minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国型道路名住所命名法 あれから10年

 

地番住所は日帝残滓、でも道路名住所が定着するには30年はかかる
韓国銀行の礎石は伊藤博文が揮毫 撤去の論議 100年の呪い

移行期間もあったけどずいぶん前に過ぎちゃったし
鳴り物入りの道路名住所法施行も”ニホン式住居表示”に慣れすぎちゃってもぉ
 
 
イメージ 1[NEWSミーナ]道路名住所は法では2007年に法が実施されました。 その次に公共機関については2011年から使用を義務化しています。 その時から道路名住所が事実上、法定の住所にする告示が来たのです。 そして私たち一般国民を対象にしては2014年8月1日から全面施行となっていましたが。 これが義務化がうまくいかなかったとみえて、そのまま公共機関だけが使って、国民はわかってて書かない。このような状況になってしまうのです。
 
このあいだの4.13総選挙選挙当時にはまた、道路名住所が選挙区画定とか、投票とか。 この選挙運動がすべて道路名住所ではなく、過去の地番住所をそのまま使ったんです。 そんなになった理由は、今現在の住民登録上の人口関連統計が、地番住所、以前のままの邑面洞をもとにしてこの住所が作られたものです。 そうしているから選挙区もそれによって画定になります。
それで法律的には道路名住所を書くようになっていますが、今回の選挙では過去の地番住所を書いたのです。
 
 
 
はい ところが、今の道路名住所をために使った費用が天文学的な金額だ。 このような話も出ているが。 これを原点に戻すことができるでしょうか。
 
これまで20年程度で準備を進めてきております。 また、これまで2011年から法定での住所に書いていますが。 1995年から2005年までは生活の住所というもので、すでに書いてきた経験もあります。 それにもかかわらず、まともにできないことです。 また、そして2007年に法を作って強制施行しているが…。 この法を作ってすることになればもっと簡単に拡散になるものと見たが、現実的にみると、そうでないです。 予算もこれまで4,000億を持ったりはしますが。 事実、二重的に住所を書くのに対する混乱が今少なくないために。過去に入った国家的な予算よりは社会的に混乱の費用がもっと多く発生しかねません。 それでこのようなものは、様々な面で比較を取るべきでは、これまで時間が過ぎ、費用がたくさん聞いたという理由一つだけ持ってこの制度を無条件に守って行かなければならないということではないように思います。
 

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一方、韓国銀行本店の礎石に初代朝鮮総監だった伊藤博文の揮毫が残されていることがわかった。伊藤博文は1909年10月26日韓国のテロリストの手によってハルピンで暗殺されたが、1909年の朝鮮銀行社屋建設では伊藤博文は重要な役割を果たしている。

韓国銀行本店正門前の片隅に「定礎」と書いたキーストーンがあります。1909年の建物の基礎を磨いた後、これを記念して設置した石です。

 

伊藤の揮毫である「定礎」という文字は、100年以上のままです。また1923年に建てられたソウル駅には日本総督斎藤誠の字が鮮明です。

また、同時期に建てられたソウル市立美術館の建物にも総督の名前が鮮やかです。

 

<インタビュー>イスンオ(民族問題研究所研究員):「私たちの歴史の部分であるので、それを盲目的に破壊するより教材とか歴史を振り返る資料として活用することが妥当だと思います。」

光復70年が過ぎた今まであちこちに残っている日本製の総督の痕跡、歴史の一部とはいえ処理方法をめぐり議論が起きています。

 
 
(翻訳:みそっち)
 

 
そういえば韓国では住所名が変わったんですよね、最近だと話題にもなりませんが2011年頃には、”画期的道路名住居表示、先進国では当たり前”みたいのがあったのです
 
さて、戦前から不法入国~不法滞在してバラックなどを建ててそのまま住み着いちゃう朝鮮人の集落というものが全国各地にあったりします。その多くは河川敷だったりしたわけですが、そこに住所名をつけたり、上水道を引いたりしたというお節介のおかげで、国有地である河川敷に朝鮮人部落が形成されてみたりしたわけです。
 
