minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

朝鮮時代の高利貸しは"官営"だった

 
 
 
해괴제=解怪祭というけど高利貸しの話
 
飢饉になると食べ物が足りなくなるよね、そこで国が穀物を貸すでしょ
飢饉じゃなくても貸しちゃうから”国営の高利貸し”なんだ。
 
 
イメージ 1[文化ミーナ]朝鮮王朝実録には韓国に地鳴りや地震が2500件程度発生したと記録されている。それなら500年という朝鮮の歴史を通じて1年に5度の割合で地震が起きたわけだ。
ところが、朝鮮時代の人々は地震を果たして単なる自然災害とは考えていなかった。地震だけでなく、雷、津波、干ばつ、洪水などはすべて国王と官僚らの失政のために始まったものと考えた。
 
1418年11月18日、当時司諫院で勤務していたイ・ギョンムが国王である燕山君に上訴をあげる。イギョンムは、燕山君が女色を欲しがって政治を翻弄し、内侍らの権限が強くなって国事を誤ったことにしたために最近、雷がな鳴って地震が起きているとした。2年後には藝文館で働くカン・ドクウが再び上訴をあげた。国王の無能さや不道徳な行為によって絶えず地震が発生し、百姓が困窮に処するようになったと言葉だ。
 
イメージ 2地震発生が国王だけでなく、臣下たちの過ちのためだと思っていた人たちもいる。中宗の時、領議政だったキム・スドンは忠清道地域4つの郡に地震が発生したことは自分を含む政丞らの過ちのためだとし、辞職を求めた。
"御真影政丞を選んで天の意思に応答せよ"、中宗に懇願することまでした。その時、中宗は"地震が起きたのは、国王が過ちしたためであり、政丞のせいではない"、社稷上訴を受け入れなかった。
このように朝鮮時代には地震が単純自然災害ではなく国王と臣下責務を怠って`空が罰をくだすことという認識が広まっていた。それで地震が発生すると、調整では`解怪祭`という祭祀を行って怒った天地神明を慰めたりした。また、国王と官僚らは謹慎しながら、貧しくて無念な民を救済する政策を書いた。大赦免を断行して 還穀利子 を帳消しして、軍布を半分に減らしてくれて、苦しい民の声に耳を傾けたのだ。こんなことでもすれば百姓の不満が減って、空の怒りが解けて国が安定すると思ったからだ。
(以下略)
 
 
(翻訳:みそっち)
 


 
還穀利子
 
還穀とは官穀を、春窮期に貧民に貸した、収穫期に若干の利子を加えて返還する賑恤制度だ。朝鮮の開国初め、太祖は義倉(義倉)を設置して、最初は利子なしに貸与した。しかし、次第に貸与手数料と保有米の自然的消耗などを補充するために1~2割の利子を徴収した。1451年(文宗1)には国家財政の窮乏と各地方の換穀に対する要求が激増すると、義倉を補助する機構として各村落に社倉をおいて運営した。1458年(世祖4)には凶年に備えてサンピョンチャン(常平倉)を設置したが、高麗の時と同様、常設機関ではないため、1626年(仁祖4)にジンヒュルチョン(賑恤庁)に統合された。、平時には常平庁という名で物価を調節して、凶年にはジンヒュルチョンに改称して救済業務を担当した。
 
換穀は世宗の時から1ソムダン1斗5升、つまり10分の1の耗穀を利子で付け加えて返還して耗穀は、地方役所の収入にするようにした。16世紀の明宗時代から元穀の不足を埋めるため、耗穀1斗5升のうち、1升5合を戶曹にフェロク(會錄:帳簿に登録すること)するイルブンモフェロク(一分耗會錄)を施行した。
壬辰倭亂と胡乱で国力は極度に消耗し、税金制度は乱れて国庫収入が減少した。さらに、軍備の拡充が急務と登場すると、換穀の利息の増大を国費に充当しようとした。それで、耗穀1斗5升のうち、4升5合を戶曹にフェロクするサムブンモフェロクが施行された。このサムブンモフェロクは元穀の備蓄を目標にした、一分耗會錄とは違って、国家警備のためのもので、貧民救済となんら関係がない制度だった。
 
