minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

あの日あの時 1995年6月29日

 

三豊百貨店倒壊は宝の山だった

現場封鎖なのに当時窃盗関連で400人以上を検挙
救助のボランティアの両手にはデパートの商品が

 

イメージ 1[ソウルミーナ]無秩序な現場の倒壊当時の代表的な写真であり、多くの人々が「悪魔の微笑」として記憶している

このほかにも、倒壊したデパートの品物を盗む人がかなり多く、これを嘆く記事や社説も溢れた。

当時、瑞草警察署の強力班に勤めたある刑事の証言によると、この当時窃盗で立件された人がおよそ400人に達し、崩壊事故以後、瑞草警察署には毎晩になると数十人もの人が窃盗容疑で相次いで入ったりしたほどだったという。

この時立件された者の中には、当時販売価格が17万ウォンだったズボンを10着も履いていた者がいたが、警察の追及に対し、「寒くて履いた」として、とんでもない言い訳をしたという。 事故発生時期は初夏に当たる6月下旬で、暑さが徐々に猛威を振るい始める時期であった。それだけ現場周辺では他人の出入り統制力が非常に悪かったのだ。

 

――- 韓国版ハングルWikiより ――-――-――-―― 

 

 

事故当日より、大勢のボランティアが行方不明者捜索に名乗り出たが、その多くが現場に散乱する獲物目当てに集まってきたひとたちで、捜索を指揮する現場対応本部では手に負えず、レジの現金や換金性のある商品のほとんどが市民によって持ち去られたと知られている。

 

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当時はSNSもまだ無く文字通信によってグループが共有する現場情報で1階倒壊部分の貴金属売り場の位置がしられると、遅れて現場に警察官が配備されたりもした。それでもボランティア名目で現場に立ち入ろうとする市民と救助隊員の間では小競り合いが絶えず、一時は、市民の出入りを統制する現場本部とボランティアによる救助を優先すべきだとする市民団体とのあいだで、現場に立ち入ったら身体検査をすることで合意されたが、押し寄せる群衆が獲物を手に持ち去ろうとするのを黙ってみているしかなかったという。

凄惨を極めたのは遺体が安置された近隣のいくつかの体育館などだった、身元の確認をしたいと申し出ると、遺体から腕時計や財布を持ち去る事件も起きているこの事件ではいくつかの現場をハシゴしながら20体以上から現金などを持ち去った犯人が捕まっている。

損傷のひどかった遺体のうち身元が確認された遺体から順番に火葬されたが、葬儀場職員が遺体から金の指輪をはずしたり、香典を持ち去るなどの事件も起きている。大型災害などで大勢の被害者が出るとそれに合わせて犯罪も多発するのだ。

 

 

(ソウル/みそっち)

 


 

というわけで、三豊百貨店倒壊はボーナスステージだったという回想記事をまとめてみました。いわゆる火事場泥棒っていうのは韓国では不意の給与と受け止められているわけです。消防や救急などは火事場泥棒に対して無力ですし、警察はデパートが民間の施設であるため盗難の報告があってから捜査に動くしかなくて、現場の封鎖が警察によって行われたのが事故発生から7日後だったということです。つまり取り放題だったのですね。その一方で、がれきの下には埋まったままのひとが倒壊から17日目に奇跡的に救助されたりしていました。

 

 

 

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