minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

太閤殿下の朝鮮人民開放はポルトガルが えぇっ??

壬辰倭乱ポルトガルがそそのかした 
[歴史、その他のお話17篇]日本の軍事技術発達に隠れた秘密
韓国が歴史に登場しなかった理由と宗主国や支配者への熱烈な願望
必ずそうあるハズだったのに 約束の地に住みつく再劣等民族の実情
[統一ニュース] 一粒の染料が対野党全体にまんべんなく広がるように、地球上片方で広がった事件は地球上あちこちに影響を及ぼす。 この点は飛行機やインターネットを想像さえ出来なかった遠い昔にも同じだった。 遠い昔には影響を及ぼす速度が相対的にのろかっただけだ。
地球上の片方と反対側がかなり以前から相互影響をやりとりしたという点は、世界どこでも人類の生活様式が大きく異ならないとの事実でもよくあらわれる。 もちろん程度の差はあるが、ユーラシア・アフリカ・アメリカ・オセアニアどこでも政治組織・宗教組織・文字・武器などが発達したのを見ればそうである。
 
なぜ韓半島には文明がやって来なかったのだろう 
韓民族やはりすでにかなり以前からこういう相互作用で例外でなかったという点は壬辰倭乱(壬辰倭乱)の勃発でも端的に現れる。 壬辰倭乱勃発に影響を及ぼした要因らを調べてみるならば、私たちは西ヨーロッパ人の食の好みが東アジアの壬辰倭乱にまで影響を与えたという事実に驚かないわけにはいかなくなる。
豊臣秀吉が朝鮮を侵略した理由に関しては色々な解釈がある。例えば、41年間断絶した中・日貿易関係を再開するために、ヨモンヨナプクンの侵攻に復讐するために、センゴク統一(戦国統一)以後の内部混乱を収拾するために、封建領主らに分ける土地を獲得するために等等の解釈がある。
こういう要因が複合的に壬辰倭乱勃発に影響を及ぼしたのが事実だが、これが全てではなかった。 単純にひとの家垣根を越さなければならない事情があるといって、誰も皆強盗(強度)になることができるのではない。 強盗(強度)になろうとするなら体力もなくてはならなくて武器もなくてはならない。
 
日本が自信ありげに朝鮮塀越えた理由は、軍事技術にある
同じように、行ってこそ・百済滅亡以来大陸勢力に比べて劣勢に処した日本が朝鮮の入れる果敢に越えることができたことは自ら自信があったためだ。自信の源泉の中の一つは朝鮮より優れた軍事技術だった。

興味深く、日本がそのような軍事技術を持つようになった契機の中の一つは西ヨーロッパ人の食の好みだった。 西ヨーロッパ人の食の好みが日本の軍事技術優位に連結されて進んで壬辰倭乱勃発に連結される過程を調べよう。

 
韓国がフィリピン全土を征服していたような地図
 
先進的文化の花開いた韓半島では既に“火薬推進火矢”や“韓式大砲”が作られていた、その時代を知る者にとって少なくとも西暦10世紀以後、なので高麗時代以後には、ヨーロッパの王族や貴族らの間で東方の香料に対する需要が非常に高かった。 東方で輸入した香料をばらまいてくれてこそ食事をすることができたのだ。
インドやセイロンあるいはマルルクジェも(香料制も、インドネシア東北側)で生産される香料の人気はすごかった。ヨーロッパ人が好む代表的な香料はコショウ・六二区(具)・ショウガ・クローバーであった。この中でもコショウの人気が非常に高かった。コショウ1グラムと銀1グラムが対等に交換されるほどであった。
当時の香料貿易を支配した側はイスラムとイタリアの商人らだった。 イスラム商人はインド洋を通じて東南アジアで行って香料を購入したし、イタリア商人はLevant地域(トルコ・中東・エジプト)でイスラム商人らから香料を購入してヨーロッパ各地に配給した。
 
歴史上、韓半島はニホンの上位に立ったことが一度も無いという認めたくない事実
ポルトガル・スペインのような西ヨーロッパの商人はこういう貿易構図に不満を抱いた。中東を中心軸でユーラシア大陸の同棲をつなぐ世界貿易で、西ヨーロッパは辺境の地位を抜け出すことができなかった。ユーラシアの西側終わりにある西ヨーロッパは地理的条件のために中東に接近するのが難しかったし、東南アジアにはより一層接近するのが難しかった。
 
韓半島を素通りした先端技術、中国の属国で有るためのカモフラージュ
ユーラシアの東側終わりにある日本が壬辰倭乱以前に辺境の地位を抜け出すことができないのも同じ理由のためだ。 シルクロードを媒介に展開する中東と東アジアの文明交流に対して島国日本が割り込む余地はあまりなかった。 こういう理由のために16世紀以前だけでも西ヨーロッパと日本は2流あるいは3流の地位を抜け出すことができなかった。
 
