minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

犬食文化が恥ずかしい②

 
 
面接の質問
①犬肉を食べますか?
②犬肉を食べることができる、あるいは食べてはいけないと思ったら、理由は何ですか?
③肉と関連して浮上する個人的な経験があったら?
④犬肉関連の法制化にどのような意見イシンガヨ?
 
- ①畜産物衛生法では、畜産物と規定しその養成と健康を管理しなければならない。
- ②食用禁止を法制化しなければならない。
- ③別の意見があったら?
 
 
犬の肉','文明:野蛮'を越えて
 
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▲動物保護市民団体カラー(KARA)の犬食用反対バス広告(c) KARA
 
先週末<ハンギョレ> ‘土曜版’には興味深い記事がのせられた。10面と11面にかけたこの特集の題名は‘町内犬、オピニオンリーダーに尋ねる’だ。平均的な韓国人ならばこの記事が何を扱ったのかは水を必要がない。合う。題名は多分わざと取り澄ましたが内容はとても単純な質問、‘犬の肉食べるか、食べないか?’と‘犬の肉関連法制化’に対する意見だ。
 
当初この特集は大統領選挙走者の‘犬の肉政策’を尋ねるために企画されたがこれらがほとんどの意見を明らかにするのに難色を表わして、‘キジの代わりに鶏’に意見を聞いたのだ。質問に答えたこれは全八、小説家(イ・ギョンジャ),大学教授(祖国·珍重権·パク労資(老子)),野球である(キム・シジン),宗教である(キム・イングク),喜劇人(キム・ウォンヒョ),雑誌発行人(キム・キュハン)等だ。 パク労資(老子)は帰化したロシア人とか‘オ血ニア リーダー’の標本ではとてもなかなか良い組合だ。
 
<ハンギョレ>土曜版特集'町内犬…'
 
質問は単純だが、編集者が明らかにした通り‘犬の肉は人本主義と脱人本主義、民族主義と普遍主義など特殊と普遍が衝突する地点’であり‘論理でだけ解ける問題もいや’だ。 席に横になってそよそよと記事を読みながら私の意見はどのあたりなのかを推し量ってみた。
 
 
イメージ 2▲犬の肉関連年表(c) <ハンギョレ>
私は幼い時から犬の肉を食べて育った。 別に寺に行くおとなもない典型的な儒教家庭なのでそれを敬遠するほどのどんな理由もなかったのだ。 私たちは主に夏に開場で沸かした。 犬肉のスープ中に入った赤身の肉の繊維質とお父さんが広場で焼けたうわべ(殻)のこりこりとある味が印象的だった。
 
犬の肉も日常的に食べたことではなかった。 我が家では主におばあさんやお父さんの落ちた気力を回復するために犬の肉を食べた。 狭い農家の財産でむやみに取って食べることができる家畜ではなかったし、豚や鶏はそれ(彼)より易しかったがやはり日常的に食べることができる肉ではなかったのだ。
しかし犬の肉は最も容易に接近できる田舎者の栄養と蛋白質供給源だった。 ‘犬の肉を色々な薬味、野菜とともに孤児沸かした国’を犬肉のスープ(-醤-)としたが、犬の肉の代わりに使ったことは‘ユッケジャン’、鶏肉を使ったことは‘鶏開場’と呼ぶ理由がここにあることだ。
 
家ではいつも犬を育てたのではなかった。 小学校低学年の時にかなり図体が大きい黄色い物を育てた。 この頃のように家に入れて育てる‘伴侶犬’はもちろん違って野郎はしたところでご飯カスも食べて生きた。 私は昔も今も家畜を触ってするのを敬遠して野郎を遠くに眺めるだけだった。 記憶にないが多分その犬は家で取って食べただろう。 もちろん私は犬肉のスープで野郎を食べただろう。
 
 
"楽しまないけれど食べる"
 
高等学校に通う時、家で育てた小さい雑種犬一匹に対する記憶はかなり鮮明だ。 こいつはどこかで劇薬を誤って食べてぜいぜい言って息をひきとった。 かろうじて息を切らせている野郎を眺めてばかりはいられなくてお父さんの忠告についてせっけん水を作って口を開いてそれを浮かび上がって食べさせたが結局野郎は腹の中のものを吐いて出すことができなくて目をとじた。
多分それが私の人生で唯一人でない獣に感じた憐憫の全部でないかと思う。 死んでいっている野郎の姿をそのまま眺めることができなかったこと私が感じた‘動物愛’の全部であったようだ。 その日夕方食卓に犬肉のスープが上がったが、私は少しの間迷ったがすぐ雑念を振り切るようにそれを食べて不快ですぐさじを置いてしまった。
 
