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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

8月の出生児数また歴代最小



出生減少深刻 8月の出生児数また歴代最小

統計庁、2018年の8月人口動向を発表 2万7300人が生まれた
33ヶ月連続で減少行進... 1〜8月の累計基準も史上最低


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[ソウルミーナ]今年8月に出生児数が同月基準歴代最低記録をまた更新した。前年同月と比較して33カ月連続の減少傾向も続いては少子化がますます深刻化している。

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統計庁が24日発表した人口動向をみると、8月の出生児数は2万7300人で、1年前より2800人(9.3%)減少した。今年に入って8月までに生まれた子供の数は22万6000人で、1年前(24万7600人)より8.7%(2万1600人)減少した。累計ベースでも過去最低だ。

例年、上半期生まれが多いという点を考慮すれば、今年の全体の出生児数は30万人をかろうじて超える程度が確実視される。 


(ソウル/みそっち)



出生児数が減ると、成熟した社会環境では子ども一人当たりにお金をかけるようになるというハナシもありますが、これは韓国には当てはまりません。
不況になり貧しくとも夫婦が家にいる時間が長くなると出生児数が爆発的に増えるという1970年代に現れた統計も近年の韓国の場合には当てはまりません。

1970年代には100万人いた新生児数が去年には1/3ですから、あの時代が狂っていたのか今がおかしいのか良く分かりません。国民一人当たりのGNPを多く見せるには人口が少ないほうが立派に見えるけど、全体の人口は多いほうがかっこいいわけで、そのへんでも省庁によって引用する数字を変えたりするのが韓国の特徴でしょう。



韓国型社会の解説❸
朝鮮は奴婢社会 その誤解と理解

さて、朝鮮時代は ”奴婢社会” だったと比喩されがちですが、アメリカ南部の奴隷制度のような社会では無かったようです。南部の奴隷というのはある種の契約のようなものがあって、奴隷商人が仕入れてきてそれを売り買いするという金品のやり取りがあったわけですが、朝鮮時代には ”奴婢1万人を抱えた朝鮮王” なんていう表現をしているのは1万人の人手の必要な耕作地を所有しているという意味でとらえるのが正しいという研究があります。

その奴婢っていう分類の中には ”王宮の飯炊き”、”雑用全般” という使用人(奴婢)がいたわけで、こちらには雇用であったり報酬があったり売り買いされたりということがありました。妓生なんかもこの身分でしょうね。

ヒデヨシの頃、加藤清正景福宮にたどり着くまえに焼き払われたのは”奴隷契約書”ではなくて、奴婢という ”身分帳” や ”借金の証文” だったわけですね。

その一方で農村部に繁殖していた”奴婢”というのは主人もなく、耕作地も無い、いわゆる納税の義務も無いひとたちということになります。※このほかに農民な身分もいた
ちっとも奴隷じゃないんですよ。納税の義務を果たしていませんからどこからもお給料は貰えません。気楽な身分ですから人口の4~7割がそういう人たちだったとする研究もあります。
まあ耕地があればそこの手伝いをしていくらかの対価を受け取るという生活だったでしょう。


そして勘違いされがちなのが、『朝鮮は王を中心とした中央集権社会だった』という部分ですが、これも全く正しくありません。たしかに地方官の命名権中央政府にありましたが、租庸調の年貢すべてが漢城(ソウル)に集められ、そこで再分配されたということはありませんでした。
災害があって王が米蔵を開いたという記録もありません。
近年の研究のふざけたハナシでは”南部の穀倉地帯からコメを運ぶ船が云々” なんていうファンタジーまで飛び出してきました。まるでニホンの ”北前船” をそのままイメージした夢なんですが、そういう事実もありませんでした。コメの収穫期にだけしか必要のない運搬船があったなんてことは無かったのです。

