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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

2015キムチ前線が発表される



2015年最適のキムチ時期は?…うちの町にはいつになるだろうか


イメージ 1[キムチミーナ]キムチ漬けシーズンが迫った。 これに2015年キムジャン時期に関心が集まった。 気象庁はこの5日、キムチ漬けシーズンを控え、地域別のキムジャンの適正予想時期を発表した。
 
気象庁によると、2015年キムジャン時期はソウル、京畿道(キョンギド)や中部内陸地方では11月下旬∼12月初め、南部地方と東・西海岸は12月上旬∼中旬前半、南海岸では12月下旬以降だ。

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主要都市別に見ると、ソウル11月29日、大田(テジョン)と仁川(インチョン)12月1日、大邱(テグ)12月5日、光州(クァンジュ)12月11日、江陵では12月12日だ。
今年は11月下旬と12月上旬の気温が平年並みか低い傾向を示すものとみられる。
 
したがって、キムチの漬け込み適正時期も全体的に見ると平年並みの見通しだ。
ただし、地域別に偏差があり、昨年に比べてソウル、京畿道(キョンギド)や中部内陸地方では速いか、似ていて、他地域は多少遅れると予想される。
一般的にキムチの漬け込み適正時期は1日平均気温が4度以下で、1日の最低気温が氷点下で維持される時に見ている。

これより気温が高ければキムチが早く熟れになって、気温が低ければ、白菜や大根が凍って本来の味を出しにくい。



(翻訳:みそっち)




50年程度というキムジャンの歴史
キムジャンという、年に一度のバカ騒ぎの季節がまもなくやってきます(韓国人はいつもバカですが)、過去にはキムジャンのために会社を休む、あるいはキムジャンのために学校がお休みになるなど汎国民的行事だったキムジャンでしたが最近では愛の分かち合い運動などに変わってゆき生活脆弱層にキムチを強制配布する手段として企業や自治体が主体となったキムジャンへと移り変わってゆきました。
でもちょっと待ってください? キムジャンってユネスコ無形文化遺産なんだけどそれってまだ50年も歴史が無いけどなんで? ってことなんです
キムジャンというのが始まったのは朴正煕の時代でした。ニホン統治時代に始まったキムチ+白菜消費という組み合わせが市民の共同作業として始まったのはせいぜい50年程度の歴史しかないのです。

我が家だけの秘伝の味付けのキムチなんて無い
キムチには我が家だけの秘伝レシピがある、そう考えられがちですが現実は全く正反対な理由があるのです。たしかにキムチ漬けは各家庭でも味付けが異なる>>>こんな与太話を聞いたことがありませんか? その一方で地域社会の共同作業として位置づけられているキムジャンということも知られています。 キムジャンとはキムチを共同して作る文化なのですから”各家庭で異なる味付け”なんていうものは最初から無かったのです
むしろキムジャンというお祭り騒ぎでは、キムチの味付けについてつべこべと議論することが固く戒められていたようです。

各家庭がバラバラに味付けをしたキムチを漬けるだけならユネスコ無形文化遺産になることはありません。 共同作業としてキムチを一斉に漬けるという行為がユネスコ文化遺産ってことなのです。
アパート生活が普及し始めた韓国ではキムチを保存しておく瓶をおいて置く場所もありませんでした。


キムジャンってキムチを漬けること その歴史は?
キムチが古くから朝鮮半島で食べられていたわけではありません、現在のキムチで思い浮かぶ”白菜キムチ”は品種改良されるまでは結球していない菜っ葉のような”ハクサイ”で漬物を作っていたなどという与太話も作られてしまうほど韓国人にとっては身に染み付いている”白菜キムチ”も、結球白菜の栽培が本格化した1920年代になるまでは見たこともない新種の野菜だったわけです。
そうなればキムジャンの起源もそれ以降ということになりますね。
韓国のキムチにはこの100年の間にも受難の時代さえあったのです。


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▲1963年とされているキムチ漬け白菜市場のようす

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▲小型トラックから1977年以降の撮影と推定される白菜市場

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▲軍用列車もご覧のように白菜が満載になっている。


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▲現在でも開発が遅れている低層住宅が立ち並ぶこの一角に白菜市場があった


