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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

今日は 農業用発動機 のおハナシ



NAVERライブラリーで古い記事を見てみた


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▲1922年12月28日東亜日報1面の広告 淋病・梅毒、万年筆、精米機、拳銃、ほか

大正時代には拳銃が売ってたんですね。 (よくみるとBB弾とか書いてある)




んで、今日は 農業用発動機 のおハナシ


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籾摺り精米石油発動機とあります。朝鮮半島で燃料発動機が農業生産に使われるようになったのがちょうどこの頃(NAVER記事検索で出てくる半島最古の新聞広告)

※山岡発動機工作所は現在のヤンマー(ディーゼルエンジンの製造は1933年から)




んで石油発動機を検索してみると 百円って 拳銃は1円50銭なのに



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▲1925年5月3日東亜日報3面の広告、景品付き大売出しのようす、
京城鉄工所は龍山区西界洞(ソウル駅の西側徒歩10分)にあった。

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▲朝鮮金屬工業界の殊勳者二宮常一君は飛行機の二宮忠八と同郷らしい


んじゃ 石油発動機ってなに?

産業革命の(おおぉ~)蒸気機関の普及からやがて内燃機関が作られるようになり、ガソリンがまだ高価だったころ燃料に灯油(石油)をつかう原動機が作られた。
ニホンにも1930年代になると数百もの製造メーカーができたりしていた。
田んぼの揚水とか脱穀精米などの用途でベルトを介して動力を伝えるもの。
現在では電気で同じことができるので手軽になった。
まだ動くものが残っていて直して動かしているひともいる。


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▲人気のガラクタサイトもある



どのくらい普及していたのかと言うと

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昭和2年(1927年)農業用動力機の普及台数、電動機、石油発動機、ガス発動機、蒸気機関    ※この年の石油発動機部門はニホン全国で39,000台しかない

ニホンでは石油発動機は昭和30年代頃まで使われていたが安価な動力がとってかわり
現在ではほとんど使われていない。




◇ ◇ 



韓国の門前の小僧はお経を覚えなかった?


韓国のコメ生産量が戦前のレベルに回復したのは1974年までかかりました。朝鮮半島で手広く商売をしていた人たちも、戦争が終わってニホンに引揚げる時にお荷物になる”農業発動機”を持って帰るバカはいませんから、売り物や保守部品、中古製品やその他一切合財をひとつ残らず朝鮮に置いてきたわけです、これが韓国で組み立て生産されるようになったのは ”1949年のこと”。
普通なら翌日から韓国人が営業を再開してもよさそうですが、置いてきたニホンの資産の分配で目先の利くひとがビール工場や新聞社、繊維工場などを乗っ取って経営再開したのに比べると機械関連のほうは実際には動かせなくなった発動機をあつめてきて修理を始めたのがこの頃だったようです  


1945年光復を迎えながら、日本が経営していた敵産工場の一部が農機具工場に転換され、農機具を生産することになり、1949年に大同工業で5馬力低速石油発動機を初めて生産した 大同工業の社史には”国産発動機”なんて書いてある資料もある

これは鋳物から作ったのではなく部品が放置されていたものを機械加工して組み立てたもので、需要は大きかったが、まもなく部品が無くなると生産も終了した。とあります。

水と石油を足すだけで永遠に動くと思っていたものが壊れてみると直せる人がいなくて、特に困ったのが電気関連だったようです。ボッシュとかルーカスとかのマグネトーは戦前からありましたが、この理屈を理解していた韓国人はほとんどいなかったようで、つまりコイルが逝かれると、もう原因不明で回らなくなるわけです。それを直せたニホン人は引揚げちゃったですからね。


それからしばらくはキタ朝鮮に占領されたりしながらコメの生産は減り続けました。
どうやら揚水関係では動力不足で田んぼの20%以上がそのまま荒れ地になったりもしていたようです。(もちろん翌年も荒れ地)

石油発動機はこのほかに、精米や製粉などにも使われていましたよ。


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▲韓国にもガラクタ収集家はいる




◇ ◇ ◇


耕運機村長の誕生
1970年代初め、農村には '耕運機里長' というものがあった。 農機具で3日も掛かる農作業を耕運機があれば1日で全部できるために、人々は借り賃を払ってでも耕運機を持っている人に借りた。それで、当時としては高価に該当する40万ウォンもする耕運機を借金をして用意し、この農機具貸し出しを通じて金を稼ぐ人もいた。 

耕運機を購入した農家では近い隣人を呼んで試運転を行った後、餅と食べ物を分けて食べて宴会をしたほどであり、耕運機がある家は羨望の対象だった。 


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この頃の財産目録1号は牛の代わりに、耕運機が占めており、雨が降ったら着ていた上着を脱いで、耕運機を覆い隠すことはよくあることだった。 耕運機を持っている人たちは自分の田を耕してさらに安価に隣人の田も耕すと、人心を得た。 

