こどもにお辞儀を強要する韓国社会
宗教理由で祭祀拒否って離婚の事由?
譲歩がなければ慰謝料も出さなきゃ、ウリスト教ばかりじゃない韓国の変な宗教
[朝からミーナ]祝日には祭祀をめぐって、宗教のため葛藤している場合が多いが、これも離婚事由になりかねます。 十分な対話と努力をせず、自分の宗教信念だけを掲げる場合、そうです。
Aさんは結婚した後、夫の実家の法事には参加したが、宗教を理由にお辞儀の行事はしませんでした。 子供が誕生すると、夫の実家では子供にお辞儀をさせ、Aさんはそれに反発しました。
以後、2年間この問題で対立は継続され、結局離婚することにしました。 二人は慰謝料をめぐって訴訟を繰り広げた末に妻が夫に慰謝料1000万ウォンを与えなければならなかったのです。
裁判所は"宗教に心酔して家庭をないがしろにしたその夫人に責任が大きい"と判断しました。
◇ ◇ ◇
女性Bさんは5年間、祭祀をよく過ごしながら宗教を持った後から祭祀を拒否して家出までしました。 夫は家に戻るよう要求したが、Bさんは自分の宗教を認めてくれる時まで家に入らないと抵抗しました。
結局、Bさんは離婚訴訟で負け、夫に慰謝料1000万ウォンを与えなければならなかったんです。
[ユンソンギョン/法務法人テユン弁護士:"宗教的信念だけで祭祀を拒否する場合には、夫婦間の対立をうまく解決しなかったことから、婚姻破綻の原因となり、離婚事由又は慰謝料請求が可能です。]
夫婦の間に宗教対立があるなら、対話しようと努力しなかった側に責任があるというのが裁判所の一貫した判断です。
(翻訳:みそっち)
う~ん これね、祭祀とあるようになにかそういう宗教のことらしいのです。そう説明すればすぐに解っちゃうでしょうか?
韓国には旧正月に変な文化を強要する習慣があるのです。それが”お辞儀”といわれる儀式です。 しらないおばあさんにもお辞儀を強要するのが特徴でしょ。
韓国ではウリスト教がよく知られていますが、旧正月の今頃にはそっちのほうも勢力があったりします。
ほらっニホンだと葬式は仏、結婚式はキリシタンや神式でしょ。そういうものが共存しているニホンと違って、韓国では...ぃぇぃぇ韓国もごった煮状態なんですけど
さておき、旧正月には韓国のお年寄りはホクホクですよ、子供たちをならべてお辞儀させるのです。
だからといって、それで子供たちにおこずかいをあげるというようなことはないのです。お年寄りにむけて子供たちにお辞儀をさせる。これがどんなに問題なのかはよくわかんないですけどね。
そういうのってどうなんでしょう? たとえば韓国の高齢者貧困率って言ったら世界一じゃないですか。そういうのにお辞儀させるんでしょうか?
じつはこの文化は1980年代になるまで全くなかった儀式らしいのですね。それが子供たちをならべて年寄りにお辞儀させるってこと。 いえいえ韓国は儒教の国ですからそういう文化習慣はあったのかもしれません。でもそれは自分ところの先祖を敬うっていう文化があったのだと誤解したことで始まったのですよ。
韓国が最近になって再現しているこうした文化はそのほとんどがまったく歴史的事象を伴っていないウソなんです。
年長者を大切にしない国という韓国が、そのイメージをどうにかするために拡めたデマなんですよ ちっともそういうことは事実じゃないのです。
[ニュースミーナ]韓国の伝統文化と認識され、多くの観光客の人気を集めている王宮守門将交代儀式 が考証資料なしに想像力にのみ依存して払っており、その存在価値に疑問が提起されている。
旧軍服を着て環刀をつけた守門将と兵士ら、派手な伝統衣装を着た吹打隊の節度のある交替式はまるで本当にこれにそうしたように感じて重要な観光資源になっている。
しかしこれは、世界的によく知られた英国のバッキンガム宮殿衛兵交代式をモデルとし、ソウル市観光と職員のアイディアで1996年に始まったこの儀式には伝統的という根拠がないことだ。
言葉そのまま以前にグンアプの'守門将交代儀式'が存在したのかさえ不透明であるにもかかわらず、想像力だけで行事を作って人気を集めると、文化財庁もこの2002年に、景福宮に導入し、各地方で先を争ってコピーして全国主要地域には守門将交代式がほとんど導入された。
これらみんながモデルにした徳寿宮守門将交代儀式行事をソウル市から委託を受けて運営している、あるイベント会社の代表は"守門将交代儀式に関する韓国の記録は皆無だ"、"服飾と弓、矢、環刀などの小道具は徹底的に考証したが何も手がかりがなく、ほとんどの行事の再現は、以前の姿を想像して行われた"と話した。
