世宗大通りは行き止まり
みそっちのソウル散歩⑰
世宗大通りはいまの光化門広場の端っこまでで道は行き止まりだった?
[ソウルミーナ]今では韓国にいくと入場料を払って見に行くコースになっているのが景福宮ですよね。あのひび割れる扁額の光化門のある朝鮮時代の王宮だそうですよ。
遥か昔の加藤清正の頃の記録では凱旋したときには焼け落ちていて朝鮮軍の姿もなかったという程度の扱いでした。これは今の韓国では超時空殿下秀吉軍が火をつけたことになっているというのはアノ国の歴史でしょうから小一時間ぐらい教えてあげたいですね。
韓国版のWikiの文章を手直しするとこんな感じになります。
景福宮の受難の歴史
壬辰倭乱(文禄・慶長の役、1592年)によって全焼。その後273年間廃墟として放置されていたが、1867年、高宗(コジョン)の時代に再建された。しかし1895年、宮内で高宗の皇后である明成皇后(閔妃)殺害事件がおき、王が居所を移してからは主人を失った王宮となった。1910年に国権を失い、日本によって正殿の前に総督府庁舎を建てられるなどして多くの建物が破損したが、正殿や楼閣などの主要な建築物は往時の姿を残している。入場料:大人 25歳以上 3,000ウォン 子ども 24歳以下 1,500ウォン
つまりヒデヨシの時代から270余年のあいだ焼け野原で残骸と礎石が僅かに残っていただけの使われなくなった宮殿跡が慶応2年頃から再建されたというのが事実です。
この時の宮殿の再建で朝鮮王朝は、なけなしの全国家予算を使い果たしてその後は急速に滅亡へと向かいました。そのへんはご存知ですね。
※1926年(大正15年)から正殿と光化門の間の空き地にニホン総督府本館の建設が始まりました。
いまでは世宗大通りと呼ばれてアメリカ大使館があったり世宗大王や李舜臣提督の銅像がある往復10車線もある大きな通りですね、あの石畳がボロボロのでこぼこ道ですよ 見てくる記事 http://japanese.joins.com/article/847/177847.html?servcode=400§code=400&cloc=jp|main|top_news
(長さ550mくらいの公園が真ん中にあります)
それによると光化門広場って言うらしいですね、作られたのは2009年でしたか。
光化門広場は、2009年8月に誕生したばかりの広場です。景福宮(キョンボックン)の正門にあたる光化門前から市庁方面に向かう大通り、世宗路(セジョンノ)の16車線のうち中央部6車線分のスペース(幅34m・長さ557m)に造成されました
それではそれ以前はどんなのだったのかというと記録的な写真がありますよ
※アメリカ大使館はこの写真のころにはまだ建っていません。
ニホン人の知っている世宗大通りはこんな感じです ちょっとおしゃれな写真ですね
それでは古い昔の地図を見てみましょう
この地図では上下が逆になっています
この辺に崇礼門とあるのが見える↓숭례문
ここには景福宮がある ↑ 경복궁
なにしろ270年も放ったらかしだった宮殿でしたが、高宗が1865年に再建を開始するときまでは世宗路っていうのは無かったんです。無いったら無いんですよ。
つまり韓国観光すると大概連れてかれちゃう景福宮っていうのは慶応年間に作られたものなんです、世宗大通りっていうのもその頃に開墾されたものだったのでした。
しかも高宗の再建計画は途中で放棄されちゃったんですね。景福宮の再建は光化門と内部の宮殿をすこし作ったら予算オーバーでそれっきりになったんです。それからというものはロシア公使館に屋根を借りたりしてそのままニホンに併合されたというのが正しいようです。
▲景福宮から伸びる世宗路は行き止まりのT字路だったことが分かる、ソウル駅まで延長させる計画はニホン統治時代に計画された。
▲こうした綿密な都市計画によって京城市は近代的都市として生まれ変わることになった。
今時風の地図のない時代の記録ですから分かりにくいですけど崇礼門(南大門)をくぐると道は東よりに向いていますよね、今で言うと明洞を突っ切って乙支路っていう繁華街のほうに向かっていたんです、その先で清渓川を渡る橋があって、それが広橋って言いますよ 一応石作りの橋だったようですけどね そっちのほうがメインの通りだったのでした。
リンク貼りました 増水シーンをご覧下さい。
ところで崇礼門(南大門)のほうですが、ニホン人のよく知っている南大門って藁葺きの小屋が立ち並ぶとんでもないところだ っていうイメージがありますよね。
確かにそういう写真しかないからこれが事実なんですが、仮にも正門に当たる南大門のすぐ外側が貧民街だなんて信じられますか?
※韓国のドラマではこんな通りを世宗大王が行列するらしいですよ
朝鮮時代の王宮はすべて放火によって焼け落ち再建されなかったりする。
迎恩門が朝鮮時代の正門だった
実は今でこそ南大門は重要な位置にあって国宝1号で観光の目玉ですが、当時の朝鮮時代のの玄関口っていうのはそこじゃないんです。 誰もが知っている迎恩門のほうが”中国様”をお迎えするための表玄関だったのです。
大正の中頃まではソウル駅まで通じる道路は無かったのね
南大門ですから門の左右には石塀(城壁)が続いていたのですよ、それがぐるりとソウルを取り巻いていたんです。出入りできる門も南大門 東大門 西大門 あとひとつ ところがそんなんじゃ不便ですから城壁の崩れたところからどんどん人が出入りしちゃうのです。 朝鮮時代の初期に作られてそれっきり放置されていたんですね。
もっと驚くべきことがあります。慶煕宮というのがあるんですが、これが城壁にくっついて設置されているのです、しかも南大門のすぐ脇なんですよ。こちらもずっと放置されてきたので日本統治期にすっかり整地されちゃうんですが、そのあとは韓国式の ”綿密な時代考証” とかでとんでもない宮殿が再現されていたりします。