▲食用掘って入る(c) <ハンギョレ>

私は犬の肉をよく食べるほうだ。 しかしそれを‘おいしい’でここではあるがわざわざ尋ね歩きながらもそれを楽しむ方ではない。 なぜ一回ずつきれいで淡泊な‘犬肉のスープ’(私は‘犬肉のスープ’を‘ポシンタン’で呼ぶのを好ましく思わない。 イ・スンマンが命名したという‘ポシンタン’という名前は他人の視線を念頭に置いて作った‘隠し’の名前であるためだ。)ウル一杯食べたいと考えるがわざわざそれを食べに道を出ないという話だ。
いわゆる‘ポシンタン’ブームがあった1980年代中盤に教職に身を置いた。 1988年3月に故郷近隣で学校を移したがオリンピックを控えて村地域にもポシンタン集の営業制限が始まった。 大変なにぎわいを成し遂げたポシンタン集一つは市街地を抜け出した面地域に移っていったといった。
その時、犬の肉を食べる楽しみを奪われたこれらの中で唯一思い出すこれは地域の天主教修道院の新婦と捜査だ。 特に地域本堂主任だったドイツ人新婦1人がそれをとても惜しんだという。 好んで食べることはないけれど、きのうも食べたという沃川(オクチョン)聖堂のキム・イングク神父のように唯一キリスト教側に犬の肉を楽しむこれらが多いようだ。
90年代中盤に復職しながら慶北(キョンブク)、北部地方で移ってきたがそこではポシンタンが依然として人気であった。 同僚らと共に犬の肉集を出入りしたが私はそれを別に楽しめなかった。 よく分からなくても北部地方の調理法が違ってから私が幼かった時食べた犬肉のスープの風味が感じられなかったためだ。
菜食を楽しんで‘肉庫期’を遠ざけるお母さんが唯一よく召し上がるのが‘犬肉のスープ’と犬の肉であった。 私はお母さんに過去の犬の肉味を見せてさしあげようと近隣有名犬の肉集を歩き回ったがお母さんはとても口に合わなかった表情だった。
 
犬の肉、'文明:野蛮'を越えて
 
単純に非衛生的な流通や非人間的な管理実態のためだけではないつもりだった。 私はこれ以上以前のように犬の肉を食べることができないだろうとのことを分かった。 そして数年が流れたし私はその間一度も犬の肉を食べなかった。 私もそうしたが周辺の誰も犬の肉を食べようといわなかった。 時間はもう反対側に傾き始めるようだった。
 

<オーマイニュース>ブログを通じて獣医師として自身のアイデンティティをまっすぐにたてていっている生態主義者、‘年を描いて’あなたに会ったのも影響を及ぼした。彼は‘平和と生命が共にする動物病院’を運営しながら動物保護団体KARAとともに定期的に遺棄抑えがたい保護所奉仕活動に参加するこれだ。
彼の粘り強いながらも真剣な実践を見守りながら私は私がこの古くなった食習慣からいつの間にか遠ざかっているということを感じた。 しかし私はまだそれを内面化することができなかった。 イ・ソンウン明らかな選択を下しているけれど五十年超えてそこどんな問題意識も持つことができなくて生きてきた情緒は依然として長い間の慣行を抜け出せずにいることだ。
心情的には‘気持ちが気楽でなくて’犬の肉を切ったというキム・キュハンに近いが彼の講壇に従う程犬と犬の肉を眺める私の視線は熟成されることができなかった。 食べて切ったというキム・キュハン、チン・ジュングォンでも食べるがわざわざ探しはしないという祖国、キム・イングク、キム・トゥシクの意見は民族主義を越えた‘犬の肉論争’の現住所を曖昧に表している。
 
この頃は周辺に別に食べる人もなくてどうしてもソナー鶏に比べてアクセシビリティも落ちて…気まずかったり……。” “現在の工場式畜産システムで見る時犬の肉がさらに野蛮で見る根拠はありません。”
-キム・キュハン
 
“金やって買う程ではなくて年上おとなや先輩たちが行くとすぐにすればあえて嫌いだとし他の所行きはしません。”
-祖国
 
“……片方は文明で片方は野蛮だと考えるのは誤りましたよ。”
-チン・ジュングォン
 
“わざわざ行きはしません。 機会なれば行くものでしょう。” “食べてはいけないと考えはしません。 ところでこの頃は犬が哀れだという気がします。”
 -キム・イングク
 
“楽しまないけれど誰が無理に行こうといえば避けはしません。”
 -キム・トゥシク
 
この累千年にかけて連綿に続いてきた食生活文化はもう‘民族主義’と‘文明大野蛮’というなじむ論点は越えた。 残ったことは生命の観点、もうそれを追認しろといつの間にか圧力を加えるのは時代だ。 この普遍の論理を断る力が以前のように残っていないようだ。
‘法制化’意見でキム・シジンとチン・ジュングォンを除いた六人皆が‘陽性化·衛生管理’側に手をあげたことはこのような傾向を反映したように見える。‘犬の肉食用’に関する限り‘食用禁止’という劇薬処方よりは‘認識の変化’で自然に解決されるのが正しいと感じるように見え。
 
私の意見?キム・イングク神父はそのように言った。"意見ないです。ところで二重的です。上に上がってくることならば衛生的な管理をしたら良いですが、それではまた申し訳なくて…。"彼の意見生え際(周囲)に私の意見もある。法的強制的に食用を禁じるのは明らかに違ったようだが、あのぞっとする屠殺システムを衛生管理すると?それでどれくらい変わるだろうか?
 
城主(星州)招電市場に行けば赤身の肉を細かく破って入れた開場、いわゆる‘シル開場’を淡泊に沸かすおばあさんがいた。 20余年前のこととか老人はすでに亡くなって長くなったところだ。 しかし私は城主(星州)近所をすぎるたびにいつかその老人が沸かしたシル開場味をかすかに思い出させてかすかな郷愁に浸ったりする。 なので余技ぐらいであるわけだ。 この古くなったイシューの前に私が先席が>>>
 
(翻訳:みそっち)
 
 

 
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