韓国では親の扶養を誰が担当するのか
親の扶養の責任を負うべきかについて、長男との回答は1.3%
親孝行してきた最初で最後の世代は親孝行してもらえないのか
[NEWSミーナ]25日、韓国聯合ニュースは、国民の両親扶養価値観と態度が急変していることが明らかになったと報じた。手短に言うと最近の調査で明らかになったのは、親の扶養の責任を誰が負うべきかについての問いに、長男との回答は1.3%しかないということだ。
統計庁の2002~2018年社会調査を分析すると、「親の扶養を誰が担当するのか」という問いに「家族」と答えた割合が、2002年には70.7%に達した。しかし、2006年63.4%、2010年36.0%、2014年31.7%、2018年26.7%のように縮んだ。
家族の中で誰が親の扶養の責任を負うべきかについて、長男との回答は、2002年に15.1%、2006年12.4%、2010年5.0%、2014年2.0%、2018年1.3%などで墜落した。親の面倒は子供が見るという意識が急速に減少しているわけだ。
これに対し、国家と社会などによる公的扶養意識が拡散し、親自ら解決しなければならないという考えが大きくなっている。
1960年代の朴正煕大統領の頃に国民に強制された、”長男や息子中心の家父長的親扶養感” や ”孝を基盤とする家族主義” が無くなり、小家族・核家族化が進むと社会規範と制度が変化して親の面倒など見たくない子が増えたし、両親扶養の責任が家族にあるという認識も急激に縮小されて、国家と社会などが責任を負わなければならないという考えが明確になってきている。
「社会あるいはその他」に親の扶養に責任があるという回答は、2002年19.7%から2006年に28.8%、2018年には54.0%にもなっている。
(ソウル/みそっち)
みなのコラム 朝鮮時代⑦
みなQ:朝鮮時代にね、翌年の種籾を貸すんですよ。これが10倍返し(のちに30倍返しになる)なんですけど。やっぱり種籾を取っておいて借りない人もいるんです、するとそこのウチの畑をめちゃめちゃにしちゃうんですね。ええお役人のお仕事です。
地方のお役人でも中央に納める年貢が集まらなくて借金(お金じゃないよ)したのがいました。正確には、漢城(今のソウル)のお役人に贈り物をして、年貢が倉庫にあるようにしてもらうのです。中央のお役人は実入りが少ないですから空っぽの倉庫とぎっしりとした帳簿を引き継ぐごとに贈り物を要求するのです。
倉庫の中身を調べられちゃうときには倉庫の中身を借りてきて検査を受けたり、査察官に贈り物をしてしのぐのです。 どっかで見たような社会ですよね(韓国ダロ)
司会:まるで今の韓国のようですが
みなQ:途中で抜き取られる社会だったのです、国ができて最初からそうだったのでどうしようもなかったのでしょう。たとえば農家が100作るとしても中央には10どころか5も届かないのです。それでも中央のお役人は毎年の税収がこれこれという記録を残していました。途中で売官や贈り物で消えちゃうのです
500年もの間の朝鮮時代にはニホンの楽市楽座で知られるような商業の非課税が無かった、朝鮮では物資の移動には幾重にも私的に設置された関所を通り抜ける必要があり商業の発達は見込めなかった。いわゆる通せんぼである。
司会:まるで今の韓国そのものを見ているようですね
みなQ:朝鮮末期に王の父となった大院君ってのが景福宮を再建しようとします。加藤清正がやってきたときにはすでに焼け落ちていて朝鮮の王宮だったそうですよ。そこにお金がかかるんですが、どうにもお金が足りない木材が足りない。
そりゃそうです、運んでくる途中で荷物が消える木材が消える、人夫に払う手間賃が消える。そりゃあもう途中のお役人が多段階にネコババするから無くなっちゃうのです。
司会:まるで今の韓国と変わりませんね
みなQ:景福宮再建の総指揮者は何度も変わっているんですが、最後のひとり(かなり下っ端の役人)は一つの解決策を思いつきました。 燃やしちゃえと いえいえ、建設の途中で燃えたのか、集めておいた材料が燃えたのか、それが誰の責任者だった時だったのかよくわかりませんが。とにかく原因不明で燃えちゃえばそれでOKということです。※OKの語源は1839年アメリカ、景福宮再建は1864年~
司会:光化門の額縁を書いた人ですね
みなQ:そうやって国民のほとんどが借金まみれになったのが朝鮮時代末期でした。
朝鮮の石高はおおよそ800万石ですよ、これは500年間変わってません。大名のいない王政国家ですから全部ひとり占めできるんですが、どうしてもお役人を使わなきゃなりません。そのお役人を科挙で選ぶっていうと中国をお手本にしたのがバレバレですけどそれがやっぱり世襲制になってきたのです。
※下っ端のお役人という身分も選抜式から世襲制に代わる
司会:朝鮮人の主食はコメじゃなかったのですか?
