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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

『鄭鑑録』、平賀源内原作説を追う

 
 
 
大韓民国代表予言書『鄭鑑録』
 
 [歴史ミーナ]時は宝暦、平賀源内は高松藩お抱えと江戸を往復していた。ちょうどその頃、何度目かの朝鮮通信使が江戸までやってきた。彼が長崎で購入したエレキテルの修理したのがこの数年前であったという。その前年には最初の戯作『根南志具佐』を書いているから、作家として脂の乗りきった頃だったと推測される。
実は源内が20歳のころ朝鮮通信使が江戸参府しているが、彼の記録に朝鮮通信使は登場しない。しかし将軍家重襲封祝賀とあってかなり多くの記録が市中に残されている。
いくつかの与太話もあるようだが、宿屋の茶碗を盗み、街道ではにわとりを盗んだという記録が残っている江戸参府であった。この時に朝鮮人の習性が広く伝わったのである。「朝鮮人は盗癖がある」「朝鮮人はウソをつく」「朝鮮人は大小を厠でしない」などであった。もちろん源内のことだ、朝鮮人についてその風俗は当然知るものとなったのである。
 
 
 
 
新しい世の中を夢見る国民の希望 >>>だけどね、あれは平賀源内が一晩で書いたんだよ    関連過去カキコ:ノストラダムスよりすごい"韓国"の預言者
 
 
 
 
イメージ 2[予言のミーナ]韓国という国を理解してゆく中でどうしても『鄭鑑録』という本に行き着くことがある。時代は朝鮮時代中期の文献に初登場するというものでノストラダムスの250年くらいあとに現された。
朝鮮時代には一貫して《禁書》とされ、内容を実践しようとすると牢獄に入れられたりといったたいへんなしろものだったのだそうだ。
 
 
イメージ 3じつはこの『鄭鑑録』ですが、江戸時代の奇才”平賀源内”が一枚噛んでいるようなのです。
あのうなぎが土用の丑と決めちゃったような茶目っ気のあるひとだそうです。
 
ニホンでは宝暦だったころ朝鮮通信使がニホンにやってきました、英祖40年といいますから西暦では1764年、将軍は家治だか家重の頃です。(あの鶏泥棒の時です?)
まぁかれらはなんとか江戸にたどり着くのですが生活習慣の違いから行き違いもあったようで当時から朝鮮人というのはよくわからないものとされてきました。
 
そのころ江戸にいた平賀源内が、「朝鮮人ってえのが文化的でないのは戦にも勝ったことがないし、中国の藩領だからだろう」ということで、一晩で書き上げ朝鮮通信使に持たせて帰したのが 『平韓録』というものでした。これは下書きがニホンのどこかに残っているとも言われています。(当時はVTRが2インチ規格で機器・テープとも高価だったため使い回されて消去されたらしい) 
 
                ◇ ◇ ◇
 
その怪文書の内容はニホンでいう室町のころに政変があって誕生した朝鮮という国の王朝が500年続いたあとに、次の王があらわれて500年統治するという、当時の悠長な時代背景では容易に創作できそうな内容が書かれているのですね。
登場人物はみな朝鮮風の名前に書き換えられていますし、地名もなんだかニホン風の地名が出てくるあたりがニホン起源説の論証になるかと思います。
 
 
 
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<鄭鑑録>は朝鮮中期以後、民の中に流布された国家の運命と民の前途に対する予言書として知られている。 <鄭鑑録>という単語が<朝鮮王朝実録>記録に現われているのは英祖の時だ。
 
文献では、1785年(正祖9)のホンボクヨン(洪福榮)の獄死(獄事)で《鄭鑑録》という本に対する言及が最も古いものだ。
 
<鄭鑑録>が活字本と初めて出版されたのは、1923年だ。 なんと100年余りの間、筆写と口伝で伝えてきたものだ。 <鄭鑑録-新しい世の中を夢見る民衆の予言書>の著者であるキム・タクソウル大学人文学研究院客員研究員は"鄭鑑録は、単一冊子がない"、"口承されてきた40~50個の小さな予言書を集大成したもの"と話した。
 

イメージ 1◀鄭鑑録活字本(上)と筆写本(下)。活字本は1920年代に発行された。およそ6000文字で書かれている。
(このページはおよそ5000文字ある)
 