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▲白菜の収穫は農家の貴重な現金収入源としてニホン統治時代に大々的に勧められた
写真は1950年代末のソウル近郊の農村のようす。着ている服はもちろん乳出しチョゴリ

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▲トラックに山積みされた大量の白菜

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▲大根が長いと思うのは東京人の証拠、よその国々では
大根は短いものが主流となっている。
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▲市場に大量に運び込まれた白菜 1977年の撮影
現在は移転したソウル中央卸売市場

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▲龍山電子団地と呼ばれるハイテク市場も以前は白菜市場



白菜キムチ、わずか100年の歴史だ
ー昔の人も、韓国のように味噌チゲを食べたか
とキムチ、チゲの歴史はわずか100年
-韓国の自国の(身土不二)?
大韓民国のひとなら少なくともキムチ、コチュジャン、味噌チゲ食べたことをあまりにも当たり前に思う。 その中でもキムチを韓国の代表料理に挙げていることに躊躇する人は誰もいない。 キムチに対する自負心は限りなく高く澄み切って、キムチは先祖代々食べた韓国固有のものであり、健康にも良い独創的な醗酵食品が良い食べ物と思っている。
中国で作ったキムチを輸入して食べることは自尊心が傷つくことで、中国で生産されたキムチに何の問題があればキムチ戦争まで実施する態勢が整ったようだ。 オリンピックやワールドカップに出場した選手にはキムチ空輸が開始されず、もしキムチがなければ成績もよくないようだ。 私たちの食卓で、キムチのない食事は考えられないながら、ジャージャー麺とトンカツを、食べる時もキムチを探す。 外国人が見るには韓国人はキムチ中毒にかかったように見えるかもしれない。
それだけではない、"日本と中国を占領したキムチの味"、"世界に進出するキムチ"、"キムチがなく、キムチ"、"キムチの優秀性を世界に知らせて"などのスローガンを見ると、キムチが世界的に普及して他国の人たちがキムチをおいしく食べることがまるで韓国の偉大さを伝播することのように感じられる場合もある。 もしかしたら"キムチは、韓国の最も優れた伝統料理で自慢であり、民族の優秀性を表現すること"と見ている民族主義的実態に至るまでする。


たとえばね、『我が家の歴史』なんていうのを作ろうとすればBetaCamやVHSのビデオで撮った動画だったりするわけですよ、『我が国の歴史』っていうのを作るとなれば古い資料なんかが必要になるじゃないですか、ところがそういうのを研究する人がいない、そうなると誰もがお手軽な”超時空物”を信じちゃうんです。
朝鮮が近代の歴史に登場した時にはニホン人が”平安時代そのまま”とまで評したものすごいものがそのまま朽ち果てて残っていたのです。それが景福宮だったり南大門だったりするわけですよ。

そんな貧しい国のひとにニホン総督府が極秘裡に進めた計画がキムジャン普及計画だったのです。当時栽培が始められたばかりの白菜を朝鮮人に大量に消費させるという趣旨で、当時まだ朝鮮半島には少なかった唐辛子を栽培技術とともに朝鮮に運び、白菜と合わせることで新種の名産品をつくり、冬場の野菜不足を補いながら貧弱だった朝鮮人の体位向上を図るというのが目的だったようです。
1930年代になるとキムジャン文化は朝鮮人の嗜好と微妙にマッチして独自の進化を遂げることになります。当初はキムチ漬けが最小単位のひと家族ごとに行われていたものが大衆運動の激化とともに、それまでは民衆を扇動する立場だった朝鮮の言論社も次々にキムジャンの効能を深く知らしめたことでキムジャンが朝鮮統治に欠かせない行事となってゆきました。

