壬辰倭乱の亀甲船はすべて想像した産物
「亀甲船は確かに存在していました、ただ証拠が何ひとつ見つからないだけなんです」
身の丈1.3mじゃ小柄な当時の人でもムリでしょ そこでこんな折衷案を考え出しました。 by 順天郷大学校映画アニメーション学科 ホン・スング(53)教授
順天郷大学校映画アニメーション学科ホン・スング(53)教授は、社団法人ハングクイル・アート学会が発刊する専門学術誌'造形メディア学'8月号で、このような内容を公開したと大学側が明らかにしました。
今回の研究は亀甲船が学問的に研究されてから80余年ぶりに初めて明らかにされたもので、高さの解析に部材の筋書き。法と具体的理論的根拠を提示したという点から、現在復元された2階構造の亀甲船の解釈に影響を与えるものと見えます。
ホン・スング教授は論文で統制営、全羅左水営の亀甲船絵の分析と3Dコンピュータグラフィックスのシミュレーションで2階の高さを構成する横木、梁、間口、敷居、欄干の部材に対する科学的手法の解析で"統制営亀甲船は梁と鴨居を固定するネジが'関節歯車付きのネジ'になっており、4.3尺の高さは、特殊設計された盾の高さの寸法に過ぎず、亀甲船は結局、3階構造"という根拠を提示しました。
既存の研究では、文献記録上4.3尺(約130cm)の寸法を盾の高さだと解釈して2階の高さを推定してきました。約130cmの盾の高さでは身長が160cmくらいの朝鮮時代の水兵が立っていることも難しい低い2階の高さです。
ホン教授は、関連文献の4.3尺の記録そのものが'理解しにくいサイズ'と解釈されていない状態で残っており、なぜ低いサイズで設計されたかに対する研究も進められなかったと指摘しました。
また、1795年(正祖19年)に刊行された'忠武公李舜臣全書'に登場する2隻の亀甲船を2階構造と解釈した研究者たちがこれまでにで戸口までの高さ4.3尺を'理解しにくい低い寸法'と思っていた理由は、横木と梁を固定するネジを考慮せず、網戸の上にのせられたひさしの高さだけを考慮したためであり、戸袋に低い位置にある欄間の上に4.3尺の高さの盾と雨樋を上にのせて2階を解釈したためだと指摘しました。
※忠武公李舜臣全書:李将軍の死後200年過ぎてから伝記などをまとめて創作されたもので知られる、内容はほぼ読み物水準であり、しかもそのの内容は”平賀源内”の書いた”伝朝鮮之戦役録”とそっくりである
現在復元された亀甲船が2階構造と屋根が丸いお盆の形で作られたのは、統制営亀甲船の竜骨と船首を固定する造りを考慮せずに低いように解釈し、間違いで作られた結果だというのです。
1934年にH.H.アンダーウッドの研究で開始された亀甲船に関する学問的アプローチでは船底から先っちょまで高さが4.3尺という部分的なサイズだけ記録されており、壬辰倭乱当時、亀甲船と1795年の統制営(トンジェヨン)、全羅左水営の亀甲船が2階建てだったか、3階なのか、論争は現在までわかっていません。
ホン教授の亀甲船が3階構造とは理論的根拠や統制営亀甲船が文禄の役の亀甲船に近いという文献考証は論争となってきた亀甲船階数を究明し、壬辰倭乱当時、李舜臣(イ・スンシン)将軍の亀甲船の原型を明らかにすることに一役買ったものと考えられています。
彼は"水軍の戦闘行動もならない構造、どうして亀甲船の階高を4.3尺サイズ(約130cm)なのか深い疑念を抱いて3Dシミュレーションで接近して研究を開始した"、"これまで研究は、文献史学者中心の個人的主張もあったが、代案がなかったために亀甲船専門家たちが集まって議論が必要だった"と明らかにしました。
洪教授は、順天郷(スンチョンヒャン)大学で3Dコンピューターグラフィックアニメーションを講義しており、2009年度から朝鮮時代の亀甲船研究に着手、学術論文で'文禄・慶長の役の亀甲船改版の構造'(2011)、'文禄・慶長の役の亀甲船の船形と内部構造'(2014)があります。
(翻訳:みそっち)
まず最初にハッキリさせておきたいところでは、朝鮮の兵士は職業ではなく租庸調の軍役で集められたということです。ってことは普段は農民、あるいは荷担ぎする商人でした。しかも兵役逃れには布を納めればよい。朝鮮の軍役は手弁当持参ですからね。兵役が義務なので戦地への行き帰りの食費も自己負担です。(当時の朝鮮王朝の支出記録には文禄慶長の役に相当する戦乱での財政支出の記録が全然無い。)
それでもお役所には水軍の総指揮官とかの役職はありました。部下はいなかったんです。帳簿上の官職として水軍があっても将軍が実際に任地に行くこともありませんでした。 李舜臣というひとは今では将軍と呼ばれますが、彼のことを書き記した人物の同郷だったという程度の人物で、そのころに書かれた朝鮮王朝実録にも彼の名前は出てきません。