ソウル市は今年守門将交代儀式に約20億ウォンの予算を投入し、来年の予算にも似たような水準を反映した状態だ。 予算の大半は行事を委託されたイベント会社で投入人員70人あまりに対する人件費に使用している。
徳寿宮大漢門守門将交代儀式のモデルになった英国バッキンガム宮殿衛兵交代儀式は、大英帝国の象徴で近衛兵たちは皆、英国の正規軍人で、特に近衛騎兵隊は英国軍で最も古くて序列が高く、自負心がある。
これらとは比較できないぐらい外見だけをコピーして急造された韓国の故宮守門将交代の行事は演出された見せ物に考える韓国人たちと違って、外国人観光客にはバッキンガム宮殿や教皇庁のようなイベントのような韓国の固有の代表的伝統に受け入れられている。
ある関連専門家は"歴史性と真正性があるべき国家を代表する観光商品になりかねない"、"根拠もなく想像だけに依存して再現という言葉を使うことすら合わない私たち、王宮守門将交代儀式は、観光需要を合わせるため、偽りの伝統が嘘を生む悪循環をしながら、真実を知っている国民の自尊心に傷を与えている"と指摘した。
(翻訳:みそっち)
まぁウソなんですが韓国サイトでは紹介する内容が日々進化しているのです
格式高い宮中文化を再現! ソウルを代表する伝統行事朝鮮時代の王宮には、王宮門の開閉や警備を担う「守門軍(スムングン)」という軍隊がいました。この守門軍の交代儀式を、専門家による歴史考証を通じて再現したのが「王宮守門将交代儀式」です。古宮・徳寿宮(トクスグン)と景福宮(キョンボックン)で1996年より行われており、イギリスの近衛兵交代儀式に比肩する華やかさと格調ある雰囲気を楽しめます。2010年より、儀式終了後に部隊がソウル都心を練り歩く巡察パレードが月曜日をのぞき毎日行われるようになり、ますます見逃せなくなりました。
これも最初のうちは遠慮がちに”バッキンガム宮殿の儀式を参考にしています”と断り書きがあったそうですが、いつのまにか歴史考証の専門家が登場し、独自の理論と各国の衛兵事情などを取り混ぜながら『だったらいいな』に予算が付いて現在のような規模になったらしいのです。 しかも武将の武器はこういうものがイイという想像に忠実に再現しちゃったのですね。
この衛兵交代式がなぜ古宮・徳寿宮(トクスグン)と景福宮(キョンボックン)で行われるのかというと、説明がちょっと必要なのです。 朝鮮の王宮は景福宮なのです、ところが1637年の清との戦争丙子胡乱に負けて武装解除されて兵隊を持つことも禁じられたのですね、もちろん城壁や城や宮殿にいたるまでその修復は清政府の許可を得ることとなっていました。 景福宮にあった建物は朝鮮人の暴徒によって放火されて残っていた建物も老朽化し自然倒壊するほどでしたが清は修理を許可しませんでした。(崇礼門(南大門)がスラム化したのもそれが理由)
中国からの使節もそんな荒れ果てた宮殿に行かないので独立門のあるあたりに豪勢な館を立てさせてそこを宿舎にして朝鮮の饗応を受けていたそうです。 つまり中国人も近寄らなかった荒れ果てた景福宮だったのですね、そのままニホンでいう江戸時代みたいな期間の270年間もほっておかれたのです。
修理や建築する技術も失われて景福宮はそのまま捨て置かれて朝鮮王はあちこちに残っていた古い宮殿や別邸に移り住みながら暮らしていたのです。その最後の宮殿が徳寿宮なのですね、徳寿宮はその後、朝鮮時代末にいよいよ老朽化で住めなくなり朝鮮王はロシアの公使館に引っ越していました、これが露館播遷ですね。
つまりニホン人がやってきたときには景福宮は廃墟だったし徳寿宮も解体するしかないほど荒れ果てていたのです。(景福宮は一部の主張に1867年、高宗(コジョン)の時代に再建されたとありますが、ほとんど資料は残っていません、中国の清が許可したという記録もありません)(しかもわざわざ明治初年にしている)
つまり戦争に負けて、平和な時代が続き、起死回生の名誉回復のチャンスも無いまま中国の清に集られ続けるしかなかった弱小な属国という立場だった何もない国なわけです。
そして笑うしかないのが”全羅南道康津郡は、全羅兵営城 の守門将交代儀式を、順天市は、楽安邑城で守門将交代儀式を導入し、慶尚南道晋州市も晋州城守門将交代儀式”というくだりです。それぞれが城なわけですが朝鮮時代はそれらの城は跡形もありませんでした。(このへんは楠木正成の千早城を探すみたいに難しいらしい)
ニホンには城や城跡がたくさんのこっていますが朝鮮の城はこれも一極集中で地方には城なんてありませんよ、