じつは李承晩大統領はキムチが好きではなかったといわれています。それどころかむしろ嫌悪していたとさえ伝えられています。とくにオーストリア出身のフランチェスカ夫人のキムチ嫌いは現在でもよく知られていて、韓国大統領としてソウルに住むことになった時に真っ先に反対した理由というのが、”キムチが臭いから”というものでした。これで夫婦間の確執などがあればドラマ性も出てきますが、李承晩自身もキムチというものをよく知らずに朝鮮から飛び出してしまった経歴があるので、大統領府での晩餐(夕御飯のことね)のときにキムチがでてくると途端に不機嫌になり側近に当たり散らしたといわれています。
彼が上海に高飛びした頃というのは白菜栽培が盛んになる前のことでした、つまり彼がまだ朝鮮にいたころには現在のようなキムチはまだ存在していなかったのです。
彼と行動を共にしていた共産主義者とも言われる金九も同じ理由から朝鮮で流行り始めた”キムチ”というものを心良く思っていなかったようです。
これらのふたりはキムチを好きじゃなかったというよりも”キムチ”こそがニホンによる植民地経営の弊害だとさえ考えていたようです。しかしすでに朝鮮の人民からキムチを取り上げることは不可能な段階だったのです。

李承晩は韓国の初代大統領です、ところが外国暮らしが長い、彼自身は自分のことをインテリだと思っていたふしがありますが、彼のいなかった間に朝鮮はものすごく進歩していたのです。
無人の野に凱旋するつもりでソウルに帰ってきた彼は彼の住んでいたニューヨークとくらべても近代化の途上にあった綺麗になっているソウルを見て愕然とします。
さらに驚いたのが、韓国にはすでに韓国人の官僚がいたことです。植民地として搾取されるばかりの貧しい韓国民を想像していたのに期待が裏切られてしまったのです。
かれらは一様にニホン式教育を受けニホンの帝国大学などで学び海外留学組などもいて先進国の国民としてすでにニホンのいなくなったあとの朝鮮半島にやってくる新しい主の出現を待っていたのでした。

この頃になると、ニホン式にコメを精米して白米として食べるという習慣はすでに韓国全土で一般化していましたから、主食は当然コメだったのですね。これも李承晩は国民統治次元で大失敗をやらかします。
彼自身が朝鮮にいたころの朝鮮人の主食はようやくコメが出回り始めたばかりで雑穀ばかりを食べていたころとくらべるとはるかに贅沢な暮らしに見えたのでしょう。コメを国民に食べさせずに換金作物として使うことにしたのです。その結果コメの値段は高騰し庶民の口に入らなくなりました。
※このコメ政策の失敗と米価高騰をニホン統治時代の責任にするために植民地搾取論が作られました。朝鮮人に初めて白米を食べさせたのは他でもないニホン人でした。

その後、朝鮮戦争を経て食糧難のどん底になった韓国では李承晩のキムチ嫌いをあわせて露地物野菜の栽培がほとんど行われなくなってしまいました。しかしコメの増産掛け声だけは勇ましく続けられたようです。

それから時代が過ぎて朴正煕のころになると彼自身はニホン統治時代に教育を受けていましたから韓国人キムチについては比較的深い理解をしていました。そんな彼にチャンスがやってきたのが李承晩の失脚でしたね。
李承晩がハワイに亡命したあと一年以上に渡って混迷していた韓国の政界を一掃するために軍事クーデターとも言われる行動を起こします。そのへんは全く別のお話なのでまた別の機会にご紹介しましょう。

とにかく1年もの政治の空白があってそこに登場したのが朴正煕だったのです。彼がソウルを掌握して最初に行ったことは、”伝統キムジャンの復活”でした。
つまり『韓国人民の統治にはキムチが欠かせない』ということを実践したのでした。

1961年のキムジャンは、はじめての国家的大事業として国軍の総援助のもとに白菜の輸送計画が立てられソウルに集められた白菜は30万トンあまり、これをこれから1週間ほどですべてキムチに加工して食べるという大々的なものです。
その後も徐々にキムジャンは規模が大きくなり、1972年にはこれまで以上の作付け面積から歴代最高水準の白菜の栽培が行われたりもしました。
朴正煕のお手柄としてはほかにも、現在こそ代表的な韓国食として知られるビビンバを再照明したことです。現在でもビビンバは残り物を混ぜるというマイナス印象を持っていますが、このころに生じ始めた国民間の格差をなくすための手法として”振り弁”といった荒業で国民全部に”混ぜるが勝ち”、”混ぜてなんぼの伝統食”という意識を植え付けるのに成功したことです。
キムチの国民的普及と振り弁に代表される韓国型の食事事情は朴正煕によってもたらされたと言っても過言ではないでしょう。

この項 つづくかも



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