"幼い時'チョッパリ子孫'笑われるが、…素晴らしい始祖に対し、自負心あって"
 
大邱達城ウロクリ村
鹿洞書院、一・イルウ号館、神道碑(しんどうひ)、遺跡碑…
大邱市達城郡嘉昌面ウロクリ。 屏風のように囲まれた山の内側に彼を始祖にした'四声(賜姓)金氏'集成村がある。 村の入り口に黄金色の猫像とともに'ハンイルウホグヮン'が立っている。 ドアを開けてから4年になった。 国内より日本でもっと有名して、日本の政界や学界関係者たちの必須訪問コースだ。
鹿洞書院韓日ウホグヮンの設立
'達成、韓日ウホグヮン'に日本人300人訪問
 
鹿洞書院/李ジェウ記者鹿洞書院/パクジョンイン記者鹿洞書院/パクジョンイン記者'達成、韓日ウホグヮン'を訪れた日本訪問団の一行が鹿洞書院で書院にまつわる話を聞いている。 /達城郡提供としての金忠善の子孫.大邱友鹿には彼の子孫らが'韓国人'と生きている。

1789年(正祖13)地域の儒学者から、儒教の文物と礼儀を重視した金忠善の意をたたえて建立した。 以降1868年(高宗5)、興宣大院君の書院撤廃令によって撤去されたが、1885年、建て直され、1971年現在の位置にイゴンハだった。 境内には祠であるノクドンサ(鹿洞祠)とヒャンヤンムン、遺跡碑、神道碑(しんどうひ)などがあり、毎年3月に祭祀を行う。
※彼の生年についての記述にも疑問が有る、後世の”子孫”らは間違ったものを今でも大事にしている

大邱市と'モハダン記念事業会'が大邱市達城郡嘉昌面ウロクリ鹿洞書院の隣に建設したモハダンとしての金忠善記念館である


(翻訳とか:みそっち)



そのね、思うんですよ、一度も勝ったことのない国ですからね、中国から李如松将軍がやってくるまでは無抵抗の半島だったようなものですよ。朝鮮軍は組織立った活動は何一つしていないのです。それこそ逃げることに精一杯だったというのはつい最近でも再現されてるじゃないですか。それでも喉元過ぎれば”自走砲60門が対応射撃をした”くらいのことを言い出すお国柄ですよ。
韓国空軍の戦闘機のエースパイロットがうようよいるような嘘を平気で信じてるような人たちなんです。

たとえば李舜臣将軍の日記は”彼の死後60年”過ぎてから書かれたものでしょ、こっちの話は140年後に湧き出たものだそうですよ。物語としておもしろいですからね、でもね、朝鮮統治してみたニホン人も初めて聞く話に驚いたけど、実は大正のころにはすでに論破されていたのです。


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解読されない壬辰倭乱の当時の学者の書いた日記、『鎖尾録

本人が見聞きしたことが書かれているが、李舜臣将軍が出てこない謎
懲毖録は後世に書かれたものだが、こちらはリアルタイムで書かれた記録

イメージ 7『鎖尾録』は朝鮮中期の学者、吳希文(1539~1613)が書いた日記である。 壬辰倭乱が起きる前の1591年11月から始まり、1601年2月まで9年3ヵ月間の内容を盛り込んでいる。 タイトルを『鎖尾録』としたのは『周雅』の'瑣兮尾兮・遊離之子'で行われたもので、遊離記または避難の記録という意味を込めている。 『鎖尾録』は長期間にわたって書いた戦乱の記録物であり、生活史研究に手がかりとなる多様な内容が記録されている。
『鎖尾録』の前半部は壬辰倭乱の勃発と諸地域を転々とする厳しい避難行動が中心をなしている。 日記を見てみよう。
-16日:話に倭船数百隻が釜山に姿を現したが、夕方には釜山と東莱がすべて陥落されたという噂が聞こえてくるから、驚きを勝つことがない。 蓋し城主が堅く守っていなかった理由だ。
[十六日:傳道倭船數百隻現形於釜山夕聞釜山東萊見陷不勝驚愕意爲城主之不堅守也]
 