なにしろ彼の日記は彼の死後に書かれたことがはっきりしているので実在の人物だったかもしれないが、彼の存在を示す客観的資料や物的資料は中国明の記録にも一切存在していないのです。
というわけで李舜臣将軍の大活躍というのは彼の死んだ後の創作なんですが、その時に”彼の指揮した亀甲船”も創作されたわけです。
とくにその作者、あるいは読み物を書き写した人物は船の構造に無知だったらしく未知の推進力で水上を自由自在に飛び回ることを書いているんですが、李舜臣の死後に書かれたとされる唯一の資料っていうのが幼稚園児のお絵描き水準でしかないわけですね
李舜臣の死後200年を経て編纂された忠武公日記に初登場
しかも現在残っている18世紀に書かれた最古のお絵描き(挿絵ていど)からは大きさとかも判別できないんです。
しかもそのなかに登場する亀甲船というものは平賀源内(1728年~ 1780年)の空想戦記物に登場するもののパクリなんですよ。
本文中に出てくる”1934年のH.H.アンダーウッドの研究”というこれまた得体の知れないひとの分析なんですよね。 ※H.H.アンダーウッドは1890年生まれの宣教師
ちなみに、その李舜臣将軍の亀甲船というものを見たニホン人は誰ひとりいません、それを見たことのある朝鮮人もいませんでした。だけど、たぶんこのアンダーウッド宣教師には見えたんだと思いますよ、いくつか”貴重な”資料を書き残しているみたいです。
でもやっぱり亀甲船はおそらく李舜臣将軍も見たことがなかったでしょう。そういうものですから残骸もありませんし、その亀甲船が属していたであろう”朝鮮水軍”の基地がどこにあったのかさえ分かっていないのです
かなりの大型船ということになっていますがどんな人数で櫓を漕いだのか、どこ出身の誰が乗っていたのか誰にも分かりっこないのです
不沈の"亀甲船伝説"
らくがき程度の資料をもとに考証を真面目に実現しちゃいました、当時のお絵かきをなさったかたも草葉の陰で大笑いしてることでしょうね
この船は、忠南舒川項で7億ウォンを投じて木浦を経て巨済に戻るために引船が引っ張っていただったところだった。 海警は、高い波に船首出入口に水が入ってきて浸水中という連絡を受けて現場に出動して、船員たちを救助した。
浸水した海上展示用亀甲船は麗水(ヨス)音も西の安全海域に移動させて満タンになった水を抜き出している。
これかなと思ったんですが違うところもあるようですね(ヒント:伸縮式龍顔)
亀甲船に水が満ちていると助けて下さい。” 14日0時40分頃全南(チョンナム)、莞島(ワンド)海洋警察署状況室に誰か切なく救助を要請した。
展示用だったが長さ28m、高さ7m、重さ122tで大きい船舶だった。この亀甲船は22t級曳き船によって12日木浦(モクポ)港を出港して慶南(キョンナム)、巨済市(コジェシ)、玉浦(オクポ)港に移動するところだった。亀甲船は全南(チョンナム)、麗水市(ヨスシ)、南面(ナムミョン)の声も東側5.5km海上で2m高さの波に会った。壬辰倭乱の時使われた亀甲船は高い波にも浸水しないように設計されたがこの亀甲船は船体前部にイカリをおろそうと作った穴があって水が押し寄せた。
近隣にあった麗水(ヨス)海洋警察署所属117警備艦が救助要請から10分目に事故海域に到着した。亀甲船には船舶製造会社職員と推定されるカン某氏(56)とコ某氏(26)が乗っていた。海には依然として荒々しい波が固め打ちしていた。
海上警察は救助のために6回も近く行こうとしたが全部失敗した。午前1時27分頃7回目船を渡し場に着けるのに成功して二人は安全に救助された. 沈没危機に置かれた亀甲船も安全海域で曳航された。
だったらいいなを映画化する、 それを歴史だったと教える国
あの世界最初の汎用屋台型ロケット決戦兵器である”神機箭”というものもお絵描き水準で当時書かれたものでしたがその後、とあるロケット研究家の手によって脳内水準で復元されたことも記憶にあるところです。
韓国型宇宙ロケットの根、神機箭
[ロケットミーナ]韓国の”宇宙ロケットの父”と呼ばれるチェ・ヨンソク教授は宇宙発射体分野の権威者で、韓国航空宇宙研究院で2002年から2005年まで院長に在職しながら、羅老宇宙センター建設と羅老号宇宙発射体事業を発足させた
▲1993年大田エキスポ最大の目玉として国内外の感動を集めた神機箭の打ち上げの様子
2013年8月9日午後5時、大田エキスポ公園そばの甲川便で大田エキスポ開催20周年記念で神機箭打ち上げ試演会が開催された。 もう神機箭を修復して初発射してから 20年が経ったのだ.
