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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

臨時政府を継げなかった大韓民国?

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実は、比較的新しく主張され始めた1919年建国説
 
李承晩が31精神説を主張し全斗煥が臨時政府起源説にして李明博が1948年の60周年を祝おうというときに反対意見として再浮上してきたらしい。
 
 
韓国、大韓民国が1948年に設立されたのは、私たち国民であれば誰でも当たり前のようにここでは事実である。それは、その年の5月10日の自由選挙を通じて国会が成立されて、その国会で憲法が制定され、大統領が選出され、8月15日に政府の樹立宣言式を持つことにより、成り立った国であった。
そして12月12日パリ、国連総会での承認を受けることにより、そのプロセスが終了された国であった。 そうして建てられた大韓民国は建国60周年を迎える2008年に至り、「自由と繁栄」を取得した成功した国であったことが証明され、それ応じて盛大な祝賀行事が準備されるべき時だった。
ところが、その時に大韓民国は2008年は建国60周年ではなく89周年を迎えたという主張が表示されることにより、クロストークが生じた。つまり、大韓民国は1948年に建てられたものではなく、3.1運動が起きた1919年に設立されたという主張が現れたのだ。
 
 
2007年から起こった建国節制定の動き 盧武鉉政権も1948年説
盧武鉉政府が統治していた2007年に大韓民国を大切にしていた自由主義者は、一年後にやってくる建国60周年記念行事を準備していた。民間次元でも建国60周年行事を準備しなければならないと思うからであった。そして、建国60年記念事業準備委員会(前ソウル大イ·インホ教授、誠信女子大のキム·ヨンホ教授)が組織された。 同じ脈絡で8月15日を光復節から建国節へ変えようとする動きも起こった。それは、今日の「自由と繁栄」を取得した大韓民国が生まれた日も記念していない悲惨な状況を嘆いたところで出てきた動きだった。その運動は、新たに発行される10万ウォン券には”建国大統領”である李承晩や”建設大統領”である朴正煕の顔ではなく、大韓民国の建国に反対した金九の顔が入ることを懸念したことから始まり、その中心は、大韓民国サランフェ(代表ギムギルジャ)であった。
 
これらの意志は、李明博政府にも伝達され、政府の支援を受ける「建国60周年記念事業委員会」が設置された。それに応じては、国会(代表ソンジン)を中心に、8月14日夕方上岩ワールドカップ競技場で開かれる慶祝大会を含む、いくつかのイベントが用意されていた。そして7月にはハンナラ党のジョンガプユン議員を含む8人の国会議員(ジョンガプユン、ジョンヅオン、グォンギョンソク、ヒョンギョンビョン、ギムジョングォン、ホンジャンピョ、金鶴松、ジョンヘゴル)が8月15日を「光復節」から「建国節」に変えようという法律改正を提案した。
 

建国60周年記念行事への反発
これらの自由主義者たちの動きについて初めに反発したのは、光復会であった。それらはその年の7月に発表した声明で、2008年8月15日を建国60周年ではなく、「光復第63周年を祝うと政府樹立60年」に行わなければならないと主張した。 続いて大韓民国臨時政府記念事業会平和統一市民連帯民主言論市民連合など60余りの団体で組織された仮称「建国節行事憲法違反を糾弾国民行動」も、李明博政府の建国60周年行事を反論した。
声明は、2008年に建国60周年ではなく、89周年と主張した。 続いて、李明博政府の「大韓民国建国60年記念事業委員会」の設置と運営が憲法に違反したという理由で憲法訴願審判請求書が憲法裁判所に提出された。請求の中には、市民団体と歴史学者の一部、そして民主党のカン·チャンイル議員を中心とした野党の国会議員74人が含まれていた。主張の核心は、建国は1919年に行われ、1948年には政府の樹立のみ行われたものであった。そのような主張は、檀国大学ハンシジュン教授によって論文に体系化された。
 

”臨時政府勢力”と”建国勢力”
これらの「1919年建国」説を学問的次元で批判し、「1948年の建国」を強く主張した学者は、韓国学中央研究院のヤンドンアン教授であった。彼は2008年11月5日、韓国学中央研究院が主催した学術会議の「国家形成理論から見た大韓民国の建国」という論文で、”1919年に中国に建てられた大韓民国臨時政府は、国の基本的な要件である領土、国民、政府、主権の4大要素を備えていなかったため、政府というよりは、独立運動団体でなければならない”と主張したのである。
解放後、故国に帰ってきた金九と金奎植の”臨時政府勢力”は、臨時政府を主軸 ​​にして、新しい国を建てようとした。そして北朝鮮とも交渉して、左右合作的な統一国家を立てようとした。しかしながら、意のままにされなかった。 これとは異なり、米国の地域の独立運動勢力を代表する李承晩と国内勢力を代表するキム·ソンスは、北朝鮮には事実上の共産政府が入っているので、国連監視下の”選挙が可能な”韓国の地域でだけでも政府を立てなければならないと主張した。 これに対し、金九と金九の”臨時政府勢力”は猛烈に反対し、大韓民国の建国に参加しないのはもちろん、最後まで反対した。それに応じて金九と金奎植の”臨時政府勢力”は、李承晩とキム·ソンスの「建国勢力」とは他の勢力に分類されるしかなかった。
 
