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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

合理的に推論すると独島ニダ 週刊朝鮮

 
独島の主張の根拠が無いから合理的に推論するニダ
 
 
イメージ 1[2ちゃん番長]1900年10月25日、大韓帝国勅令第41号は鬱陵島竹島、石島を鬱島の管轄と宣言した。大韓民国は勅令上の石濤がまさに独島を指すと主張する。
 
<鬱陵島を鬱島に改称して島監を郡守と改正したのは>
第1条、鬱陵島を鬱島に改称して江原道に付属させて、島監を郡守と改正し、管制中に編入してふるまうなどは5等とする。
第2兆郡庁の位置はテハドンに定め、区域は鬱陵島全体と竹島、石濤(石島を管轄する。
一方、日本は、大韓帝国勅令第41号上の石濤は鬱陵島に付いていた観音もないし、鬱陵島周辺の岩の島らを総称する表現でこの勅令は決して、独島領有権の根拠にはならないと反論する。いや、むしろ当時の大韓帝国が独島を知らずにいたという有力な証拠だと主張する。日本は韓国が朝鮮時代、独島の一般的な名称が、于山だったと主張しているが、何の説明もなくこの時点に傘の道を石濤に改称したはずがないとし、皇城新聞1899年9月23日付の記事を根拠として提示する。
 
'蔚珍郡の東海にある島があり、鬱陵というが、その付属した6島の中でも最も著しいものが于山島、竹島だから大韓支持に至るを鬱陵島は昔于山国と。'
大韓民国の主張によると、ここの于山国は、独島を示すことが明白というのが日本側の主張だ。
この勅令盤浦わずか1年前に于山島と呼ばれた島を何の説明もなく石濤と変更することはなかったものってこと。また、日本は1906年7月13日付の皇城新聞記事を根拠に勅令上の石濤は決して独島にはならないと主張する。
'統監府で内部に江原道三陟郡管下素材、鬱陵島に属する図書と郡庁が初めて設置された年月を詳らかに知らせとして答え、光武2年1898年5月20日鬱陵島都監に設立していたが、光武4年1900年10月25日、政府会議を経て、軍需を配置したので、郡庁はテハドンに置いて、この軍が管轄する島は竹島と石濤です、東西が60里、南北が40里、合計が200里あまりとしたそうだ。'
日本がここで注目している部分は'東西60里、南北40里'だ。独島は鬱陵島東南90㎞の距離に位置している。付・皇城新聞記事によると、鬱陵島に属する島嶼に石濤が含まれるが、、東西60里(24キロ)とされているので当然、独島は鬱島郡管轄に属しないということだ。
 
また、日本は1907年、張志淵の'大韓新地誌'と’大韓全図'を根拠として提示する。大韓新地誌には于山は表現があるだけ石濤という表現がない。1900年、大韓帝国勅令第41号により、独島の公式名称が石濤になったら于山も代わりに石濤という名称が使われなければならないが、そうではなく、この本の附図に挿入された'大韓全図'には、独島が最初から描かれていないと強調する。
 
 
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また、1946年チェ・ナムソンの‘朝鮮常識問答’には‘朝鮮の東側終わりは東経130度56分23秒の慶尚北道キョンサンブクト)、鬱陵郡(ウルルングン)、竹島(チュクト)’と記述されているが、ここの竹島(チュクト)は鬱陵島ウルルンド)北東側2kmの距離の五つの島を示すことで独島(ドクト)は朝鮮の領土と見なされなかったと主張する。
 
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これだけではない。高宗が鬱陵島の現況を把握する目的で1882年4月に派遣したイギュウォンと1900年5月に派遣したウヨンチョンの報告書に独島に関する言及がない、ということも根拠として提示する。
 
高宗は朝鮮時代、太宗の時から実施された'鬱陵島無人政策'を廃止して'鬱陵島開拓政策'を実施した。鬱陵島に民を移住させて開発することで、鬱陵島を朝鮮の領土として言いたかったのだ。鬱陵島開拓政策を施行する前に鬱陵島の現状を把握するため、イギュウォンが派遣されて、大韓帝国勅令第41号が頒布される5ヶ月前ウヨンチョンが派遣された。
 
イギュウォンは'鬱陵島検察日記'、ウヨンチョンは'ウルド記'という報告書を作成した。ところがイギュウォンの報告書には観音道と2㎞の距離にある竹島については記述されているが、独島については記述が全くない。むしろソンインボンにいたっては”他の島があるか探してみたが、探せなかった”と記録されている。
 
