minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

'大韓帝国の道'だと? どこどこ??




高宗が歩いていた通り'大韓帝国の道'にする 現在の米大使公館裏


1867年から廃墟だった景福宮復元したんじゃなかったの? 
それを日帝が破壊したとか言ってなかった? 
ニホンがやってきた時には廃墟だった景福宮だけどな



イメージ 1[ソウルミーナ]国の力が衰えた朝鮮時代末期、高宗は徳寿宮を経て、この通りを歩きながら、国力回復方法を検討した。

1897年圜丘壇(高麗時代から天と地に祭祀を務めた所)で開かれた大韓帝国の宣布式は、その努力の結果だった。
※韓国では下関条約による朝鮮の独立を認めていない、日清戦争とは関係なく朝鮮が元号を定め独立門を作ったものと教えている


当時の高宗(コジョン)の苦悩を感じられる歴史の街が造成される。 10日、ソウル市議会チェ・パンスル(みんなの民主党)議員によると、ソウル市はまず、国税庁の別館の敷地から徳寿宮ㆍ旧ロシア公使館ㆍ培材(ペジェ)学堂などを経て、貞洞(チュング・チョンドン)の展望台まで続く2.5kmコースの'大韓帝国の道'を作る計画だ。

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アメリカ大使公館の敷地の中を通るみたいです


1段階区間には国税庁の別館の敷地市民広場から徳寿宮大漢門ㆍ聖公会聖堂ㆍ英国大使館ㆍ救世軍会館ㆍ旧ロシア公使館ㆍ、徳寿宮(トクスグン)の重明殿ㆍ培材(ペジェ)学堂ㆍ対する帝国の司法機関だったピョンリウォンの敷地ㆍの貞洞(チョンドン)の展望台などが属する。

2段階区間には徳寿宮石垣道のうち、途絶えた190mの英国大使館の区間と朝鮮時代に仮宮殿だった昌徳宮の璿源殿の敷地が含まれる。 ソウル市は、年末まで璿源殿から復元事業と連携して'高宗の道'一部を蘇らせる方針だ。

国税庁の別館の敷地市民広場にはトレイルの形の総合案内施設が設置される。 また、探訪路の床には方向が表示されて、歴史遺跡の場所ごとに案内文がつく。


(翻訳:みそっち)



まだ高宗が王だったころなんですが、現ソウル市庁から北に向かう道はありませんでした。地図で見る光化門駅のあたりの十字路は行き止まりのT字路でした、韓国の歴史ドラマなどでは超時空ヒデヨシ軍に勝った朝鮮軍の行列が南大門をくぐり景福宮のほうまで行進していくシーンがありますが。当時は道なんかなかったのです。京城府庁舎(いまはソウル図書館)を作るときに道路が北に伸びたのです。

そういうことを韓国では教えていないので、”世界四大提督”といわれる李舜臣将軍が亀甲船でニホン海軍を散々に打ち破ったあと当時のの朝鮮皇帝から剣をもらうシーンなどでは豪壮な景福宮などの様子が描写されちゃったりします。

景福宮は釜山から平壌まで40日の小西行長が通り過ぎる前に朝鮮人の放火で燃え尽きていたし、朝鮮の王は皇帝じゃないし、貰った剣なんかも20世紀になってから急に出てきたものだし、しかも偽物でしょ。景福宮李舜臣将軍っていうのは同時には存在しないのです。


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水色部分に道路を造ることにしたニホンが総督府建設を思いつくまでは突き当りにな景福宮は270年間も放置された焼け野原でした。焼け野原だったからニホンは総督府の建物を建てたのです。


正確には超時空太閤ヒデヨシ軍の35年後に明のあとの中国清に朝鮮は完全降伏します。(おつむごんごん事件)そのときに城や宮殿、門などを勝手に修復してはいけないというお約束をしています。

朝鮮人暴徒によって焼き討ちされた宮殿は270年もの間、修復されることなしに放置されていたのです。



朝鮮時代の漢陽の通り「くそ天地」

景福宮·市庁近くの地層から回虫など寄生虫の卵の大量検出
ㆍ漢陽に遷都した後の人口急増、し尿処理能力の限界を超えたため?
イメージ 1「今日の都城はない、ほとんどの家が汚く汚れている。汲み取り車がなくて汚物をすくうことがないからである。...ソウルでは、日々のように庭や街に尿を捨てて井戸水がすべて濁り。川辺や橋の堤防の周辺には、人糞が散らかり増水して大きな梅雨が来ない場合は洗い流されない。」

朝鮮後期の実学者のポク・セイカは朴斉家<北学議ブクハクウイ>で朝鮮の首都、漢陽の姿をこのように記録している。このように文献にのみ伝えられ、朝鮮時代の漢陽の厄介な街並みが、実際の惨状だった可能性が高いという研究結果が出た。

ソウル大学医学部人類学·高病理研究室シン·ドンフン教授チームは10日、「景福宮の塀、光化門広場の世宗大王銅像の下、市庁舎付近、宗廟広場などソウルの主要なポイントの朝鮮時代の地層から回虫·ぎょう虫などの寄生虫の卵を発見した」と明らかにした。
寄生虫の卵は、主に人糞で排出された後、野菜などの食べ物に混じって再び人の口に入るように感染されることで、この地域に人糞が散らばっていた可能性を示す部分である。研究の結果、景福宮の前で抽出した土壌では、1gあたり最大165個の卵が出てきた、残りのサンプルでも平均35個の卵が検出された。  ※1gあたり.スプーンすり切り半分、ほぼ人糞ONLY


