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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

謎の ”民族独立運動家33人の寄せ書き”


その3.1運動の寄せ書きがどうもインチキだ

太極旗に墨痕あらたかに書かれたものはすべて抗日独立運動の志士たちが書いたのだ
読めないって不便、でも ”民族独立運動家33人の寄せ書き”


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[ソウルミーナ]韓国、文化日報は 3.1運動100周年と題して 次のような記事を載せた。

”ソウルの街は熱狂的な独立万歳を連呼する群衆でいっぱいだった。 いつの間に作られたのか、紙で作った太極旗(テグッキ=韓国国旗)の波の隊列の前では、学生たちが先頭に立ち、ソウル市民と地方から上京した田舎の人々がこれに呼応した。” 

独立運動家であり国語学者の李熙昇(イ·ヒスン)先生は、1919年3月1日の万歳運動当時のソウル塔骨(タプゴル)公園の姿をこのように描いた。 今年は3·1運動と大韓民国臨時政府樹立100年になる年だ。 3·1運動は抗日独立運動史上最大規模の独立万歳デモ運動で、その後中国、上海に大韓民国臨時政府を樹立する契機になった。 また,3·1運動は第1次世界大戦勝利国家の植民地で起きた最初の反帝国主義民族運動である。
中国の5·4運動とインドの無抵抗運動などアジア各民族の解放運動にも影響を与えた世界史的事件だ。


このような内容と一緒に太極旗に寄せ書きされた写真が掲載されている。3·1運動だの抗日独立運動だのに参加した民族独立運動家33人の寄せ書きなのだそうだ。

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これは、どこかの展示館にあるもので、毎年この季節になると大韓民国の独立が云々とか光復軍がどうしたなどと紹介されがちな寄せ書きだ。


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▲どこかの展示館に貼ってある様子


ところが、どうやらこれは3.1運動とは全く関係ないものだという主張が現れている。(関係ないわけじゃないけど)


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これは左上の部分を拡大したものだが、このように書かれているように読める。


大韓民国廿八年一月十日
蚌埠第二區隊區隊附文雄明榮轉紀念


大韓民国という名称は1920年の3.1運動で出来たとか、1919年に李承晩(のちの初代大統領)・金九ら独立運動家が国外につくった大韓民国臨時政府亡命政権の名称として「大韓」の名を用いると同時に、初めて共和制国家としての名を採用した、というように知られている。(だから100周年でお祭り騒ぎをやっているでしょ)

んであれば大韓民国暦28年とは1948年ごろなのである。


蚌埠というのは現在の中国のこのへん

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蚌埠というのは中国の上海の内陸のあたりに比定される。どうやら戦後(第2次世界大戦後)に中国の内陸にまだ残っていた第二区隊の文雄明君の栄転記念だと分かる。

栄転というからには寄せ書きをした人たちは蚌埠第二區隊に所属していた人たちであり、1948年頃の中国で書かれたものだとすれば、文君の栄転後の蚌埠第二區隊はそこに残って何をしていたのだろう。 
武装解除後にバラバラに帰国した光復軍は1946年6月に正式に解体されている


博物館の展示の説明書きにありがちな光復軍は、いったい何から光復しようとして現地に残っていたのだろうか。

1948年と言えば李承晩や金九はすでに韓国に帰国していた時期であり、しきりに内紛を繰り返していた頃だ。アメリカ軍政は韓国に愛想をつかし駐留する国連軍の規模を縮小を検討していた時期でもある。これが1~2年程度の誤差の範囲だとしてもその意味は似たり寄ったりでしかない。


しかもこの寄せ書きの中には光復の文字などひとつも無いのだ。


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完全独立を為す努力 団結

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自主 自立 自愛 (自愛かい)


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熱心に勉強しよう(オマエラガナ)

このようであるが、この寄せ書きはの説明文によれば 3·1運動だの抗日独立運動だのに参加した民族独立運動家33人の寄せ書きなのだそうだ。 その内容は ”熱心に勉強しよう” なのである。

李承晩から朴正煕のころにハングル専用化が進められ、現在の韓国人の漢字の識字率は5%程度と言われる。古びた太極旗に墨書きで書かれた象形文字を理解することができる韓国人はほとんど皆無だという。 

まさに ”熱心に勉強しよう”  というのは現在の彼らに向けられた言葉のようだ。



 
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うんうん 知ってたさぁ