'辺りを見回したが、海には一点の島嶼もなかった。'
報告書に添付された'鬱陵島外道'という指導には観音道と、竹島は描かれているが、独島は描かれていない。ウヨンチョンの'ウルド記にも、独島に対する記述が全くない。
日本はこのようなものなどを根拠に提示して1900年10月25日大韓帝国勅令第41号公布当時、大韓帝国は独島(ドクト)の存在を知らずにいたと主張する。 このような主張は1905年独島(ドクト)が日本に編入される当時主人のない土地だったとの主張につながる。
 
このような主張と根拠は私たちを困惑させている。いったいなぜこんなことだろうか。独島と関連して最も解決が困難な部分がまさにこの部分だ。
 
石濤が独島を指すという証拠さえ発見されれば、あまりにも簡単に解決できる問題だが、一切発見されていない問題がある。韓日併合以降、日本が関連資料を焼失させた可能性がある部分だ。
結局すべての状況を考慮し、合理的に推論するしか方法がない。これから多くの史料の検討と研究が必要な部分であることを予め明確にしておいて現在までの推論の内容を整理してみることにする。
 
1.高宗は独島の名称上の混乱を正そうと石濤へ改称した。
1882年イギュウォンを独島に派遣する当時、高宗は鬱陵島と独島の状況について綿密な検討を終えた状態だった。これは高宗とイギュウォンの対話を通じて知ることができる。高宗実録高宗19年1882年4月7日付の記録だ。
'イギュウォンが"于山国はすぐに鬱陵島であり、于山とは、昔于山国の国王の名前です。ソン、竹島は一つの小さな島ですけど、鬱陵島と離れた距離は3の数十里くらいになります。ここで俺は品物はビャクダン科と殺すようにします"と告げた。
賃金が"傘ドラとも言って松竹ドラとも言っが、全部、東国輿地勝覧に載っている。また松島、竹島ともしているのに傘助けて一緒にこの3島を通称鬱陵島とした。その成り行きに対して一緒に調べさせなさい"とした。
イギュウォンが"謹んで深く入って見てみます。どんな人たちは松島と、竹島鬱陵島の東にあると言うが、松竹も外に別に松島と竹島がいるわけではありません"と告げた。'
高宗は鬱陵島が3つの島、鬱陵島と松竹も及び傘道路構成されているといういわゆる鬱陵島3軍図説に立脚して口を開いた。一方、イギュウォンは傘助けて鬱陵島は同じ島にひとつであり、鬱陵島のほかに松竹ドラは島がもう一つあるという鬱陵島2軍図説に立脚して反論を提起している。これに高宗がもう一度鬱陵島3軍図説を強調し、その形勢をよく見るよう頼む。
鬱陵島に付属した島は観音道と竹島、独島に大別され、残りは'?岩'とし、島というようなものがない。観音道は鬱陵島にほぼついているために観音道を取ると、鬱陵島竹島、独島の3軍図説が妥当である。
高宗は領土に関心が多くならざるを得なかった。世界帝国主義列強が虎視眈々と朝鮮を狙っていたからだ。特に1882年は間島問題が提起され始めた時だった。高宗はイギュウォンも、鬱陵島と独島の名称に混乱を起こしている状況を見ながらこれを正そうとする考えをするようになったのだ。
 
ついには方言まで登場?
大韓民国には3000余りの付属図書がある。この島々の中には'ドクソム'ないし'の石の島'と呼ばれる島が多いが、行政区域に編入させるために、漢文に転換され、'石濤(石島'や'独島(日本名:竹島)'で表記された例が多い。
高宗は1882年、鬱陵島開拓政策を実施し、民を移住させたが、主に全羅道の人々だった。全羅道では石を'ドク’と呼ぶ。石濤(石島を純ハングルに切り換えると、石の島で全羅道方言ではドクソムとなる。
日本は歴史的に鬱陵島を竹がたくさん飛んだとして竹島(・竹島)と呼んで、独島は竹とカップルになる松を借用して松島(松島・松島)と呼んだ。朝鮮の島の名前と日本の島の名が異なり、混乱がもたらされていた。
一方、1787年鬱陵島に到着したフランスの探検家ラペルジュはイギリス陸軍士官学校教授タジュルレ鬱陵島を初めて確認したという理由で、鬱陵島を'タジュルレソム島'と命名して海図に表示した。1847年にはフランスの捕鯨船リアンクール号が独島を発見して船の名前を取って'リアンクルロック(Liancourt Rocks)'と命名して海図に表示することになる。
 