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▲回虫·ぎょう虫など寄生虫の卵が多量に発掘されたソウル市庁舎近くの朝鮮時代の地層。ソウル大医科大学シン·ドンフン教授チームは、朝鮮時代の地層の研究を介して、当時漢陽が人糞でひどく汚染されたことを明らかにした

漢陽の通りに人糞があふれているしかなかった事情は何だろうか。シン教授チームは、当時の急増した人口を手ごろな下水道施設が備わっていなかったという点に注目している。朝鮮時代前期の15世紀初頭の10万人だった漢陽の人口は18世紀に入って2倍近く増えた。1785年ごろイギリスで人口5万人を超えた都市がロンドンなど4カ所過ぎなかったという点を考慮すると大変な人口だったわけだ。 
※江戸は100万人超えてたけどな? 1785年っていうのがポイント

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シン教授は「中世ヨーロッパの都市が糞尿で台無しだったように、人口が急増した漢陽も事情は同じであったと思われる」と述べた。 実際の<承政院日記>英祖27年の調査を見ると、人が生きてはいけない六朝(六曹)前の道まで民家が入って木がなくなって土砂が失われ、この土砂が排水の妨げのせいで河川が氾濫していると指摘する部分が出てくる。英祖は「都城の中の人民があまりにも多い」と嘆く。これに比べてし尿処理施設はふさわしくなかった。
パク·チウォンが書いた<ヨンアムジプ>の「イェドク先生傳」には、糞を取り除く仕事を持ってオムヘンスという人物が登場する。彼は糞尿を専門的に回収して都城外郭の畑に加え、振り撒いて、その収入で生計をたてていた。人々は時には糞尿を河川にしまうこともしたし、梅雨時には水が氾濫し、糞尿混合された汚水が通りのあちこちに広がる祈ったものと推定される。

韓国古典翻訳院のホ・キチョル研究者は、「朝鮮の宮殿にもトイレ構造は見られないので、漢陽の糞尿処理システムは、まだ明らかにされていない」とし「イェドク先生のような業者が集めた糞尿を毎日処理するシステムであったと推定される人口が増え、当初計画された範囲を超えてしまったようだ」と明らかにした。
このような事実を盛り込んだ論文は、昨年末の国際学術誌「考古学ジャーナル」に紹介された。シン教授チームは、2010年から国立文化財研究所と漢江文化財研究院などの支援で国大医学部寄生虫学教室の庶民教授チームと一緒に寄生虫の研究を通じた昔の人々の生活史の研究を進めている。シン教授は「ソウルだけでなく、全国的に寄生虫の卵を発掘した結果、通常出てくるところは、多くの人が住んでいた所」とし「寄生虫の卵を使用して、当時の人々の健康と健康、感染症や病気の状況について科学的に考察することができる"と述べた。


(翻訳:みそっち)



それからニホンがもういちど行くまで、南大門などは加藤清正公凱旋の頃より何ら変わることなし』といわれるような荒れ放題だったのです。

じつは韓国のユネスコ遺産の水原華城というデタラメがあります。朝鮮末期に作られたというヨタ話があるんですが、19世紀末にニホンが行ったときには何も無かったのです。 ※いつ作ったんだという話

時代的には石垣などから朝鮮時代初期には城があっただろうというものを、近年になって何もかも脳内で作り上げたものなのです。
水原華城のすがたを見たという当時の外国人はひとりもいません、あのイザベラバート女史でさえもひとことも触れていません、当時の朝鮮の唯一の城なのに

もっとすごいのには南漢山城というのがあります。ヒデヨシのあとに中国清が攻めてきて20日くらい立て篭ったといわれるところです。 これもユネスコ世界遺産ですよ 1636年の丙子の役で役立たずだったんですが、これが近代韓国式歴史教育では 飛車とか火車とかそういうのが出てくるあの、中国清に20日で降伏しておつむゴンゴンしたときの城なんですが。

これね、ちょっと考えるとわかるんですが、城の修理さえも認めなかった中国清が城の修理を禁止したわけで、攻めてくる敵さえもどこにもいないところに城をつくるなんていうのが、KBSのドラマだから考えられたヨタ話なのです。 それがいつのまにかユネスコ世界遺産ですよ。 水原華城を新築したという政府予算はどこからも見つかっていません。 

同様に、景福宮修復(1867~1882年頃)というヨタ話にも当時の朝鮮王朝(まだ中国の属国だった頃)がお金を出したという事実は全くありません。

『ニホン総督府庁舎を壊すのは旧来の景福宮を復元するため』という金ョンさんあたりのの韓国の大統領の脳内ベクトルに迎合した韓国メディアが、”高宗は景福宮の再建のために奔走した”くらいのことを言い出したに過ぎません。  

景福宮は300年以上放置された焼け野原でした。

確かな事実としては景福宮が廃墟だったものを再建したはずの高宗もそこに寄り付かなかったことや、ニホンから大工集団があつめられ建物の再建に努めたという事実からも明らかなことです。 ロシアの公使館に逃げ込んだりミンピ事件も景福宮じゃなかったし。 ニホンが総督府を建てるときには焼け跡のまま300年も放置されたままだったのが事実です


というわけで、現代の韓国人にとって『無いものはあったことに』というのが基本理念なのです。 朴パパの朴正煕のころには光化門をコンクリートで再建していました。たしかに光化門は300年前にも焼け残って移設されたのですが。そんなところで守門将交代式なんてことが行われていたという記録はどこにもありません。


ウソでも繰り返せば真実になると考えるのが彼らですよ
そういうウソを信じやすくするために愚民化教育も必要ですね そのままそんな国が今日も学校教育でウソを教え続けているのです。


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