写真で見る国民防衛軍④
朝鮮戦争を良く見るシリーズ㊦
かれらは口々にこれらは"なぜここにきたのかわけも分からない"とした。
[ミリタリーミーナ] 国民防衛軍徴兵の季節は真冬だったのに"竹槍行軍"写真がそれらしく流布されている、なぜなのだろう? なんらかの伝統行事として朝鮮韓国には竹槍を担いで行進するという習慣があったのだろうか、この姿は、"温暖で南洋気候"の韓国朝鮮の様子には見えない。
▲召集された韓国人部隊の行進するようす、まさかの竹の棒だ
(※ニホン元祖説要検証)韓国軍のソウル奪還凱旋記念行進だそうです
このようにして全国から集められたのは、イ・スンマン政府は1950年12月'国民防衛軍設置法'を国会で通過させて全国17~40才の民間人68万人を強制招集したものである。
さて国民防衛軍には軍服も軍番号も与えられなかった。
履物のひとつも満足に与えられず文字通り着の身着のままで動員された彼らは集合場所さえも知らされず前を歩く者のあとを付いてゆくだけだった、当時の彼らにとって取り残されることは共産主義者であるとされ、処刑の対象になることでもあるため道中では約半数が落伍しその消息は要として知れない。
補給も正しくなされないので、毎日数百人ずつ飢えと伝染病を耐えることができなくて多くのものが亡くなった.
※帳簿上の米の配給は一日四合、そのすべてが一部の韓国軍人の手によって私的に流用された
▲戦争勃発を聞きつけて山間部の韓国人らも朝鮮時代の武器を下山してきている手に持っているのは朝鮮時代の弓矢にほかならない(実は朝鮮戦争時の荷運び隊)
▲韓国では防衛のために、あらゆる年齢層をかきあつめた、火縄銃まで持ち出して来たところ、着ているものや履き物が戦後5年を経た朝鮮戦争勃発時のものだとはにわかに信じがたい。
※先込め式の火縄銃は結局"朝鮮征伐"の時代から300年過ぎても自国で生産できなかった。朝鮮製(ハングルの銘)のある火縄銃はこの世に一切存在しない。
▲こちらはぬかるみに整列している国民防衛軍徴兵者の列と言われる写真、いかにも中途半端な寄せ集めだということがわかる秀逸な写真だが、似たような構図で"集団消毒中"とキャプションのついた写真さえある、戦後わずか5年で"土人生活"にもどってしまった朝鮮韓国再放逐後のようすがわかる写真だ。この無能な行軍での死者は20万とも言われている。
※手前の小隊長は"腰に手ぬぐい+丸めがね"というニホン式様式を完全に再現している(中国に手ぬぐい+腕まくりは無い)
そのころの韓国軍正規部隊のようす
ここ注目っ
▲これが後方で組織された韓国陸軍正規兵の精鋭の整列しているところ、武器はまだ無い上下で衣服の色が違うのは気のせいだからね、手にあるのは棒だけのようだ 棒だけ?
棒だけ
棒だけである
キッパリ
▲このように、背負って運ぶのが朝鮮戦争に従軍した韓国軍人の正しい姿なのです、しかもニホン陸軍将校服だって。だから手に棒 (つえ) ってことね あひゃひゃ Aフレームアーミィ(背負子部隊)って言います
なった戦いの勢いをひっくり返すために急造された部隊であった。
しかし戦線に寄与することも無くその多くが逃げ出したともいわれる、 国民防衛軍の惨状は4ケ月ぶりに終わって、その多くが帰るところも無い難民になったし、故郷をめざして途中で餓死したものは数知れない
一方その頃、首脳部が現金24億ウォンと糧穀1800袋を横領した事実があらわれたこと。
結局国民防衛軍は1951年4月廃止されたが、政府は事件を覆うことにだけ汲々とした。死亡者数は10万人から1234人に縮小報告されたし、被害者は今まで何の補償も受けられずにいる。
※1951年の仁川上陸軍負け戦の頃のようです
、それにしても"木銃"でなにをしてるのかなぁ?
※1.国家機関である監察委員会(現在の監査院)の1年の予算が3000万ウォンほどになる時だった
※2.9万名余りの餓死者・凍死者[1]と無数の病人を出す「死の行進」となった。
(帰り道についてはさらに多くの死者が出たはずだという主張もある。)
(翻訳:みそっち)
▲米軍への砲弾の運搬は主に"韓国人人夫"により行われた、米軍占領地帯での勤務であることや、食事、給与が格段に良かったこともあり当時では"軍籍のない韓国人"にはきわめて大人気だった。
※部隊が全滅して解散したり、勝手に部隊から離れた者をいう、その後、こうした韓国人人夫は増加し続けたが内輪争いなどでその多くがもう一回分裂することになる。
※当時の米兵によれば韓国人には"弾薬火薬の危険性の理解が出来ない"、"燃料を運ばせると半分が蒸発する""食料運搬をさせてはいけない(弾薬箱の中にランチを入れて最前線へ)"
ほらね お背中にしょって戦争なさい
※決してこの先でバーベキューするわけじゃありません