とにかくニホンが羨ましくて仕方なかったので『あれも城、コレも城』なんてことをやっていたのです。
いまでこそ城門なんかもあるようですが残っていたのはどこも土塁や石垣の残骸だけでした
史実に忠実に
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ソウル王宮守門将交代式、朝鮮時代の時もこの頃のようにしたのだろうか
守門将記録断片的…交代式あったことと推定だけ、大漢門は英・正祖時代、光化門は朝鮮初期モデル考証に想像を加えて再現
▲1890年頃に撮影された光化門守門将とされる写真○内
二ヶ所がどちらも朝鮮時代王宮の守門将交代儀式を再現したのだ。 ところで、服飾や交代方式がそれぞれ違った。 大漢門守門将は史劇などで私たちの目になじむ'具軍服'姿である反面、光化門(クァンファムン)守門将は腰にたすきをかけなかった'チョルリク(チョゴリとスカートが連結された形の軍服)'姿だった。
大漢門は1人1人交代する'メン対面'交代である反面、光化門(クァンファムン)は部隊と部隊が熱をひいては入って出て行く形で任務を対等交換をした。
どちらが合うのだろうか。 朝鮮時代に実際にこのような交代儀式があることはあったのだろうか。 専門家たちに問い合わせした結果、"朝鮮時代守門将交代儀式に対する資料は存在しない"とした。 このために一時交代儀式は"想像にだけ依存して英国、バチカンなどヨーロッパ王室近衛兵交代式をまねている"という指摘を受けることもした。 だが、去る1996年初めて交代儀式行事が始まって以来少しずつ原型を訪ねて行っているところだった。
守門将に対する記録は朝鮮王朝実録に断片的に登場している。 その中には'標信がないといって別監が宮廷の外に出て行くのを許諾しなかった守門将を推鞫させる'(成宗25年) '守門将に命じて着帽を禁じた者は出入りできないようにする'(英祖48年)等世相をのぞくことができるのも多かった。 延山郡(ヨンサングン)と光海君時は宮門の外に雑人が沸き立ったのか守門将がこれらを追い出すことができなくて罰を受けた記録もあった。
ソウル市と文化財庁などは守門将に対する言及があったことから見てどんな形態でも交代式はあったと推定している。
現在の光化門(クァンファムン)と大漢門交代式はモデルとした時代が違う。 ソウル市の委託を受けて大漢門交代式を主管する'韓国の場'アン・ヒジェ代表は"朝鮮時代文化が最も派手だった英・正祖時代を復元したこと"といった。
反面光化門(クァンファムン)交代式は'宮城の文ごとに守門将をたてて、スムンジャンペを作らせる'という記録が初めて出てくる朝鮮初期隷従時代意識を見せている。
文化財庁委託で光化門(クァンファムン)交代式を主管する韓国文化財保護財団は2002年と2010年の二度研究報告書をだした。 経国大典などの色々な文献で手がかりを受ける方法、文改廃見解などに対する記録を探して集大成した。 キム・ヒョンソン監督は"当時部隊が光化門(クァンファムン)東側にあったという記録により私たちも事務室を光化門(クァンファムン)東側に用意するなどできるだけ当時の姿を生かそうと努力した"として"考証に想像を加味してずっと復元している"と話した。
守門将交代式アイディアは16年前にあるソウル市庁公務員の頭から出た。 彼がすぐに今回の19代総選挙セヌリ党候補に出て蘆原区(ノウォング)で'ナコムス'キム・ヨンミンさんを負かし当選されたイノグン当選者だ。 当時ソウル市文化課長だったイ当選者は'私たちも英国のように王宮で守門将交代儀式をすればどうだろうか'という考えで計画をたてたという。
ソウル市内部でも考証不良にともなう批判が憂慮されて初めには反対にあたった。 だが、所管部署を観光課で渡して、外国人観光客用イベントで開始ができた。 イ当選者は"偶然な機会に始まったが、歳月が流れて考証資料が一つ二つ積もって歴史的意味も持つようになったし、年間数百万名の観光客が訪れるソウルの名物として位置を確立しなかったか"と話した。
(翻訳:みそっち)
何も残っていないとなれば証拠をつくればいいんですよ、そんな考えが500年もあったのが朝鮮時代だったのです、李舜臣将軍の大活躍は彼の死後60年過ぎたあとに書かれた彼の日記(60年後だからね)を手がかりに当時の登場人物をつくりあげたものだし、ハングルを発明したらしい世宗大王というのもいつから大王になったのかというとニホン統治時代に識字率をあげるために奨励したハングルをしらせるためにニホンの教育関係者が作り上げたものだったりするのです。