この時から耗穀の収入を増やすために、各官庁と軍営では換穀を新設したり、フェロク率を1/3フェロク、半分フェロク、全部フェロクなどに徐々に高めたり、またはフェロクなった耗穀で再び元穀を増やすことで、元穀が過剰状態に至ることになった。それで、換穀は貸与と救済の対策ではなく、課税と利息のための手段に変わった。したがって、民の必要の如何を問わず、貸し付けを強要しており、その利息率も高く、民たちの恨みを買うことになった。結局、換穀は高利貸しの性格を帯びるようになった。
 
 
~ほとんど略~
 
換穀の職についた受領と郷里たちの不正はますます激しくなった。チョン・ヤクヨンが著述した牧民心書によると、受領の手口では半作(反作)・可分(加分)・ホリュ(虛留)・イプボン(立本)・ジョンコ(增估)・ガシツ(加執)があった。衙前の輩の手口では半作・イプボン・が家・ガン類(暗留)・半白(半白)・分析(分石)・ジプシン(執新)・弾正(呑停)・、税引き前(稅轉)・です盒(徭合)・サホン(私混)・チェルク(債勒)があった。
 
このうち必要以上の米穀を強制で貸して利子を受け取るオオカミ、倉庫に一つもないのに帳簿にいるかのように飾るホリュ、出納関係に対する虚偽文書を作成する広がる(半作をボンジルで読む)、半分は糠を混ぜて貸与し、利子を詐取するかごま塩頭などが代表的なものだった。
 
 
朝鮮時代の三政とは税金のことで、軍布・田政・換穀
 
換穀サムジョン(三政)の乱れの中で最も弊害がひどいものだった。それで、19世紀には各所で騒動が発生したが、換穀が騒乱の主要原因となった。順天も例外ではなく、1862年5月に3,000人余りの農民軍たちが額に件を巻いてジュクジャンを持ったまま官衙を襲撃して郷里を殴打して各種文物と帳簿を残らず燃やしており、空転を奪った。そして農民軍らは水管に入って副詞ソシンボを相手に換穀、ギョルセ、ウォンジンドェン租税について問い詰め、その解決を要求するほど換穀の弊害は深刻だった。
これに朝鮮政府では1862年6月に三井改革を公布して8月には三井里程本を発表した。サムジョン里程本は換穀を廃止し、代わりに土地1結党2両ずつ歩いてこれまで換穀利子で運営される部分に充当することを命じ、統営フヮンヒャンゴクは湖南(ホナム)買った郡地域とで各邑の場合、本色に輸送することを規定した。
1867年(高宗4)大院君は1862年に三井里程庁の設立を機に、帳消しにされたホリュゴクを復旧して、貸与糧穀の回収規則を厳しくして利息は1割に固定した。換穀制と社倉制を折衷した給仕制に変える、社倉を、それぞれの面に置いた。社倉の運営は郷里の代わりに町の有力者たちの中から選抜された死守に管理するようにした。町の大小と貧富を酌量して換穀を差をつけて配分するものの、盤上の区別せず、策定するというものだった。1895年にはこれをサフヮンミ(社還米)に改称、条例を発表して自治的色彩を明確にして、利息を従来よりも、毎ソムダン5ドェシクを減じて換穀制度の完璧を図ったが、弊害は依然としてあった。
 
 


 
 
農民が困ったときにコメを貸すのが”換穀”っていう方法だったようです。
ところが”お役所仕事”ですから”飢饉”じゃない時にも貸すのですね。その利息が地方役人の取り分だったというのでしょうか? 
年一割五分って安いわけじゃありません 春に借りて秋に返すんです。
国庫の不足を”換穀”って方法で補おうとしたのが高宗の時代の”大院君”でした、地方の役人がさんざん甘い汁を啜っていたのを見て誰かが入れ知恵したのかもしれません。
そして納税は田んぼの面積ではなく一人づつに割り振られていたので納税の義務がある平民のなり手が減ったり、”新田開拓”が全く500年間行われなかったりしながら国ごと売っちゃう人も出てくるんですがそれはまた別の機会に
 
 
 
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