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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

マッカーサーが怒って韓国軍の解体があったころ

特集
 

たった一回だけしか行われなかった
朝鮮戦争前の”徴兵検査”

10万人いた韓国国軍? 停戦交渉と米中ソ撤退に兵員の急増

 

 
[知ってるミーナ]韓国の徴兵制度は南の単独政府樹立後の1949年8月6日、兵役法(法律第41号)の公布によって初めて施行された。この法律に基づく最初の徴兵検査は、1950年1月6日に全国的に実施された。しかし、この最初の徴兵検査を最後に徴兵制は廃止された。  

朝鮮戦争の当初、韓国軍の指揮命令系統はすべて解体され、韓国軍はすべて米軍軍属の荷役部隊となった。1951年停戦交渉がはじまると撤退する国連軍にかわって韓国軍が再び組織された。


軍事顧問団だけを残していた米軍とアメリカ政府は韓国軍の定員を10万人に凍結しておいた。これは、米国がもし李承晩と国境警備と国内治安維持に必要な最小限度の兵力に加えて、より多くの兵力を握って与える場合、北側に対する軍事行動を始めるのか分からないという憂慮のためだった。米国からの軍事援助がなければ、軍隊を維持することの出来なかった李承晩は米国の軍の定員凍結の方針のため、1950年3月に徴兵制を廃止し、志願兵制を採用した。


韓国戦争勃発の初期までに韓国軍は多大な人命被害を被った。国軍が洛東江戦線まで後退して部隊を収拾したときの兵力の損失は、なんと45%に達したために、莫大な兵力の不足が発生した。
洛東江戦線:釜山防衛線のところ、兵力が45%減:逃げ隠れ迷子になった兵隊はソウル奪還の頃には原隊復帰するように戒厳軍司令部の公布がされている

 


街頭募集(但し第2国民兵などである)


軍が本格的な戦時動員体制を整える始めたのは1950年9月15日、仁川上陸作戦の後であった。当時、政府は兵役法や一時的な法令の措置に応じて、第2国民兵を招集した。しかし、通常の手順での招集が行われなかったため、街頭募集、家宅捜索などの強制徴集と招集を使って兵力を補充した。
街頭募集とは、実際に路上で若者たちに入隊募集をした場合もあるが、道に行く若者を軍隊に捕えて連れ行くことで、家宅捜索とは、文字通り家の人々を調査して捕まえて行くことだろう。


「いい体してるねぇ、自衛隊入らない?」というギャグが昭和50年代まであったと言われるがニホンでは強制連行までは無かった、旧軍時代には徴兵制度が浸透しており兵役から逃れるニホン人はほとんどいなかった。
太平洋戦争末期になり徴兵年齢が18歳に引き下げられたときにも厳格な徴兵検査が行われ身元の不確かなものは戦争には参加できなかった。
サイパンや沖縄でも民間人が軍人と行動を共にしたことはあるが囚人のように縄で引かれていったりしたことはない、しかし韓国では再占領直後のソウルで行われた若者狩りを覚えている古老も多い
 
一方、政府は、中国軍の介入で戦況が大きく不利になると、1950年12月21日法律第172号国民防衛軍設置法を制定し、若年者を大々的に動員した。国民防衛軍の動員は、本格的な徴兵制が復活する前のことだったが、50万~60万人の若者が動員され、わずか100余日ぶりに5~20万人が餓死し、凍死で病気になって死ぬ、ありえない惨事を生んだ。この事件は、いくら戦時というが、国家が市民をむやみに動員し、また、そのような状態の市民の牽制が施行されていない場合、どのような悲劇が発生しているかをひどく示す。

 


ベトナム派兵に徴兵制まもる
 
韓国の徴兵制は、開戦の翌年1951年5月25日、兵役法改正を通じて再び復活した。一方、戦争により軍の定員を10万人に制限する米国の政策も廃止され、国軍の数は、停戦交渉が終盤となった1952年10月末までに、25万人に増え、国連軍が撤収すると決まりこの時、韓国と米国は軍の定員を46万3千人に増加させることで合意した。しかし、一度加速度がついた国軍の規模は膨張が急激に構成されて休戦時には55万人で、1954年には65万人に増えた。
※この時にも徴兵逃れとして生年をごまかしたり金を渡して兵役から逃れるものが続出した、それらをあぶり出すために共産分子狩りが盛んに行われた


戦争ですべてが疲弊した状況で、政府は、経済的に65万人の大軍を維持する能力がなかったし、軍の維持のための物的資源は全面的に米国の援助に依存していた。しかし、戦争(戦闘)が終わった状況で、米国はさすがに韓国にこのような膨大な規模の軍隊を維持する必要があるかを再考し始めた。

当時、アイゼンハワー政権は、財政均衡を達成するために異常に肥大化した韓国軍の兵力の削減を望んだ。しかしこの米国が韓国軍の削減を試みているという事実自体は、李承晩政権の生存を脅かすものであった。これに李承晩は、ベトナムラオスなどに韓国軍を「反共十字軍」に派兵すると提案し、韓国軍の兵力削減を免れしようとした。(まだベトナム独立戦争だった頃の事)