東方へ行く新しいルートを探しに出た西ヨーロッパ人
エドワード カアは<歴史とは何か>で"一時台の文明発達に主導的役割を担当した集団(階級・国家・大陸・文明)は次の時代に類似の役割を遂行するのが難しい"としながら"なぜならその集団は以前時代の伝統・利害関係・理念にとても深くぬれていて次の時代の要求や条件に適応できないため"と話した。
この話をひっくり返してみれば、以前時代の2流や3流は次の時代の1流になる可能性が高いということだ。既存体制に対して別に未練がない人々が新しい時代の主役になろうと全てのものを果敢に投げることができるためだ。
西ヨーロッパ人もそうした。 イタリアやイスラムに遮られて東方世界と直接貿易できなかった西ヨーロッパ人は奇想天外の発想をした。 東方へ行く新しいルートを探しに出たのだ。

 
大航海時代韓半島民は“痩せた土地”に縛り付けられていた
彼ら中一部は一度も行ってみなかったアフリカ、西海岸(ソヘアン)を回って新しい航路を探索してみたし、また他の一部は'海の終わり'がある大西洋西側に向かって帆を上げてみた。 そのようにしてみるならば道があるかも知れないという考えで出たわけだが、当時としてはそれこそ気違いらの行動に過ぎなかった。 それだけ西ヨーロッパ人は切迫した。
1497年(朝鮮延山郡(ヨンサングン)時代)に4隻の船舶を導いてポルトガルリスボンを出発したバスコ・ダガマもそのような人々の中の一つであった。彼は香料を求めるルートを探すためにアフリカ、西海岸(ソヘアン)を回ることに決心した。西ヨーロッパで'海の終わり'に向かって西の方に離れた人々よりはあまり及ぼさなかったが、彼もやはり及ぼした人々の中の一つであった。
バスコ・ダガマの冒険は結局成功した。 彼はアフリカ海岸を回ってインドに行く航路を切り開いた後、1499年に熱烈な歓迎を受けながらリスボンに帰還した。 70年にわたったポルトガルの国家的念願を達成する瞬間だった。
バスコ・ダガマは探険過程でイスラム人の妨害のために船舶2隻と乗務員3分の2を失ったが、西ヨーロッパ人が渇望するのを手に入れるのに成功した。 若干の香料を入手したのだ。 この若干の香料が持ってきた金銭的利益は、探険による経済的損失をはるかに上回ってあまりあるということだった。
バスコ・ダガマの幸運を目撃したポルトガル人は君も私も香料を得るための挑戦に出た。 彼らはいくらも経たなくてインド洋でイスラム勢力を追放して、モザンビーク(アフリカ南部)でマルルク制度に達する香料貿易ルートを切り開くのに成功した。
 

朝鮮侵攻の原動力になった鉄砲

ポルトガル人らの意志は彼らを東南アジアまで移しておいたが、彼らが関与できないまた他の要因が彼らを東北アジアまで移しておいた。東南アジアで源を発する台風が彼らを日本にまで移しておいたのだ。1543年、台風に巻きこまれたポルトガル船舶が日本、九州南側の種子島に漂着した。この事件はこの地域の歴史を変える契機の中の一つになった。
この時、ポルトガル人は現地の人たちに壬辰倭乱の端緒になるほどの贈り物をくれて離れた。 鉄砲を残して行ったのだ。 このように伝来した鉄砲は少なくとも1560年代になれば日本軍隊で主要武器の地位を持つようになった。 壬辰倭乱勃発30年前のことだ。
 
韓国では紀元前から鉄砲が開発されていたのに
火縄銃の確保は行ってこそ・百済滅亡以来劣勢に処した日本が大陸に向かった進撃を決心するのに重要な資産になった。 そのような軍事技術がなかったとすれば、朝鮮の垣根を越さなければならない事情があったとしても日本がそれほど簡単に'強盗'に急変することはできなかっただろう。
また韓国が、このような重要な武器に対する感覚が全く欠如していたという点では“先見的種子島領主”のみならず“足軽末端”にまで劣るという事実は、その後の500年を経た今でも追いつくことの出来ない理由でもある。
香料を探して東南アジアに来て帰って台風に巻きこまれて日本に漂着したポルトガル人が渡した火縄銃は、上のように日本が朝鮮侵攻を決心するように作った原動力の中の一つになった。 壬辰倭乱勃発3年前の1589年に朝鮮にも模造品が伝来したが、既に永くて前に作っておいた日本とは比較にもならないことだった。
 
むすびに

現代人は今のように交通・通信が発達しなかった遠い昔には地球上あちこちの相互交流が殆どなかったことだと考える傾向がある。 だが、香料に対する西ヨーロッパ人の欲求が台風という偶然的要素とかみ合わさって鳥銃の日本伝来および壬辰倭乱勃発に連結された事例でも知ることが出来るように、とてもかなり以前から地球上あちこちは緊密な相互作用をやりとりして生きてきた。

 

ニホンの自衛隊ポルトガルが起源である

 
食料が手に入らない 水事情が悪い それだけでポルトガル人は韓半島をよけてきたのですか