みなQ:田畑があるのだからコメだろうと考えるのは間違いです。田植えすらも無かったのが朝鮮でした。朝鮮の古そうな風俗画に田植えがあるらしいですが、あれは戦後に発見された贋作に載っているだけで、朝鮮の開国初期に半島を訪問したニホンの官吏の記録にはしっかりと「田植えが無い」と記されています。
当時の朝鮮の農村っていうと、農業が30%、働かない下級役人(両班)とその子孫が5%、行商も5%程度、あとの残りは田畑を持たない流れ人です。彼らには自分の地面がありません、畑のお手伝いをして暮らしていました。
これが奴婢なのかというと違います。奴婢というのは能力があってその能力の対価を受け取る身分で、今でいうとお手伝いさん家政婦さん、機織りの得意な人のような技能職のことなんですね。そんな能力があるから ”売買” されるんですが、まあトレードのようなものです。
働いた農民から年貢が半分持っていかれる社会ではない、租庸調が19世紀まで行われていたのが朝鮮だ、租庸調に年貢は無い、農作物から納める分は雑穀でも綿糸でもよかった、士農工商という身分制度もニホンの歴史に当てはめてみるからそのような分類の間違いをしでかしている。筑波大学の教授あたりでも朝鮮の士農工商を引用したりするがそのような身分制ではない。同様に、石高で誤解するのだが主な生産品はコメではない、コメは朝鮮時代を通して17~21%程度しか流通していない。
そんなはずが無いと考える朝鮮通らはコメの袋が大きかったので石高が誤って記録されたのだと言い出すのもいる。正に堂々巡りなのだ
みなQ:その一方で ”田畑を持たない流れ人” っていうのが、どこにも分類できないひとたちです。納税の義務もありませんし、兵役も租庸調も関係のない人たちです。
※これを奴婢や非人に分類するからややこしくなる
なんでそういうのがうようよしているのかというと、農業なんかね、やっても借金が増えるばかりだから誰も農家なんかやるもんかってね、逃げだしちゃう。そいうひとたちです。 ※借金といっても朝鮮時代には銭は流通していないからお金ではない
司会:今でも韓国には無職のひとが多いようです(2015年 1580万人)
みなQ:んでもどこの農家にも次男三男がいるのでその土地を耕す人には不自由しません。不足する労働力は ”田畑を持たない流れ人” がやってくれます。そいうわけで、新田開発だの治水事業に水車ため池なんてものは全く発達する必要が無かったわけです。
そうやって身分を買った人なんかは記録にあるんですよ。証文もあったりします。
んでもそれはほんの一握りでしたよ。そのうちに地方のの役人が売官をはじめると相場が安く取引されるようになってきてそれでも借金を返せないのがムシロ旗を立てて東学党の乱ですね。朝鮮の開国から併合までは35年かかっているんです。
◇ ◇ ◇
再掲載
あのほら、「朝鮮末期には産業も発達してきていたが日帝がすべてこわした」式のハナシがあるじゃないですか。 あれウソなんです、産業が発達したのは日帝時代になってからなんです。 そいじゃおかしいじゃないか? いえいえ韓国人は朝鮮末期と日帝統治時代を区別していないんですね。身分制度が崩壊したのもニホン統治時代になってからなんですが、それを韓国では〝朝鮮末期に身分制度が崩れ〟なんて言い出しちゃうでしょ。
ニホン統治時代までは朝鮮には身分制度が延々とあったんですよ。 それが証拠に、平民出身の独立運動家ってぜんぶニホン統治以降に出てきますよね。そりゃ当り前ですが、朝鮮末期の政治家や開国運動家っていうのはひとり残らず家柄の正しいところばっかりですよ。 生粋の両班出身者ってことです、まぁ支配者階級ですよね。これが人口比で5%くらいというのが上限でしょう。
没落したのや成りすましたのも合わせてそのくらいです。あとの95%は創氏改名で大喜びした階級ばかりです。