1960年代に入って米国のケネディ政権は、米国の莫大な軍事援助の負担を軽減し、財政の均衡を保つために韓国軍の兵力の削減を推進したアイゼンハワー政権とは違い第3世界の国の開発のための資源が軍事部門ではなく、経済復興に投資されなければならないと思いながら、韓国軍の兵力削減計画を具体化した。これは民主暴動に乗じて韓国軍の軍事反乱で政権を握った朴正煕軍事政権の基盤を脅かすことだった。
ケネディ大統領が韓国軍の参戦に反対だったのはよく知られている、その一方でアメリカの青年の死者数を減らしたかったジョンソン大統領は韓国軍の参戦に協力的だった


朴正煕が韓国軍をベトナムに派兵した原因には、いくつかの要因があるが、米国が計画している韓国軍の削減を避けて表示することが重要な理由の一つだった。朴正煕が米国との関係で、ベトナム派兵を通じて、多くのことを得ないしはなかったが、少なくともこの分野に関する限り、彼の目的は遂げたということができる。なぜなら、韓国軍のベトナム派兵以来、韓国軍独自の兵力削減が真剣に議論されたことはないからである。
また、1968年1月21日、北側の特殊部隊の青瓦台奇襲事件と1月23日のプエブロ号拿捕事件で韓半島の緊張が極度に高まり、韓国軍のガムグンウン完全に水渡ったことになり、朴正煕はなく、郷土予備軍を創設して肥大化した軍をそのまま維持するにとどまらず、この地に兵営国家を建設した。


韓国で徴兵制が実施される過程で、特記すべきことは、国と市民との間の契約に基づいて策定されるべき徴兵制度が市民の権利のための特別な心配しないで、あまりにも当たり前のように国の圧倒的な優位性の中で実施された点である。異民族支配下日帝強占期にも施行された徴兵制であるため、国や市民や徴兵制が独立した大韓民国で実施されるために、誰も抵抗感を持たなかった。また、徴兵制は、ほとんどの民族解放運動勢力が夢見ていた制度でもあった。また、市民は日帝が広めた国家主義の洗脳から、そしてこれを絶えず拡大再生産してきた独裁国家の「国民教育」から自由になれなかった。
※ニホン軍への志願兵制度は1938年から、徴兵は行われなかった。


国民皆兵制は、貧困皆兵制?


現行の徴兵制の最大の問題点は、政府が無制限に軍隊に人を供給できる体制の下で人の価値を見つけるの長さという点である。わずか100余日でに5~20万人を餓死させた国民防衛軍事件は過去のものであっても、1980年から1995年の5月まで15年5ヶ月間軍服務中に死亡した人は自殺3263人、暴行致死387人の計8951人に達している。これは年平均577人の若者が命を失ったことで、我々の軍は、戦争を払わなくても3年ごとに1個連隊の兵力を失っているわけだ。湾岸戦争当時、米軍側の死者が269人に過ぎないことに比べれば、このような損失がどのくらいの巨大なのか知ることができる。
※韓国の兵役中の死者数は2000年代に入り年間200人程度となっている


徴兵制度は、国家と市民との間の契約によるものでなければならない。国家が市民に一方的な犠牲を強要するなら、国民兵制度の長所を生かす道はない。また、風の息子、神の息子、将軍の息子など特権層を中心に、兵役不正の忌避が幅を利かせ、人の子らと闇の子は、現行の徴兵制が国民皆兵でなく、「貧困皆兵制」という皮肉な現実をいつまで見られるのだろうか?
今、私たちは、民主主義の発展、市民社会の成熟、経済発展、南北関係の改善に見合った兵役義務を実施する制度を作るために、現行の徴兵制度を根本的に見直さなければならない。

 


(翻訳:みそっち)

 

 


 

ソウルは2度占領されている
 
 
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▲ソウル奪還後に出された戒厳軍の布告、アメリカ軍政期ではないので韓国人司令官名で布告されているが戦闘の主役は国連軍であり”韓国軍”が仁川上陸作戦に参加したりソウル奪還に活躍したというのは後年の創作である。
 

韓国型主張では10万人の”韓国軍”がキタ朝鮮軍の攻撃を各地で撃破しながら釜山防衛戦まで後退してそのあと仁山に上陸してソウルを奪還してその勢いで平壌まで攻め入ったことになっているんですよね、ところが実は退却してきた釜山で人数を数えたら半分しかいなかった(別の資料では32,000人程度とも)ソウルを国連軍が奪還した頃にそこら中にうようよ残っていた若者をかき集めて軍隊の体裁を整えようとしたということなんです。 
ところが韓国軍は武器を投げ捨てて後退してきたので米軍は韓国兵を荷物運びに使うことにしたのですね。結果的には役に立たなかったのです 
 
コリアンタイム(Korean time)とは、約束の時間にわざと遅れて到着した行動や、その癖を指す言葉だ。この言葉は、韓国戦争の時、在韓米軍が韓国人との約束をした後、約束の時間よりも遅れて出てくる韓国人を悪く思って、「韓国人は約束の時間に遅れて到着する。これが韓国人の時間觀である。」と言ってコリアンタイムという言葉が生まれたのだ。

前線に届くはずの砲弾が届かなかったり食糧列車が消えたりした。
 
もちろんそれ以前の米軍政時代の使役や米軍事顧問団などの雑役をしていた韓国人に対して米兵が”早く早く”と急き立てたことはよく知られている。
そのころに身に付いた口癖がいつのまにか韓国人の口から出るようになり今ではカップめんの3分さえ待てない韓国人になったことは言うまでもない。
 
そのころの社会現象
米軍の残飯を煮て食べる部隊チゲが発明される