そもそも ”コメ作文化圏” でもないので、”半島南部は耕作地帯” なんて表現もニホン統治時代に作られたものです。

鎌倉時代ころのニホンでは農地があってそれを守る武士階級がいて、農地からのあがりでくらす貴族や寺社があったわけですが、やがてそれを殿様やお代官が取りまとめるようになり殿様は自分の領土の収穫は全部好き勝手に分配していたでしょ。
加賀100万石が毎年将軍家に10万石上納していたなんてことは無かったでしょ。
※お化粧料なんていうのはあった。
そいでも労力の提供はあったけど地方自治でしたよね。そんなふうにニホンの徳川時代であればお侍はコメで俸給を受け取りコメ相場が建てられた経済社会という仕組みでした。これが下っ端の足軽だっておコメを受け取る雇用関係はありましたよね。

朝鮮では昔に軍功があったひとや一部の貴族が自分の領地で収税してそこでおしまい。そのほかに地方の収税官もいたけど彼らでさえ”年貢” のようなものを王様のところに届けることはなくて、現地から出たものの一部を王様や地方官に推薦してくれた派閥に相応な分だけ”届け物”をするという社会だったようです。
しかも朝鮮時代の下っ端役人はどこからもお給料が貰えません。自分のところを素通りしていく品物から抜き取った物が取り分でした。
こうして目減りするだけの社会構造を理解しておくと、新しい耕地を開墾するなんてことがバカバカしいわけで、朝鮮時代には一貫して新田開発なんてものは行われませんでした。 ※当時のコメ作は直播きなうえに灌漑も無かったのでコメ栽培に適した低地以外でのコメ作は行われていませんでした

もちろん王様は奴婢1万人(あるいは数万人)が必要な領地を持っていて、(支配権)の取りまとめをする小役人はいたけど、小役人の彼らでさえ王様から俸給を受け取ることはなくて、収穫した中から自分の取り分をより分けた残りを王様の倉に納めていたのです。

あの閔妃壬午軍乱では13か月遅れの俸給米に砂が入っていたのは有名ですが、それは分配を命じられた小役人が自分の取り分に忠実だったから砂を混ぜたのです。
朝鮮戦争の時にも国民防衛軍事件では集めた兵隊にお米も毛布も行き渡らなかったでしょ。あれも現在では一部の軍高官の横領だったことになっていますが、実際には兵隊が移動してゆく先々の部隊があとからやって来る兵隊の分を分けちゃったから起きたことでした。朝鮮戦争のころには職業軍人にはキチンとお給料が支払われていたはずですが、DNAレベルで横領着服根性が染みついているために本能に忠実にポッケナイナイすると30万人もの餓死者が出たりするわけです。

それはそうとして、朝鮮の王様にはお金が無かったというのは有名なハナシです。色とりどりの絹みたいなものは現物が届けられるので、それを買うという経済は無かったですよね。 
韓国社会で話題になりがちな ”徳政令” なんていうのも近世の文明社会では税金の棒引きということはあっても個人の借金の棒引きは無かったですよね。
そのへんが朝鮮型物々交換社会というハナシはまた別の機会に。


付録
どちらもホンモノとされた韓国の贋作


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▲ボールアートスペース展示に出てきたシン・ユンボクの'弾琴図'中カヤ琴乗る妓女の姿(左側)と、澗松(カンソン)美術館が所蔵しているシン・ユンボク'青衿サンニョン'での妓女の姿


風俗図画帖で知られる申潤福の作品とされる山水画にそっくりさん登場
どちらも真筆を主張「真似たのはそっちだ」 まさに ”韓国型主張”


大方の専門家は "二つの絵の図柄がどうして同じなのかは分からない" 

ヘウォン(蕙園)申潤福(1758-不詳)の山水画である'サングンスジン(山窮水尽)'が、蔚山(ウルサン)博物館で所蔵しているといわれている玄齋沈師正(1707-1769)の'チョクジャンド(蜀棧圖)'と圖像が似ているという事実が発見された。



◇ ◇ 


絶滅するまでにはもうすこし根気よく嫌韓の輪を広げる必要がありそうですね。




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