ところがニホン統治時代なんていうのが35年も安寧に続いたものだから、俺もウリもみんな両班階級の末枝って名乗るようになったじゃないですか。
はるかむかしの先祖が両班だったのに現在は農業やってますなんてどう考えても変ですが、韓国には3代続いた百姓っていうのがありません。ほんの100年前に全員が身分詐称したことで、両班形式の祭祀ってものを物まねするようになったのです。
そのころの残り95%は「親孝行のむすこが亡くなった親を背負って埋めに行く」というひとたちでした。 そこに葬儀や祭祀や墓まで強制したのが朴正煕だったわけです。
再掲載
朝鮮人にとって働くとはどういうことだったのか
朝鮮時代にね、たびたび課税が強化されたんですよ、あるいは天変地異や農民の蜂起もありましたね。するとそれが嫌で逃げ出して納税や国防の義務から免除されていた奴婢という身分になったのが急に増えたのだそうです。
これは誤解されがちですが、農地を捨てて逃げ出したのが増えたということです。これを 王族-両班-常民-奴婢>>という分類に分けてみると王族じゃない、両班-常民でもない。そいじゃコレだ、というのでそいうことになったのです。
朝鮮時代の奴婢っていうのは労働を強制されるわけでもない放し飼い状態だったと考えればいいかもしれません。
もちろん雇用されていた奴婢もいるわけですが、それだって自由意志で好きなところに逃げたりしていました。だから人身売買なんて訳じゃないですね、雇用契約書があって内容は奴隷契約だったというのは事実かもしれませんけど、韓国版の『グローバル世界大百科事典』が正しいことを書いてるわけじゃないのです。
それどころか、「こうだったに違いない」なんてことを書いているのです。
逃げても常民じゃないので定住先が無いですね、農地も無いです。それで常民の農家が収穫なんかやってるところに手伝いに行ってわずかばかりの食べ物を得ていたんです。住むところだって常民の納屋の隅っことかでいいんです。納屋がなければ隅っこに小屋を建ててそこに寝起きするんです。おなかがすいても畑の物を盗むと叩かれますから、専門の盗賊になったのもいたことでしょう。
けものの肉を解体して皮を剥いだり?
それこそ専属の身分があって呼び名もあったでしょ。
農民じゃないですよね、何か売ってるひともいるようですが、そいじゃ商人?? 違いますね そいじゃいったい何なのよ。これってニホン的に士農工商以下略に分類したり朝鮮時代の身分制度がこうだからこれこれ、というわけじゃないのです。
日清戦争のもうちょっと前に朝鮮は開港したんですよ。それまでもニホンや中国の商人がわずかに朝鮮沿岸部に住んでいたんですが、急に外人が増えることになったわけです。
すると土木工事なんかが始まるし西洋式教会や和式店舗や中華式大飯店が立ち並ぶようになったわけです。仁川がまだ済物浦と呼ばれていたころです。以前からニホン人が定住していた釜山にもニホンの旅籠や商館が続々と建ち並び始めたのですね。
事実上の開国ですからほかの国も次々とやってきます。もうソウルは建設ラッシュですよ。このように現場作業員の需要が増えたけど、なぜか朝鮮人が集まらないのだそうです。働いても貰うカネを知りませんから働かない朝鮮人というイメージが生まれたのもその頃です。
そこで中国人労働者がたくさんやってきたんですね。日清戦争の前後には中国からの労働者が朝鮮の開国景気で大勢やってきたのです
ニホン的分類じゃダメ 朝鮮時代の身分制度の分類にも対応してない。そうなれば現代のソウルに当てはめてみるのがイイんじゃないかと考えたわけです。
ソウルばかりじゃないけど。何してるのかわからないけどそこに大勢暮らしてるでしょ。週末にはデモ行進してるのがソウルにいるでしょ。定職のないのがソウルにはいくらでもいるでしょ。 そいうひとたちの先祖ですから