40~50編の小さな予言書集大成
その内容は朝鮮の先祖という李沁と鄭鑑の対話形式で朝鮮以来の興亡大勢を論じる内容だ。
朝鮮のその後、チョン氏の鶏龍山、チョン氏の完山、ワン氏のキヅタ王国の創業を予言した。 これらの王朝は民に新しい国、希望のある明日だ。
 
<鄭鑑録>は予言の形式を帯びたが、朝鮮時代の支配イデオロギーな性理学に対抗して平民知識人らが準備した対抗イデオロギーだという話だ。
漢学者であるチョンムヨン氏も"朝鮮民衆の風はすぐ<鄭鑑録>に入れている希望のメッセージ"とし、"メッセージの核心は弘益人間精神を結合させて幸せな私の民族の梨花世界であり、チョンジンインは朝鮮の既得勢力に対する仮想の抵抗の指導者"と話した。

そのような側面で<鄭鑑録>に対するアプローチは単純な構造の解釈ではなく、その中に隠れた歴史性を注目しなければならないというのが学界の共通した意見だ。
 
白承鍾西江(ソガン)大学教授も"<鄭鑑録>は、韓国近代史の水源で"と話した。 <鄭鑑録>が朝鮮の改革運動の一線を引いた東学運動はもちろん、ジュンサンギョ、デジョンギョ。 円仏教など民族宗教の土台になったということだ。
 
 
『鄭鑑録』に出てくる地名で現在の地名とされたところ
1.寧越貞洞(チョンドン)の上流(江原道寧越郡上洞邑連下里一帯)
2. 奉化春陽一帯(慶尚北道奉化郡春陽面石峴里一帯)
3. 報恩俗吏ナンジュンハン一帯(忠清北道報恩郡ネソクリミョンと慶尚北道尚州軍華北面ファナムリ一帯)
4. 公州の遺構の麻谷(マゴク二つの川の間(忠清南道公州市の遺構邑沙谷面一帯)5. 風紀チャアム、金鶏村(慶尚北道栄州市豊基邑クムギェリ一帯)
6. 醴泉金堂洞の北側(慶尚北道醴泉郡の竜宮面一帯)
7. 陜川伽耶山の南側萬寿洞一帯(慶尚北道陜川郡ケ谷面一帯)
8. 茂朱無風の北側の徳裕山の下、防音(全羅北道茂朱郡茂豊面一帯)
9. 扶安の辺山の東湖巖(ホアム)下(全羅北道扶安郡の辺山(ビョンサン)面一帯)
10. 南原〜ウンボンドゥリュサンの下で同点村(全羅北道南原市(チョルラブクト・ナムウォンシ)のウンボン邑一帯
 
現代になっては<鄭鑑録>の核心である本当に上(讖緯・国の運命を予測すること)は行き来したのにない。 特に政治指導者たちが自分の私心を掲げた自家撞着的解釈をしている。 盧泰愚(ノ・テウ)元大統領は大統領選挙の過程で'ドゥミジェチョン(頭尾在田)'という部分だけを抜粋、自分が名前の前と後に'銭(田)'が入るとし、大統領になる運命だと広報した。
 
金泳三・金大中前大統領も"<鄭鑑録>で'真因が南海の島で出現する'(南朝鮮史上)と予言した"ながら、支持を訴えた。 故人になった鄭周永(チョン・ジュヨン)国民党総裁も自分を'チョンドリョン'と主張し、論山(ノンサン)が故郷の李仁済(イ・インジェ)議員は渓竜山(ケリョンサン)の精気を受けたと宣伝した。 '王朝的事故'を抜け出していなかった前近代的イェオンロクイン<鄭鑑録>が現代の政治家にはシンキロウな効能を発揮しているのだ。
 
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鄭鑑録が正確にいつ形成されたかどうかはわかりませんが、概ね18世紀の英祖、正祖時代に形成されたと見るのが一般的だ。 正祖9年に起きた、ホンボクヨンの謀叛事件(鄭鑑録謀叛事件)に鄭鑑録が登場するのが確実であるために少なくともそれ以前には形成されたものと推定される。
 
