建国節法制定反対運動、いつならイイの?
光復会'建国節法制定反対運動がさっぱり?'
[今夜もミーナ]'光復節-建国節'法を制定して独裁者イ・スンマンと親日反民族行為者の輩(やから)を建国功労者に操作して歴史を歪曲しようとする試みがセヌリ党内で本格化されるとすぐに生存抗日独立志士を筆頭に5日世宗(セジョン)文化会館で'建国節法律制定撤回国民運動本部を結成して本格的な阻止闘争に出た。
※光復会っていうのは1965年にできた右翼でも左翼でもない、わけのわからない団体です。とくに”光復”の日が1945年なのか1948年なのかで混乱している韓国の中では”アメリカ軍政統治時代”を無かったことにしているという不思議な団体です。
▲光複会は政府から補助金をもらっている政府公認の団体ですよ
同日、結成された'建国節の法律制定の撤回、国民運動本部'顧問には元光復会長、尹慶彬(ユン・ギョンビン)、金ウジョン生存独立志士、光復会顧問金国柱(キム・グクジュ生存独立志士、キム・ヨングァン、金国柱(キム・グクジュ、キム・ヨングァン、スンビョンイル生存独立志士などと常任共同代表には生存独立志士イムユチョル韓国独立有功者協会会長、キムユギル生存独立志士、ソチョングヮン成均館(ソンギュングァン)館長らが務めた。
ところが建国節法制定撤廃に積極的に先に立たなければならない光復会(パク・ユチョル会長)会長団が、'建国節法律制定撤回国民運動本部'結成式行事に参加しなかったし、職員ひとりが動向を見回しに出てきて電話で報告をしていた。
※なんだか代表の会長が参加しなかったようです、相当な高齢者だもんね
また'建国節法律制定撤回国民運動本部顧問、常任代表、共同代表名簿に前光復会会長などは名簿に上がっていたが、現光復会会長などの名前は見られなくて光復会が光復節-建国節法制定撤回運動を正しいと思っていないのではないかと思う疑惑を持つようにした。
この日光復会から出てきた関係者に光復会不参加理由を尋ねたが"自身はその返事をするほどの位置にない"と返事を拒否した。
また'建国節法律制定撤回国民運動本部顧問、常任代表、共同代表名簿に前光復会会長などは名簿に上がっていたが、現光復会会長などの名前は見られなくて光復会が光復節-建国節法制定撤回運動を正しいと思っていないのではないかと思う疑惑を持つようにした。
この日光復会から出てきた関係者に光復会不参加理由を尋ねたが"自身はその返事をするほどの位置にない"と返事を拒否した。
※光復会も低年齢化が進んで関係者のほとんどが戦後生まれになっている
建国節法律制定撤回国民運動本部を推進したある関係者は"光復会が建国節法廃止運動にあからさまに反対はしないがとても消極的であり無関心に対応している"として"建国節法制定反対運動に積極的でなければならない光復会の態度を理解できない"と不満を表わした。
また他の関係者は"はっはと笑ってしまいます!"というコメントで返事に代わった。
建国節法律制定撤回国民運動本部を推進したある関係者は"光復会が建国節法廃止運動にあからさまに反対はしないがとても消極的であり無関心に対応している"として"建国節法制定反対運動に積極的でなければならない光復会の態度を理解できない"と不満を表わした。
また他の関係者は"はっはと笑ってしまいます!"というコメントで返事に代わった。
この日建国節反対結成式には寒い天気にかかわらず、90才を越えた生存抗日独立闘争キム・ウジョン、イム・ウチョル、キム・ヨングァン、スン・ビョンイルの愛国志士らが参加した。
(翻訳:みそっち)
ニホンでは終戦のあとに戦地から大勢の兵隊が復員してきました。韓国では停戦のあと、自然に湧き出るようにどこに隠れていたのかというほどの壮丁が山からおりてきて溢れていたそうです。その段階で故国解放戦争に参加したと主張する者は、”銃を持って戦った”ごく少数の軍人がいただけでした。
その後自らの正統性を主張しながら戦時中に活躍したというヨタ話が次々と数多く生まれます。彼らの巧妙なその手口では、米軍の指揮下に入った1950年7月までのわずか10日あまりの期間だけで活躍したことになっているのが特徴です。
なぜなら指揮下に入った部隊の記録は米軍に残っているからなのですが、彼らの活躍した記録は不思議なほどにどこにも見当たりません。白頭山艦がキタ朝鮮の”釜山上陸部隊”を載せた大型輸送艦を撃沈したり、ニホンまでやってきた”韓国人パイロット”がP-51を操縦して10機編隊で玄海灘を渡ったり>>>これらは史実としては存在しない読み物の世界のハナシなのですが彼らはいつのまにかそれを真実だとして信じ始めています。ここでさらに手に負えないのがニホン統治時代に重慶だか上海だかにあったとする”臨時政府関係者”なのですが、 ここから重要、彼らが”個人の資格”で帰国したことはよく知られています、臨時政府組織に加入した時期はそれぞれ違いがあっても彼らは一様に”半島内での生活の基盤”というものが無かったのです。そりゃそうですね。上海・重慶まで徒歩で逃げ回っていたのですから彼らの財産は半島内には何も無かったのです。初代大統領の李承晩でさえもハワイ・アメリカと渡り歩き明治の終わり頃に国を出たっきりお尋ね者として生きてきたのです。同時代の金九も似たようなものでしたから彼にとっては邪魔な存在だったのか朝鮮戦争の始まる1年前に暗殺してました。
さておき、そんな海外帰国組っていうのが食うや食わずで帰国してきたあとのもっとずぅ~っとあとのことになりますが、李承晩が失脚(1960年)してハワイで客死すると、それを待ってましたとばかりに活動を開始したのが光復会なのでした。
つまり”過去を知ってる初代大統領”がこの世にいなくなってから、”独立功労志士”っていう団体をつくってそこに収まったのが彼らなのです。
※朴大統領の時代には人気取りのために英雄やら功労者というものが量産されました、また功労者などへ優遇措置もいっぱいあって”子弟の優先入学”みたいなことが行われていたようです。(そのまま全斗煥の時代になると軍人=公務員と同じ身分+年金という制度になった)
これだけ読めばあなたも”光復会”がわかるかも