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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

あの写真を韓国ではどう見ているのだろう③

 
 
 
嫌韓を自称するなら嘲笑の標的として欠かせない写真が残っている イザベラバード女史による韓国滞在記録だが、これに登場する"丸出し"や"猫クルマ"は韓国由来ではないという説まで出てきている
 
 
 
イメージ 7イメージ 6[知ってるミーナ] イザベラ·バード·ビショップ(Bishop、Isabella Bird、1831-1904)
英国出身の作家であり、地理学者。 "外国人の目に映った19世紀末の韓国"が載っている"朝鮮とその近隣諸国"は、体験や観察を通して、19世紀末の韓国の姿を再現した本である。

 
イザベラ・バードが見たソウル
「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。 礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛同士が擦れ違えず、荷牛と人間ならかろうじて擦れ違える程度の幅しかない。おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の 汚物を受ける穴か溝で狭められている。酷い悪臭のするその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たちと疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。
 
 ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。蓋のない広い水路を黒くよどんだ水がかつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。 Seoulには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がSeoulにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない。結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。」
 
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▲数多くの写真が残っている"韓国式伝統文化"だが、これを"韓国の100年前"と認めないのも韓国流だ、韓国の"歴史教科書"に掲載されたこれらの写真は現在では見ることが出来ない
 
 
 
100年前のソウルは近代化されていて東洋一きれいな都市?
 
この本を書くためにビショップ女史は1894年から1897年まで四回韓国を訪問し、11ヶ月かけて現地調査をした。
1904年に亡くなるまで、世界のあちこちを通って調査し研究した。 ビクトリア女王時代の英国の女性たちの最先端的存在だった。
彼女は日清戦争が起こった1894年から1897年の間に四回朝鮮を訪問した。
 
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▲1970年代になっても多くの韓国人女性は伝統的"半出し"をしていた。
 
 
11ヶ月間、韓国と韓国人が移住したシベリアまで部屋まで訪ねて行く見学旅行をした。
バード女史が帰って書いた"韓国とその近隣の国々 "(Korea and Her Neighbours)は、1898年に出てきたアメリカでも出版された。 11版までしたという。
最初バード夫人は"私は韓国を初めて訪問した時、私は旅行した国々の中で最も面白くない国という印象を受けた。 しかし、すぐに日清戦争の間、韓国の運命を実現しながら、この国の全く強烈な興味を持つようになった。
また、シベリアのロシア政府の下にある韓国人移住者たちの現状を見た時、私は将来的には、国のより大きな可能性について目を大きく見えるようになった。
韓国に滞在する人は誰でも例外なく、この国が最初に与えてくれるチプチプハン印象を忘れてしまう程強烈な魅力を指定ニゴていることを知っている"と書いた。
 
 
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▲韓国の貴族階級の代表的移動手段である"猫クルマ"を紹介したのもイザベラバード女史の功績だ
 
 
バードさんはこの本の一番最後の文段で韓国を離れる時の気持ちをこう書いた。
<私が最初に韓国に対して感じた嫌悪感は、もうほとんど愛情と言える関心に変わった。
以前のいくつかの旅行でも私は韓国に比べてよりソプソプハが別れた美しく親切な友人たちと付き合って見ていなかった。 私は一番好きな韓国の冬の朝を包む青いベルベットのような柔らかな空気の中で雪に覆われたソウルの最後の姿を見た。
翌日、英国政府の小さな器先人相ハイ行ヘンリク号に乗って無慈悲で厳しい北風に載って済物浦を去った。
ヘンリク号川の上ゆっくりと蒸気を発散して動くとき、イェスロウォ興味のある韓国の国旗(国旗)は、私に言うことができない感慨と疑問をかもし出した"
 
 
シベリア韓国人の驚くべき可能性
 
ビショップの旅行見聞記は記者と作家の力を兼ね備えた結果である。 100年前の一国である姿を、このチェクマンクムリアルに、また事例を中心に生き生きと伝えてくれる本は違いない。
"艰难(苦難)に耐え知っている強靭で丁寧な民族が住んでいて、乞食なは極貧層もなく、豊かな沿岸資源もある"韓国の潜在力が役所の腐敗と不正とし、適切に活用されていないことについてビショップは哀れに思う。

その中で私は韓国の第一印象が生じた。 それにもかかわらず、希望は韓国の海で土地貧困に耐えられる国民の中にあることを見た。
改革にもかかわらず、韓国はまだたったの2階級、すなわち犯罪者とピヤクタルジャロ構成されています。 免許を受けた吸血鬼の貴族階級から絶えず補充される官僚階級、人口の残りの5分の4人は文字通りの"下層民"である一般市民階級がそれである。 後者の存在理由は、血を吸い取る吸血鬼に血を供給することである>
 