証拠は無いが主観的には独島が正しい
 
19世紀末の朝鮮は西欧帝国主義列強によって強制開放されて、各種の西洋の文物を接することになる。1896年高宗はロシア大使館で1年を過ごせるようになる。いわゆる露館播遷だ。このような過程で高宗(コジョン)が西洋の海図を見ただろうというものは当然だ。 西洋海図には独島(ドクト)がリアンクルロックと記載されていただろう。 ロック(rocks)を韓国語ですれば石になる。
これが1900年、大韓帝国勅令第41号に独島が石濤で記載された経緯だ。鬱陵島をウルドに改称して鬱島郡の管轄と鬱陵島竹島、石濤が表示された理由を吟味する必要がある。
勅令には鬱島郡の管轄と'鬱陵島竹島、石濤'が記載されている。1899年付・皇城新聞には'鬱陵島、于山島、竹島'が記載されている。ここの竹島鬱陵島東海岸2㎞の距離にあるジュクソム(竹の島)を指す。竹島には甘みがたくさん出るスイカツルニンジン鬱陵島だけで私はサンマヌル(人)があり、牛を放生して育てるだけに、牧草地が発達している。また、土質がいい木がたくさん自生するが、竹が特に多い。勅令と皇城新聞を備えて見ることが時'傘も〓石濤'になるしかない。
 
2.石濤が独島になった理由
 それでは石濤が独島と呼ばれるようになった経緯は何だろうか。独島が独島という名前で知られたのは1906年ウルド軍需沈興澤の報告書をきっかけにしたものだった。1906年3月28日付沈興澤の緊急報告書を見てみよう。
'本軍所属の独島(日本名:竹島)が外の海100里あまりの外にあるが、3月28日8時ごろ汽船1隻が郡内の道洞港に寄港して、日本管理の一行が、官舎に来て自らいわく'独島がもう日本領土が選ばれた視察のために来た'としオプヌンて…。'
当時、独島は鬱陵島現地人たちの間で石の島からドクソムと呼ばれていた。もちろん、大韓帝国政府文書には、石濤となっている。ところで沈興澤は緊急報告書で'本軍所属の独島'という表現を使った。なぜだろうか。それは日本島根県第3部長金寨由太郎が独島を'独島'としたためだ。
'私は大日本帝国島根県の産業を推奨する仕事に従事する官吏で、耳もと、われわれの管轄に属する竹島はお互いに近くにいて、また、帰途に韓国人が滞在する者が多く、万事にわたって親切な心をお願いします。耳もを視察する予定だったら何か差し上げるものを持ってきたはずだが、今回の避難のために偶然帰途に立ち寄って何もしたいことがないが、幸いに竹島でとったアシカを贈呈しますので思ってくれたら嬉しいです。'
金寨は竹島を何度も言及した。沈興澤としては竹島がいずれの島を指しているのか聞いたことで金寨は竹島が独島と言ったのだ。沈興澤はこれを'独島がもう日本領土が選ばれた視察のために来た'は言葉で引用している。
それでは金寨はどうして竹島を独島としているのか、その答えは日本海軍戦艦新高(新高)艦1904年9月25日付の行動かに現れている。
'松島でリアンコルドアンを実際行ってみた人たちから聞いた情報。リアンコルドアン。韓国人はこれを独島(日本名:竹島)と書いて、本国漁師は減らしてリャンコドと呼称した。'
松島は鬱陵島、リアンコルドアンはリアンクルラク、つまり独島を指す。金寨は、韓国人たちが竹島、リアンクルラクを独島(日本名:竹島)と書いていると知っていたために、竹島がどの島かと問う沈興澤の質問に独島と答えたのだ。
沈興澤は、独島という言葉を聞きながらドクソム、石の島、石濤を思い出したのだ。沈興澤はこの報告書を江原道観察使霜イミョンレに報告し、イミョンレは中央政府に報告した。参政大臣の朴斉純と内部大臣の李址鎔(イ・ジヨンは報告書を受け、調査命令を発した。
ところが、彼らはすべて'独島'という名称に疑問を提起しなかった。なぜだろうか。独島が当然石濤を指すと考えたからだ。独島(日本名:竹島)を日本式と発音すると、'徳島'になる。韓国人は徳島が当然ドクソムを指すと考えたのだろう。
内部大臣の李址鎔(イ・ジヨンの指令が付・皇城新聞と大韓毎日新報を通じて記事化され、この時から石濤は、独島と呼ばれるようになったのだ。
'遊覧する道に土地の境界や人口を書いていくことはもしか怪しげないが、独島を指して日本中紙としたなんて、全然そんなはずがないのに今度受けた報告はひどく気にかかる。'
 