本来、朝鮮人は住居に対する観念には独特のものがあったようで、空き地があればかまわずそこに掘っ建て小屋を建てるという暮らしぶりだったと記録されています。
 
 
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道路などもびっくりですが、加藤清正が歩いたままの道がそのまま明治時代まで変わらずに残っていたのです、ビックリなのは南大門だったでしょうね。
でも、土は堆積するものですから、南大門だけでも1.6mも糞尿が堆積していたんですよ。
 
大正天皇が朝鮮に行幸しようって時に南大門だと馬車が通れないっていうんでどうしよう掘り下げようかでちょっとしらべたら床石が1mも下にあったって記録があります。
 
地盤沈下じゃなくて堆積しちゃうのが韓国式でしょ。韓国銀行も礎石に定礎って書いてあるんだけどそういう文化は中国にはあるんです。まぁアメリカやヨーロッパの建物の真似事なんですが、韓国式の「掘っ立て式木造建築」の頃にはそういう習慣がなかったのですね。
 
韓国の城門っていうのは全く機能してなかったんですよ。ソウルの観光で崇礼門に行くひとって多いと思います、あの韓国人の放火で燃えちゃった国宝1号なんですけどね。あれに大きな勘違いがあるんですよ。
 
じつは1.6mも下に建立当時の敷石が発見されたのです。この1.6mっていうのは自然に何かが積もって溜まったんですよ、そうなると扉の開け閉めが出来る訳ありませんね。 そのとおりなのです、ニホン総監府が国宝認定したときの崇礼門の門扉は半ば埋まっていて開け閉め出来る状態ではなかったのです。
 
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▲掘り出された地下遺構を見学者に披露している、最下層から石畳が発見されたこともあり建立当時の地表面は今より1.6mも低かったことになる
 
 
 
 
 
当時の朝鮮人は路上にうんちという習慣でしたから、おそらく1.6mのほとんどがそれだということです。(実際にソウル中心街の地層からは広い範囲で寄生虫卵が発見されているのです)
 
1.6m埋もれた南大門の秘密にもお答えします
 
人糞が積もってできたソウルの街並み
 
 
最近になって、あちこちの大規模な工事で、それに伴う考古学の発掘調査が行われたソウル四大門の内側の事情は十分に衝撃的な事実を知らせてくれる。
シン·ドンフン庶民教授などが、これらの発掘地域で採取した土壌試料を分析した結果、光化門の前から世宗路につながるソウルの中心部が一面糞で覆われていたという事実が明らかになったのだ。朝鮮王朝実録などの古文献に漢陽の深刻な汚染状態が記録されたが、土から抽出された寄生虫の卵を実証的に明らかになったのだ。
 
 
 
崇礼門(南大門)復元の過程で石造りの部分、地表面を掘ってみたところ1.6mも下に埋もれた石畳の遺構が見つかったのだという新聞報道があったのは2010年のことだ。
これはまた、言いかえるなら後世になり建設当時に比べて通路部分の床部分が1.6mもかさ上げされたということになる。
当時の大人の身丈にも相当する1.6mである、ところが朝鮮王朝実録を精査しても崇礼門の記述はほんの数行しかない、おおまかに建立された1396年と再建された1447年、1479年の記述があるだけだ、その中には到底理解し得ない事実とされる誤認も数多く発見されている。
その後、崇礼門慶長の役では豊臣軍が入城した際に加藤清正凱旋門として使いその後は歴史の舞台から遠のく時代が続いた。 
 
ではなぜ崇礼門の通路は1.6mも高くされたのだろうか、またその工事はどの時代に行なわれたのだろうか。
崇礼門の歴史から見てゆこう 崇礼門は1396年(太祖 5年)に創建された。1447年(世宗 29年)と1479年(成宗 10年)に修復工事がおこなわれている。 それだけである。 
 
時代背景から言えばニホンでは南北朝時代の終わり頃にあたる、その当時朝鮮ではその後500年余りも続く李氏の時代が続いた。崇礼門は王城の正門として強固な石垣とともにつくられたがその結果、国の財政はわずか50年余りで疲弊しその後、全く顧みられることも無く500年ものあいだ放置されてきたのだろうか。 
 