神機箭はどんなに発見されて復元されたことだろう?
小学校中学校学生の時から宇宙開発とロケットに関心が高かった韓国の”宇宙ロケットの父”は関連本を見ながら世界最初のロケットが 1232年中国で作って使った火矢: 火箭の一種類であるビファチァング(飛火槍: 飛ぶ火窓)という事実が分かるようになった。
小学校中学校学生の時から宇宙開発とロケットに関心が高かった韓国の”宇宙ロケットの父”は関連本を見ながら世界最初のロケットが 1232年中国で作って使った火矢: 火箭の一種類であるビファチァング(飛火槍: 飛ぶ火窓)という事実が分かるようになった。
※瞻星台:過去カキコ ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/illuminann/11037002.html
少年ヨンソクは昔のひともロケットも作ったかもしれないと思った。
一方をもっては私たちの先祖たちが中国の火箭のようなロケット火器を作ったら良かったなという無茶な想像もした。うちの先祖たちが金属活字, 測雨器を作るほどに科学技術に多い関心とすぐれた才を持っていたのでロケットを作ったかも知れないという考えもして見た。 ※この段階ではまだ歴史的証拠などはありませんでした。
高等学校で歴史の時間に崔茂宣将軍が高麗言葉に中国の火薬技術者に火薬作る方法を学んで火薬武器を作って倭寇たちを撃退したということを習いながら、崔茂宣将軍がロケット火器を作ったかも知れないという気がした。 そして歴史参考書で崔茂宣将軍が火筒都監で開発した火薬武器の中に中国でロケット火器だった '火箭'が見えたが名前だけ記録されていて実際に構造がロケット火器かは分かることができなかった.
崔茂宣将軍が作った火箭に対する研究は大学に入学した以後に本格的に始めた. 朝鮮初期の火薬武器の構造を絵とともに説明しておいた '国朝五礼序例'の兵器図説を通じて我が国の場合 '火箭'はロケット火器ではなくて '神機箭'がロケット火器というのを確認するようになった. そして我が国の最初のロケット火器は '崔茂宣将軍が作った'走火(走る火)'というのも明らかにするようになった。
のちに韓国の”宇宙ロケットの父”となった少年ヨンソクはテレビ出演のために”火箭”をつくっていた
大学 4年の間我が国のロケットの根を捜したのだ. もちろん周辺では '昔のロケット研究してどこに使う時があるのか? かえってその時間の間に他の勉強でもしなさい'と気づかった方々も多かった. しかしロケット科学者が夢である筆者には私たちのロケットの根を捜すことも一つの挑戦だと考えられた。
神機箭の研究は 1975年 11月歴史学会論文発表会で発表されて学術的に認定を受けたし 1986年には国際航空宇宙学会(IAF)で発表されて国際的でも認められるようになった. 神機箭研究は研究費を政府や学術団体で受けたプロジェクトでもなくて筆者の学位論文でもなかった。ただ良くてしたくて個人的に研究したことだけだ. 神機箭研究を通じて学術研究をする方法と研究過程がいくら難しなのかを学んだことは個人的に大きい所得だった.
アメリカ留学を終えて航空宇宙研究員でロケットを研究して 1993年大田エキスポをする時には中·所信記伝と発射台である火車を初めて修復して打ち上げ試演会を持った。 これがきっかけになって映画 '神機箭'が誕生するようになった。
アメリカ留学を終えて航空宇宙研究員でロケットを研究して 1993年大田エキスポをする時には中·所信記伝と発射台である火車を初めて修復して打ち上げ試演会を持った。 これがきっかけになって映画 '神機箭'が誕生するようになった。
80億ウォンの製作コストが入って行った映画 '神機箭'のため神機箭がたくさん知られるようになった。※火車 火の車のこと 一般的には韓国経済を言い表すことが多い
93年に復元しなかった大神機箭と散火神機箭の復元も2008年から始まり、2010年完成した。大神機箭の復元過程で薬筒に火薬を満たす研究と作業は筆者が直接した。なぜなら93年に復元過程で多くの爆発があったがその原因をみつけなければいけなかったからだ。
大神機箭の復元過程で、神機箭の薬筒構造がノズル(Nozzle)がいない初期のロケットの形態ということと散火神機箭が世界初の2段ロケットであることが初めて発見された。※これも記録にも残っていない、出典も明らかにされていない 彼の創作
そして神機箭を開発した科学技術者'朴薑'も接することになった、神機箭の研究と復元を通じて習ったのは長い間地道に考えると疑問点が一つずつ解決されて良いアイデアが生じるということだ。
想像で始めて偶然に捜し出して修復した私たち宇宙ロケットの根である神機箭!