3.'東西60里、南北40里、合計200里'は鬱陵島を描写する典型的な表現である。
1906年付・皇城新聞記事上の'東西60里'という表現は鬱島郡の管轄区域を表現したのではなく、鬱陵島の東西の長さを表現したものである。、鬱陵島は慣用的に'東西60里、南北40里、合計200里'で表現されていた。1895年に発刊された朝鮮の支持の内容だ。
'鬱陵島は蔚珍にあるので周りが200里あまり、東西が60里あまりです、南北が40余りを。'
大東輿地図(1861年)と大同部屋も(1858年)の鬱陵島(ウルルンド)地図に記載された内容も同一である。
'東西60里あまり、南北40里あまりの週200里あまり。'
付・皇城新聞の記事はこのような表現をそのまま書き写したものと鬱島郡全体の管轄面積を表示したものではない。
 
4.イギュウォンは独島に関心をこぼすほどの時間がなかったし、ウヨンチョンは日本人の鬱陵島収奪状況と対策作りに苦心しただけだ。
日本は鬱陵島を踏査してきたイギュウォンとウヨンチョンの報告書に独島に関する言及がないという点を根拠に当時の大韓帝国が独島について分かっていたと主張する。しかし、イギュウォンとウヨンチョンの報告書に独島に関する言及がないのは当然だ。
まず、これらが鬱陵島に滞在していた期間を見ると、その理由が自明になる。イギュウォンは1882年4月30日から5月6日まで6泊7日間、鬱陵島に寝起きして、ウヨンチョンは1900年6月1日から6月5日まで4泊5日間、鬱陵島にとどまった。当時、車があったこともなく道路が発達してもいなかった。このような状況で4泊ないし6泊の日程は決して長い日程がない。イギュウォンやウヨンチョンは自分たちの主な任務を消化したことも忙しかったのだ。
第二に、独島はイギュウォンやウヨンチョンの調査の対象ではなかった。
イギュウォンに与えられた任務は鬱陵島に町が設置できるかどうかを捜査することだった。もちろん、高宗は鬱陵島3群島論に立脚し、周辺の島々の現状について省みるよう呼びかけた。しかし、イギュウォンは鬱陵島2君も論に傾倒していた鬱陵島鬱陵島と松竹ドラは二つの島で構成されているという先入観を持っている状態だったということだ。
高宗の要請によって鬱陵島周辺の島々についても格別に関心を傾けたことである。しかし、鬱陵島周辺にある島は観音道と竹島がすべてだった。イギュウォンはソンインボンにまで上がって他の島があるか探してみた。それがちょうど独島は見えなかった。独島は天気が晴れて風が多い日見える島であって恒常的に見える島がない。
ウヨンチョンの任務は日本人が鬱陵島で犯している資源の収奪状況を調査することだった。1900年ごろ日本は資源が豊かな鬱陵島収奪に没頭していただけ、まだ独島には関心がなかった。、鬱陵島竹島から、品質の良い木材を搬出して水産物を採取することが全てだった。日本側の記録によると、独島で転覆を採取し始めたのは1902年ごろのことになっている。
 
5.、張志淵と崔南善の著述は日本の植民史観の影響下に作成されたものだった。
1906年1月17日、大韓帝国の外交部だった外部(外部)が完全に廃止されて、1906年2月1日、統監府が設置されて伊藤博文が初代統監に任命される。、統監府が設置され、大韓帝国政府は完全に形式的な機関として転落し、全ての業務は統監府が実質的に処理することになる。1906年2月9日には、大韓帝国に駐在する日本憲兵に軍事警察権のほかに、行政および司法警察権まで付与する勅令が公布され、大韓帝国のすべての国家機能が日本に奪われてしまう。
こうした状態から張志淵の'大韓地誌で'が著述される。ここに独島が入ることができただろうか?期待しがたいことである。以降、独島は、世間の関心から遠ざかるようになる。1906年李址鎔の指令文をが新聞に記事化された後、これ以上、独島に関する記事は発見されない。
崔南善の'朝鮮常識問答'に独島が抜けたのは、当時彼が独島について特別な認識がなかったためだ。知らない間に日本の植民史観の影響を受けたからではないかとする。
以上に大韓帝国勅令第41号に于山国が石濤に記載されて石濤が独島と呼ばれるようになった理由について概観した。整理しますと、独島は伝統的に于山島と呼ばれたが、1900年石濤に改称された後1906年ごろから独島と呼ばれたということだ。
 
残念なのはこのような推論を裏付けるような客観的資料がないという点だ。高宗皇帝が傘図を独島と改称した経緯に関する記録が発見されていない点、石濤に関する他の記録が存在しないという点は、独島領有権に関連した不便な真実の一つである
 
 
(今日のミーナ)
 


 
そうでしたか ごくろうさまです