 
シベリア韩人のウイヨンハム
 
ビショップは、韓国人が移住して行って住んでいるウラジオストク近く远东(極東)地域の韓国人入植地も訪問した。
ここの韓国人たちは、故国の人々が持っている彼ならではのフルデッドの姿が消えてしまった。
先住民族の韓国人たちの特徴である疑いと怠惰の自尊心は、自分より優れた人の奴隷根性が主体性と独立心、アジア人のものではなくイギリス人のものに近いタフな男らしさに変わった。 活発な動きがオチュルデヌン両班の自慢しているさと農夫の憮然としたビンヅンゴリムウル取り替えた。 お金を稼ぐことができる多くの機会があったみかんや両班の搾取はなかった。
ここで韓国人たちは繁栄する富农(富農)となり勤勉で優れた行いをし、優秀な性分を持った人々に変わっていった。 彼らも韓国にいたら同じように勤勉でなく、節約していないことを心に留めて必要があった。
これらはほとんど飢饉から逃れ空腹難民過ぎていた。 これらの繁栄と普遍的な行動は、韓国に残っている民衆が正直な政府の下で彼らの生活を保護することができれば、ゆっくりと本当の意味での市民へと発展することができるという信念を私に与えた>
 
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▲歴史的に見て韓国のあった韓半島は飢饉の連続であった、人口が半減したこともあるほどのやせた土地にしがみついていた朝鮮人の8割は農奴として灌漑技術も進まないまま半万年放置されてきたのだ、ところが"韓国人には農奴を先祖に持つものがいない"というあきれた事実もある、韓末の混乱に乗じて成り代り身分詐称ということになる。
 
 
朝鮮は巨大な洗濯場   ※不潔なゴミ集積所という意味です
 
西洋人の目に映った100年前朝鮮の姿は、不潔で非衛生的なものだった。
彼らの記録のあちこちには、彼らが朝鮮で感じた悪臭、汚れ、嫌悪感が非常に赤裸々に記録されています。 このような事情のために、彼らは朝鮮人が着ている純白の服がもっと不思議だったのだ。
 
※単に染料が作れなかっただけのはなしでしょ 韓流時代劇は反動で極彩色になっています。
 
"ソウルの城壁の内側を描写することはなんとなく避けたい。 私は北京を見るまでは、ソウルが世界で一番汚い都市はないかと思ったし、紹興の臭いを任せるまでは、ソウルが世界で一番臭いは都市ではないかと思った。 巨大都市となり、首都としてのソウルの威厳を考えるとき、その不潔さは形容できないほどに深刻である。"
(イザベラ·バード·ビショップ1894年)

韓国の人々は飲みすぎている慣習が格別すぎて酔っ払いたちが見えない日がほとんどなかった。 ...私漢江を旅して観察した結果では、酔ってしまうのは、韓国人たちのユニークな特徴であると断言できる。
しかし、これはあまり品を落とすこともありません。 韓国では一部の人々が理性を失うほどに穀酒を飲むも、誰も彼を獣とは思わない。
(イザベラ·バードビショップ、 "韓国とその近隣の国々 "、1897)
 
 
ニホン統治の時代がやってくる 1905~総督府設置
 
狭いところで幅55フィートの大通りは、かつてコレラの温床となった不潔な路地のあったところである。狭かった道路は広げられ、どろどろの汚水が流れていたみぞは舗装され、道路はもはやごみの独壇場ではなく、自転車が広くてでこぼこのない通りを「すっ飛ばして」いく。「急行馬車」があらわれるのも間近に思われ、立地条件のすばらしいところにフランス系のホテルを建てる構想もある。正面にガラスをはめこんだ施設は何件も立っているし、通りにごみを捨てるのを禁止する規則も強化されている。ごみや汚物は役所の雇った掃除夫がしないから除去し、不潔さで並ぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている。
 
 
(翻訳:みそっち) 
 
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▲韓国人は現在でも不潔だという認識でほとんど正解です
 
 
さて韓国のある朝鮮半島は流刑の地として古くは中国の各王朝が最下位に見下していた言わば穢れた地でもあるんですが 男子が生まれますよね次男三男に分ける田畑なんか無いんですからそー言うのが博徒になるんです(国定チュージにあやまれっ)、このへんは江戸時代のニホンに似てるかも、女の子ゎ中国に輸出されちゃうから品薄でしょその辺で国技が生まれたのだと思います。しかも米が取れないんです、たべものは雑穀類だけ 当然のようにアゴが発達しますね"ゲタ顔"が韓国の起源である事は間違いありません。
 
しかもこの時代にキムチ(白菜漬け)は存在していないんですね、結球する白菜はニホン統治時代に輸入されたものですし唐辛子が朝鮮で栽培されるようになったのもその頃からなんです。
 
 
何食べてたんだろ?