去る 3月には故朴正煕大統領の指示によって 1980年初めて神機箭の模型を作って展示した幸州山城で神機箭の打ち上げ試演会を開催したしニュースを通じて神機箭の優秀性が分かるようになった方々の推薦でテジョン市が支援して試演会が成り立つようになった.
今後とも神機箭が科学の都市の大田で定期的に打ち上げされて韓国宇宙開発の夢がずっと発展するのを期待して見る。
(翻訳:みそっち)
過去カキコからさらにちょっと
一般的にロケットは大きくするほど、作成が難しい。 特に紙で推進筒を作成した場合はなおさらである。 推進筒は、単に推進剤(黒色火薬)を入れる筒の役割だけではなく、推進剤の燃焼する際に作成し、高い圧力にも耐えなければならないからだ。
したがって、質の良い紙を作ることができる国でのみ性能の良い紙ロケットを開発することができた。 私たちの大神機箭と同規模のロケットが外国では1800年代以降に登場する。 1474年に編纂された国鳥オリェソシェの兵器図説に残っている神機箭に関する記録を見ると、次のとおりである
"火車"は、1451年文宗の時に使用していた兵器だ。 矢が最も飛ぶように発射角度を43度に合わせて一度に100個を撃つことができる。 私はこの火車を復元して大学院1年生の時の92年に初めて試してマスコミの注目を浴びた。
"神機箭"復元打ち上げ成功、
先祖代々の偉大な業績を再現する!
映画の中の神機箭はただ見た目だけでなく、発射まで可能な "本物の神機箭"。 6ヶ月が費やされた神機箭復元プロセスは、我々の先祖の偉大な業績を偽りではなく、事実として見せようとした製作陣のもう一つの挑戦だった。 実際神機箭復元に成功した韓国航空宇宙研究院チェヨンソク博士の積極的な協力の下、設計に美術チームは、製作に特殊な小物チームは、火薬の製造に特殊効果チームの完璧な協調体制がなされた神機箭製作過程は映画の中で世宗の秘密兵器 "神機箭"完成のために飛び込んだ人物たちの姿と似ており、興味を加える。 チェヨンソク博士は完成された神機箭を見て120%満足したという裏話。 また、実際に発射された "神機箭"の威力は<怪物>の視覚効果チームを迎え入れ、さらにアップグレードされた姿で現代の観客に新鮮な衝撃をプレゼントするだろう。
神機箭は英祖4年(1728年)安城で反政府勢力を鎮圧するために使用された記録を最後にその姿を消してしまう。 神機箭完成の秘密が込められた設計図は、ドラマチックなことに、朝鮮の儀式書である "國朝五禮儀 "で発見された一時代を風靡した科学技術の産物がなぜ正式に保存されず、礼節書に隠されて降りてきたか、その疑問は解けない。 ※神機箭は超時空秀吉軍を散々に撃退しているという説もある
"映画<神機箭>が私たちの民族の科学技術の創造性が世界的にもすぐれた民族であることをよく知ら我が国の人々に誇りを、そして青少年たちには未来の夢を植え付ける作品になることを期待している"
朝鮮時代の火箭を書き記した資料は現在では中国の戦車を例であげながら, 韓国の火車はこの架火式戦車を引き写したものにすぎないという主張が一般的でちょっと悲しいんだとか。
▲こちらは中国の使ったものの資料、朝鮮製ではない
まあ言ってみれば、200年くらい後(2199年前後の宇宙戦艦ヤマトの実用化された頃)になって、連合艦隊三船敏郎元帥や田崎潤司令長官みたいのがビュンビュンと空を飛ぶ5段階変形の海底軍艦で海底人相手に大活躍した痕跡(YouTubeとか)を発見した宇宙好き少年が”大映造船所”で保管されていた”幻の海底軍艦(モーターライズ版)の図面”を発見してそれを作ってみたとか、そういった感じじゃないかと思うんですが、だいたいそんなものですよね。