 

「建国勢力」の主軸は、国内勢力
”臨時政府勢力”と”建国勢力”の違いは、1948年2月に発表した金九の「3000万同胞に邑叫ぶ」というタイトルの声明でよく分かった。その声明の中で”臨時政府勢力”の金九は「建国勢力」を”無知モルガク壁紙を張り子たち"、 "新しい一進会”と非難し、建国活動を「全民族を斜坑に入れる極悪グクヒュンの危険日」と批判したのである。それから、「私は統一された祖国を建設しようとして38度線を切って倒れようとも一新のくだらない遊んために単独政府を立てるには協力しないことにしたい。」と批判した。 そして、5.10選挙を始発として建国の方向に進むと、金九と金奎植の”臨時政府勢力"は、それを防ぐために「統一独立促進会」を組織した。そして、パリの国連総会で独自の代表団を送って、国連の大韓民国の承認を拒否しようとまでした。
※このくだりは1907年の高宗バーグ密使事件と似てるね
 
そして、先発隊としてソ・ヨンヘをパリに派遣した。しかし、代表団長になる金奎植が出国していないことにより、代表団の派遣は失敗に終わったのだが、そのように”臨時政府勢力"と"建国勢力”の対立は深刻だった。イ・シヨン、シン・イクヒ、イ・チョンチョン、イ・ポムソクが“建国勢力”に加担したことは個人の次元の行動だった。 このような観点で見る時“建国勢力”の主軸は国内エリートであった。キム·ソンスの国内勢力は、必要な学識と経験を積んでいたものであり、そのような国内のエリートは海外の独立運動を領導した李承晩の指導で国を立てることができた。
 
 
李承晩が言う臨時政府は  1919年漢城臨時政府説
1948年5月31日の最初の国会が開かれたときに、李承晩は、新たに設立される国が1919年4月にソウルで建てられた漢城臨時政府を継承していると明らかにした。そして大統領になって、政府樹立宣布式を経た後は、法令に民国と年号を使用して、年を表示するときに民国29年、民国30年などとした。 したがって、李承晩が言う「民国」とは、1919年4月に上海で建てられた臨時政府でもなかった、また、1919年9月に上海で3つの臨時政府(漢城、上海、ロシア領)を統合して作成された臨時政府でもなかったのだ。
特に、李承晩は、上海で統合された臨時政府の初代大統領だったが、1925年に議政院によって解任される不名誉を経たので、それを前に出す気持ちはなかったのだろう。そのため、1948年に彼は漢城臨時政府を新たに生まれる国の前身と掲げたものである。 このような彼の複雑で息苦しい心情を推し量ったのか、憲法制定基礎委員会は1948年7月17日に公表した大韓民国憲法前文で大韓民国は臨時政府を継承したことでなく、1919年の“31独立精神”を継承したと書いたのだ。 ※金九は1949年6月26日に暗殺された
 
しかし、その部分が、1987年10月の9回改正憲法では、大韓民国が「臨時政府」を継承したものに変わったのである。 全斗煥政権末期
 

大韓民国という国号 重慶の金九政権は左右合作だった
これは大韓民国アイデンティティと関連して重大な変化を意味するものであった。1987年の憲法前文で大韓民国が「31独立精神」ではない「臨時政府」を継承したとしたのは、今日の大韓民国が反共国家ではなく、共産主義を容認する左右合作国という意味でも解釈されることがあるからである。なぜなら重慶にあった金九の臨時政府は、1942年に左派勢力を受け入れて左右合作政府がされていたからである。 しかし、1948年に建てられた大韓民国は、明らかに反共国家であった。したがって、独立運動組織である臨時政府とはその性格が異なるほかはないのである。
これらの主張に対する反論として、1948年の大韓民国が1919年の大韓民国国号をそのまま書いていないのかという主張が提起されている。 そのような主張は間違っている。今の大韓民国という国号は、1948年に新たに定められたものである。高麗共和国朝鮮民国大韓民国などのいくつかの国号の中どのようなことを選択するかの議論をしている途中、最終的に30人の憲法の基礎委員の投票によって大韓民国に決定されたものなのである。偶然臨時政府の国号と思うようになったが、二つの国号の間には何の関連性もなかったのだ。 だから、私たちが住んでいるこの国大韓民国は明らかに1948年に建てられたものであり、したがって、今年は建国89周年ではなく建国60周年なのである。
2008年らしい記録
 
 
(翻訳:ネト ミナ)
 


 
 
結局アメリカの後押しのあった李承晩が初代大統領になったんだけど邪魔になった過去の歴史(臨時政府から追い出されている)や政治理念(臨時政府はキタ朝鮮と考えが似ている)を誤魔化して体裁のいいところを漬け込んだら最近になってウリもウリもと意見が出てきてそれを全部ビビンバしたのがあの国の正当性(正統性)ってことかな。
 
 
 
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光復会っていうのがありもしない活躍を
真実だと思い込んで騒ぎ出したみたい