-19日:慶尚道(キョンサンド)で卞の報告が一日に三度も来たが、勇猛な長寿と強い軍事が倭兵のニュースだけを聞いて、先に崩れ、大きな村と堅固な城が一日も経たないうちに陥落したという。 倭兵は三つ道に分けて直ぐソウルに向かって山を越えて川を渡ってまるで人がない上に収まるようにする。 申砬、このこと二つの長寿は調整で信じられるまさに堅固に守ると思っていたが、ブウォル(斧鉞)を受けて来て守っていて、中道で敗北され、条例の要塞を守り抜くことができなかった。 これに敵が中原(中原)に入って対価(大駕)が西に、巴川(パチョン)(播遷)して都城を守ることができなかったのだから、悲しい。 私たちセンリョン(生靈)たちが皆悪い刃に血を流して年老いた母と妻子が散在し、あちこちに世をさまようことになって生死が分からないから、昼夜に慟哭(どうこく)するだけだ。
[十九日:嶺南之報變日夕三至猛將猂卒聞風而先潰大府堅城不日而失守分兵三路直向京城踰山越江如入無人申李兩將朝廷之所恃而爲固受鉞來禦中道見`敗鳥嶺失險賊入中原大駕西巡都城不守哀我生靈盡爲凶鋒之膏血老母妻子遊離飄落未知生死日夜痛哭而已]
 
1592年7月の夏は吳希文にとても暑かった。 避難の苦痛が凄まじいのは7月初めから一ヵ月以上毎日を山の中、岩の下で過ごしたことでよく表われている。
-初め4日:山の中で、岩の下で寝た。
-初め5日:山の中の岩石の下にいた。 朝に人を送って県に行って敵の消息を分かって来させてまた、二種を送って隠しておいた岩の穴で服を持っていって寒さを防ぐ計画を立てた。
-初め6日:山の中の岩石の下にいた。……夢にギョンヨ前後を見たので、これは何事か?
-初め7日:谷山奥の小川のほとりで寝た。 この日はすぐ七夕佳節(佳節)だ。……ガッモを使って夜を明かした。 この夜の苦しみは口で形容して言うことができない。 夢にユンギョムが見えますが外の人は関東(館洞)別室においてユンギョムが外で入り、柱の外でお辞儀をした。
-初め8日:谷間の中小川のほとりで寝た。 この日はすぐ先軍の誕生日だ。
-初め9日、10日:谷間の中小川のほとりで寝た。
-11日、12日:山の中の岩石の下で寝た。 大抵敵の形勢が広がっての前日に鎮安にあったことはウンヒョン(熊峴)を超えて、全州の地に陣を張っており、嶺南の敵はすでに茂朱警戒に達したのだから、必ず合流して晋州城を飲み込むということだ。
-8月初め1日:山の中の岩石の下で寝た。 私が山の中に入ってきた後により、今後一ヶ月が過ぎて節気が中枢に入ると冷たい機運が人を襲って倍ほども哀れっぽい。 深く老母と妻子を考えると、今どこにあり、今も保存しているかどうか? 考えがここに与えたらどうして悲痛ないオ。
[壬辰八月初一日:在山中宿岩下自余入山今將月餘節入中秋寒氣襲人倍常淒冷深思老母妻子今在何處而尙得保存乎念及於此寧不悲痛]
 
-また、昨日来る道に7、8歳の子供をみると、大きな声で号泣していて、女性一つは道端に座っても顔を覆って悲しげに泣いていた。 怪異てその理由を聞いたら返事することを、今私の夫が私たち母子を捨てていったという。 何のために捨てて行ってしまったのかと聞いたら、答えるのを、三人が流れ、乞食をしたが、今はもっとクソところがなくて将来、飢え死にしそうになったので、私の夫が私たちの帽子を捨てていったのだから、私たち母子は本当に飢えて死ぬことになったから泣くのという。……悲しい創生が将来、全部なくなって一つも残らないつもりかね。 噓唏を勝つことができない。
[癸巳七月十五日:且昨日來路見七八歲兒童鼓聲痛哭有女左路傍亦掩面悲泣怪而問之則答曰金刻我夫棄我母子而去余曰何以棄去又曰三人遊離乞食而今則乞不得將爲餓死故我夫棄我母子而獨去我將此饑死丁寧以此哭之云云……哀我蒼生其將盡而靡遺矣可勝歎哉]
 