明らかなことは、李氏が滅びるという文句で見る時、朝鮮王朝に反対する意図を持っていたのは明らかだ。 学者たちによっては鄭鑑録が、性理学を始めとした朝鮮王朝の支配イデオロギーに対抗する民衆の抵抗のイデオロギーで形成されたものと見ることもある。 このため、朝鮮時代にはタブー視されたが、民間で暗々裏に広まった。
 
筆写が繰り返され、様々な版本が現れたが、核心的な要旨は、朝鮮王朝(木子、李)が滅び、鶏龍山にチョン氏が(奠邑、鄭)という新しい国を建てるのだ。
鄭鑑録謀叛事件の板本では、李氏が滅び、金氏、ユ氏、チョン氏の三国に分かれ、最終的に、チョン氏が統一すると出たという。
他の版本では、チョン氏の鶏龍山都8ベク年があり、次はチョ氏(趙氏)の伽耶山(伽倻山)都5百年(あるいは千年)、また、その次は范氏の完山(完山)7百年(あるいは600年も千年)と王氏(王氏)の再度キヅタ(松嶽:開城)都千年(あるいは500年)という。
 
西暦5千年代まで予言するなんてまあグッドも、朝鮮王朝が滅びてチョンドリョン、あるいはチョンジンインが新王朝を立てる前までは通貨危機が起きるためにこれを避けるシプスンジに避難しなければならないという話が出ているともいう。
妙なものはシプスンジとして名指しされた地域がいずれも南部地方という点だがこのことからみて、鄭鑑録の形成は北、とくに西北地域だったと見るのが一般的だ。 実際、西北地方を中心に起きた大規模な蜂起であるホンギョンレの乱が農民蜂起で鄭鑑録が本格的に活用された最初の例だが、この後ホンギョンレの名前とともに鄭鑑録は19世紀の農民蜂起のバイブルのように使用される傾向を示す。
 
 
こんなふうにわけがわからなくなって現代になるのですが途中で味付けが変わってしまったり史実の裏付けが行われたりしてわけがわからなくなっていきました。
 
 
著者と著述年代は分かりませんが、朝鮮以来、民間に広く流布されてきた韓国の代表的な予言書。様々なガムギョルリュ(鑑訣類)と秘訣書(訣書)が集成されたものと民間に伝えて南下する間、様々な異本(異本が生じた。 内容が多様な数十本の秘訣類の集成というのは〈鄭鑑録〉が単一の人物によって作られたものではないという事実を反証する。 〈鄭鑑録〉はよくガムギョルウルはじめ、同国歴代キスボン宮ウムヤンギョル(東國歷代氣數本宮陰陽訣)・歴代の王ドボン射手(歷代王都本宮數)などをまとめ、同国の秘技集成(記集成)と称えたりしてガムギョル一つだけを指して別に鄭鑑録と呼んだりもする。 しかし、ウィソときの内容のため、本のタイトルというよりは'鄭鑑録'という正体不明の末世予言の民間信仰で指摘されている。
 
鄭鑑録の起源はチャムウィソル(讖緯說)だが、'さて'は、隠語・予言に国家や人事(人事)の吉凶禍福・成否を予言することで、'上'は六経(六經)を解析し、その隠れた意味を明らかにすることで、その淵源は占卜(占卜)と同じだが、ただ、'本当に上'は主に国家や王国の盛衰を占うのに特徴があると言える。 たいていチャムウィソルは風水地理説と混合されるのが普通だが鄭鑑録もチャムウィソル・風水地理説・道教思想と複合された。 また、これは、五行思想と結びついて天文地理的条件が、人間の吉凶禍福と関連されるという民間史上に切り替えたのだ。
 
このようなプンスドチャムソルは新羅末期~高麗町導線(道詵)の〈導線秘技道詵記〉によって高麗の建国と連結されたりもしたが、文禄・慶長の役以後、盛行したプンスドチャムソルは、統治者の立場ではなくバンワンチョジョク・庶民的性格を帯びた。 要するに〈鄭鑑録〉は、さまざまな状況を推してみれば、壬辰倭乱丙子胡乱以後、に成立したとみられる。
 
 
参考
 
 
 
(まとめ:みそっち)
 
 

 
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