崇礼門が火災で焼失したのは2008年のことだったが、その火災焼失より前の2005年頃から崇礼門の城郭構造の実地調査が行なわれている(城じゃないけど石垣など全部の構造てことで城郭構造ね)
 
 
 
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▲説明版には1.6m下の石畳と電車開通で埋められたとある
 もちろん電車開通前の写真を見ればすぐにウソだと分かる。
2005년 11월 숭례문 석축 하부에 대한 시굴조사 결과, 현재의 지반보다 약 1.6m 아래에서 석축의 지대석, 성문의 지도리석(확석), 박석이 발견되었다. 이와 같이 숭례문의 통로 바닥이 높아진 원인은 19세기 말, 전차가 숭례문의 홍예를 통과하게 되면서 성문 구조에 대한 손상을 최소화하려는 목적으로 박석 위에 진흙다짐을 하고, 전차 선로를 구성하기 위한 것으로 판단된다
 
 
 
 
▲建築当時の地盤から500年間に堆積した生活のすべてがよくわかる写真、寄生虫卵の痕跡が見つかったのがまさにこの地層だ。
 
 
 
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 ▲朝鮮時代にはなかった南大門の扉は1897年に再現されたが軽便鉄道開通と同時に再び開きっぱなしになった? (写真は燃え残った門のとびら)
 
◇ ◇ ◇
 
 
っというわけで、除夜の鐘はニホン文化⇒韓国でも除夜の鐘を鳴らす⇒ニホン文化の伝来前は城門の開け閉めの合図だった⇒城門の門扉は開けっ放しだった。ということです。
 
そのほら、城門の開け閉めならお役人の仕事でしょ、ところが朝鮮時代の半ば過ぎからその役職が無くなったのです、民営化するわけでもないし門の外側はスラム街じゃないですか。つまり清と戦争して負けた朝鮮は、城門や宮殿の修理は清政府の許可を得ること>>>っていうことを忠実に守っていたのです。だから300年も荒れ放題だったし変な人がたくさん住み着いちゃったんですね  あひゃひゃっ
 
 
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▲1894年イギリスの外交官ジョージカーソンの撮影した崇礼門のようす
 
 
 
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▲1890年代といわれる写真、当時でさえ南大門は外国使節団の利用する正門ではなく宮殿から遠く離れたところに残る朝鮮時代初期の遺物だった。
 
宗主国中国からの使者でさえ宮殿から遠く離れた迎恩門そばの迎賓館までしか近寄らなかったみたい
 
 
 
 
 
 
京城府庁舎建設予定地図
 
今の光化門通り(世宗大通り)なんて行き止まりだったんだからね
 
 
 
水色部分に道路を造ることにしたニホンが総督府建設を思いつくまでは景福宮は270年間も放置された焼け野原でした。焼け野原だったからニホンは総督府の建物を建てたのです。
 
 
まだ高宗が王だったころなんですが、現ソウル市庁から北に向かう道はありませんでした。地図で見る光化門駅のあたりの十字路は行き止まりのT字路でした、韓国の歴史ドラマなどでは超時空ヒデヨシ軍に勝った朝鮮軍の行列が南大門をくぐり景福宮のほうまで行進していくシーンがありますが。当時は道なんかなかったのです。京城府庁舎(いまは図書館)を作るときに道路が北に伸びたのです。
 
 
 
そういうことを韓国では教えていないので、”世界四大提督”といわれる李舜臣将軍が亀甲船でニホン海軍を散々に打ち破ったあと当時の朝鮮皇帝から剣をもらうシーンなどでは豪壮な景福宮などの様子が描写されちゃったりします。
 
景福宮は釜山から平壌まで40日の小西行長が通り過ぎる前に朝鮮人の放火で燃え尽きていたし、朝鮮の王は皇帝じゃないし、李舜臣が王様から貰った剣なんかも20世紀になってから急に出てきたものだし、しかも偽物でしょ。景福宮李舜臣将軍っていうのは同時には存在しないのです。 なにしろ景福宮はお役所だったし宮殿じゃないし。
 
 
 
 
 
 
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