-道で飢えて死んだ死者をむしろで巻いて不問に付したのを見ましたがそのそばに2人の子どもが座って泣いている。 聞くと、その語尾という。 昨日、病気で死んだのですが、その骨を埋めるようにも、彼らの力で移すことができないだけでなく、また、土地を売る道具を得ることがないという。 もうちょっと後にナムル採っている女性がかごにくわを持って通るので二人の子供が話し、その事を得れば地面を掘って埋めるという。 悲しいで嘆息らしさを勝つことがない。
[甲午二月十四日:且路見餓屍以藁席掩覆傍有兩兒坐立問之則曰其母也昨日病餒而死欲埋其骨非但力不能移動又不得堀土之具云頃之有菜女持筐荷鋤而過去兩兒曰若借得此鋤則可以掘土而埋之云聞來不勝哀歎哀歎]
 

当時の人が当時書いた記録には李舜臣将軍のことなどひとことも書かれていない

戦争で、著者吳希文(オヒムン)が経験した、さまざまな惨状に対する記録は当代にも戦争がどれほど人間をみじめにできるかをよく見せている。

戦争の惨状は人を共食いの話に至って絶頂に達している。 'グウクヒ聞くと慶尚道(キョンサンド)と京畿道では人たちが共食いすることが多くて、さらには又従姉妹の親戚も殺して持ってかんで食べるにいつも不祥としたら、もう一度聞いたらソウルの近くで前日はたとえ一二升の米を持った者でも殺して奪っが、近日には人が一人で行くと追いかけてカソラも殺しておいて食べる。'("ガプオイルロク"、甲午4月2日)は表現では、戦争が人間をどれほど極限状況まで追い込むことができるかを触れさせる。
 
『鎖尾録』の内容の一部を紹介してみた。 まず確認できるのは吳希文(オヒムン)の徹底した記録の精神だ。 戦争の中でもほとんど毎日の日記を詳細に記録した。 自分が直接経験した避難生活をはじめ、朝廷で聞いた戦況と義兵の活躍、各種祭祀と商業行為、疾病と治療、余暇生活など、様々な内容をすべて盛り込んだ。 このような記録は、文禄・慶長の役という戦争の状況とその中を生きていく人たちの姿を生々しく伝えている。

意外にも『鎖尾録』には吳希文の官職に対する執念、家門の栄光に向けた模索、母方との縁、息子に対する期待、娘との親密さ、夢の中に登場する家族など吳希文個人の考えを示す内容が多数記録されている。 一個人の日記記録だが、当代の社会像や彼と一緒に生きてきた人々の生活の様子を全体的に把握するために有用な資料となる。 朝鮮中期の生活史の宝庫になる『鎖尾録』に対する活発な研究を期待する。


◇ ◇ ◇ ◇


あのほら、ヒデヨシ軍から裏切り者が出たなんていうのは朝鮮人には嬉しいじゃないですか、あの国では伝統的にそういう読み物を国を挙げて作っていたんですね。
そして読み物と史実の区別がつかないという特徴がありますよね。実在しなかったひとの墓を後から作って、その子孫を名乗るなんていうのは常套手段ですよ。

ちなみに朝鮮では兵役の義務のある平民はヒデヨシの時代の頃で人口比5%程度だったそうです、少数の両班と大多数の奴婢という国でどこの誰が弓矢を持って戦ったのかという記録は一切残っていません。

小説の登場人物である”李舜臣将軍”に立派な系譜ができて彼の子孫を名乗る朝鮮人が現れたのは何と朝鮮末期になってからでした。
少なくとも加藤清正が虎退治をしていた時代に”李舜臣将軍”というのが実在したということを証明できる事実はどこにも発見されていません。

ヒデヨシの時代のころから300年過ぎた頃に”李舜臣将軍”の子孫を名乗る一団が現れたのです。王朝実記などへの書き込みもその頃に行われたようです。






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