さすれば自然に町内で発言権も高まっており、村の里長というタイトルを書きながら '耕運機里長'というニックネームが付いたこともある。 耕運機の使用からトラクター、田植え機などの農機は人間労働力にのみ頼っていた韓国農村を近代化させた立役者となっており、富農の尺度は農機をどれだけ保有しているかによって分けるほど、農機や農村営農は不可分の関係になった。



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機械音響きわたるわが国の農村の韓国で農機具が現代化し始めたのは1960年代からだった。 韓国の場合、狭い耕地で移動しなければならないし、また作業の対象が作物であるため、技術的に農業の機械化は容易なことがなかった。 しかし、都市化によって農業人口が急激に減少し、農業の機械化は急がれることとなった。 また、農業は重労働の作業で作業能率の向上のために農業の機械化は本質的なことだった。 

我が国では1960年代に経済開発が始まり、農業生産性を高めるための方策として、農機械に対する関心が現れ始めており、政府は政策的に農業機械化を支援した。 

災害対策のための揚水機や病虫害防除用の動力噴霧機などを完成品や半製品に導入して農家に供給した。 この頃の韓国農機械の生産の相当部分を大同工業という会社で担当した。 

慶尚南道晋州で農機具を製作していた鉄工所から出発した大同工業は、日本の三菱重工業との技術提携を通じて1962年から動力耕耘機を作り始めた。 三菱と国産生産協定を締結し、技術を導入した大同工業は、数年以内に全ての部品を国産化することを目標に熱心に技術を開発した。 耕運機の普及には政府の補助、融資支援が決定的な役割を果たした。 耕運機は田畑を耕したり土地を選んで土のかたまりを破壊することをいう。 種まきや運搬と一緒に移動をしながら作業と脱穀作業もできる。 また、耕運機に付着されたエンジンを用いて揚水機や噴霧機でも利用でき、場合によっては人や貨物まで運ぶことができる。 それで農業機械化において、耕運機は第一段階と同じだった。 




1968年にはディーゼル耕運機の生産普及されたこともある。1969年2月24日、農業機械化促進8ヵ年計画が樹立された。 この計画は耕作、防除、水供給し、脱穀などすべての農業と関連したことは全面的に機械化するという目標の下、4百6億ウォンを投資するというものだった。 また、政府は1972年から農業の機械化5ヵ年計画を樹立して農機械の普及にさらに熱を上げた。 これは当時広がっていた地域社会開発運動であるセマウル運動と意を共にすることだった。 
1973年に経済企画院が提出した農業機械化計画によると、国民投資基金300億ウォンを機械化に投入し、これを通じて1976年までに耕運機10万台を普及するというものだった。 農業機械化による1970年代に政府政策の方向は動力耕耘機中心の機械化だった。 このような政府政策によって耕運機の普及は1970年代を経て、着実に増え続けている。 
牛がしていた長い土を耕し地ならし運搬等の作業は耕運機で代替された。 耕運機は1983年をピークに減少し、1993年政府の半額供給政策によって需要が再び大きく増加した。 耕運機は今まで韓国の農村に最も広く普及して農業機械化に大きく貢献した農業動力源だ。


1970年代以後着実に伸びていた農機械の普及は2000年以後減少している。 政府で提供する強力な補助金政策が終わって農村人口も急激に減少し、小型耕うん機に対する需要が減ったからだ。 1978年には"農業機械化促進法"も制定された。 "農業機械化促進法"は農業機械の開発と普及を促進して効率的利用を図ることにより、農業生産性向上と経営改善に貢献するためのものだった。 
1979年には韓国農村振興庁傘下の農業機械化研究所が設立された。 農業機械化研究所は農業用機械や設備機器など農業工学に関する試験、研究及び品質評価を目的に設立された。 ここでは、耕運機やトラクター、田植え機、種蒔き機、脱穀機、揚水ポンプの穀物乾燥機などを機械工学学的な面で研究している。 このような努力のおかげで、1980年代に至っては多くの農機具などが機械化した。 
稲刈りをする機械で刈取と同時に自動で束にして出す作業をする刈取結束機(刈取結束機、binder)、農作物を切ったり脱穀することを同時に行ったコンバイン(combine)、苗代や育苗箱で育った苗を水田に移植している田植機(移秧機)まで披露し、農機具の機械化に拍車をかけた。 この他に農業に使用される各種作業機を牽引したり、または動力を伝達して作業を遂行する目的で設計されたトラクター、高性能のエンジンを付着した石油発動機、病虫害防除用ミスの開拓、人材噴霧器と自動脱穀機、収穫機、乾燥機、稲・麦などの粒の層をはがす精米機など、多くの農機械が農村の人手をいやしている。 最近は鉄製の馬ぐわ、負うことが登場しており、プラスチック製品のこえ担桶、用足し筒まで出て農機具の寿命が増えた。

[大韓ニュース第1093号]全国農業機械総合展示(1976)



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そだね







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