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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

陸海空+海兵隊まで 韓国軍のウソを検証してみた

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韓国軍が朝鮮戦争で活躍した?

 
当日ころの国境付近の様子

『1950年6月、キタ朝鮮の地上部隊14万が南下を開始した、これに対する韓国軍は陸海空軍あわせて10万人という規模だった。』

まことしやかに囁かれがちな韓国軍の大活躍ですが、実は陸海空+海兵隊までもが我もわれも大活躍を捏造したというおハナシです。
名目上は1948年の両国の建国宣言からソ連や米軍が次々と駐留する兵力を減らし、双方が小規模な軍事顧問団だけを残して撤退して、あとにはキタ朝鮮と韓国軍が勝手にやれば?ということで表向きは決着したのね。

『両軍の装備はソ連から供与された戦車を装備する機械化部隊を持つキタ朝鮮軍に対して、対戦車装備の一つさえも無い韓国軍という状況だった。』

南北を繋ぐ鉄道は両国の関係悪化から前年の9月にレールが外されたし、国境付近の山間部では相変わらず小競り合いが繰り返されていたり、もちろん国境の道路には検問所があったわけなんだけど、相変わらず竹ざお一本の遮断機程度だったし、対戦車障害物も無かったのです。 (南北国境に非武装地帯:DMZが作られたのは停戦後のこと)


普段なら生活物資満載のトラックの往復するばかりだった国境の道路だったわけですが、キタ朝鮮軍の戦車は大した抵抗も受けずにその道からやってきたのです。
(生活物資はキタ朝鮮からはミシンなど工業製品やタバコなどの嗜好品であり韓国側からは農作物や水産物が運ばれた、キタ朝鮮の後ろにはソ連や中国があり韓国から燃料を買ったというのは後世に作られたウソである)


そんな中で、韓国ウォッチャーにはいくつかの戦闘の様子が知られているわけですが、それらの主張は開戦の翌日発行の新聞各紙に掲載された国防部による大本営発表を”既成事実”として捉えながら、1960年代に脚色されて世に知られるようになったものばかりなのです。



陸海空 どこが最初の嘘つきか

『25日未明に38度線の国境付近で戦端が開かれた。ちょうどその時間頃に釜山沖では韓国海軍艦艇による”唯一無二の歴史的海戦”が行われた』  こんな与太話があるんです。世に言う『大韓海峡海戦』というものですよ。
 
主役となるのはその年にはるばるアメリカ西海岸からハワイ。グアムを経由して韓国に回送された700tほどの沿岸警備用のフリゲート艦で最大速力が23ノットという、大戦量産型の駆潜艇PC-461級は同型艦が300隻以上もあるというしろものでした、大砲をおろして地方の大学の海洋調査船として売られるところを韓国海軍が2万ドルで買ったものだったりするわけです。
戦争は5年前終わったし、沿岸に敵艦が来ることも無かろうと民間に払い下げられたものだったので大砲が取り外されていたんですね。
 

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ペンキを塗りなおしアメリカ人の艦長を雇って

大砲(76mm両用砲)を積むためにアメリカ西海岸からハワイに向けて出航したのが同年2月のこと、ところがハワイ間でたどり着くや今度は砲弾が手に入らないと知るり韓国とは航路が90度違うグアム島に舳先を向けて大きく遠回りとなる寄り道をしながら・・・・・ 
ハワイで砲弾が手に入らなかったことは韓国の地方紙の座談会のなかに出てくる。グアム島で砲弾を買った(あるいは供与を受けた)という事象はアメリカ側の資料には見当たらない。ハワイからグアムに寄り道をしたという主張は1980年代になって初めて出てきました。

こんな航海のはてに『釜山・仁川に到着して国民の大歓迎を受けるものの、艦船用燃油の割り当てが受けられず鎮海港から動けなかったという>>>>』 こんな告白まであるんだけど

開戦のその日あちこちで韓国軍が後退していたころ新聞各紙には”傀儡軍撃退、各地で敵軍敗走、友軍海州市占領、釜山沖でソ船撃沈”の見出しが踊った

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▲大韓海峡海戦を伝える京郷新聞1950年6月27日

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1961年10月1日付け東亜日報の海軍まとめ、白頭山艦の活躍も無いし仁川砲撃ネタもない。文中にあるように釜山から撤収した(済州島に係留) ※敗走中は釜山港から武器弾薬満載の米軍輸送船の邪魔にならないように済州島に回航された


この記事は国防部発表ということだったが、その見出しの中で”釜山沖でソ船撃沈”だけが、海戦の様子(白頭山艦(PC-701)の活躍)を伝えているわけだが、そのほかの項目も含めてすべてデタラメであるということだ。
なお、白頭山艦(PC-701)が仁川上陸作戦に参加して艦砲射撃したという与太話も一部で囁かれているが、韓国軍が仁川上陸作戦に参加したという事実は一切無いのです。

関連過去カキコ:伝説の"白頭山艦"のウソ


韓国の陸軍は何をしていたのだろう。
 
開城市(現在はキタ朝鮮領)にあった韓国陸軍第1師団(師団長パク・ソンヨプ)は全く抵抗する準備も間に合わないまま算を乱してソウルに向けて後退した。(ペク将軍はこのあと自身で指揮する部隊を持たない将軍としてアメリカのマスコミに利用されることになる)
ソウル入城するキタ朝鮮軍の様子をみると撃ち合いをした様子もほとんど無いし泥汚れすらない軍服で整然と行進している姿が印象的だ

中部戦線となる春川の戦いでは小口径の大砲(短砲身57mm砲)を敵戦車に向けながら1発も応射することなく武器を捨て後退した小隊指揮官がその後流れ弾に当たり死亡したときに「火炎瓶で敵自走砲を撃破した」というハナシをでっちあげて米軍からも勲章をせしめたことがある。
これが韓国陸軍の黒歴史とも言えるシムイル少佐伝説ですね。
韓国の教科書にも登場する(2014年頃までは登場していた)彼の活躍によってキタ朝鮮軍の攻撃が2日ほど停滞し韓国軍の撤退に大きな役割を果たした云々ともあるが、国家報勲処によるところの「韓国戦争の英雄①シムイル少佐伝説」に登場していた記述が削除されて現在では見当たらないことや当時の連隊長らの証言などから彼の活躍はどうみてもウソであることが間違いない事実のようだ
(キタ朝鮮軍の攻撃が2日ほど停滞したのはソウル入城のタイミングを合わせた説や停戦交渉を持ちかけてその返事を待っていたなどの説がある)



国防部軍事編纂研究所:1970年代になって提議された超時空戦記物をおもに編纂している。白頭山艦(PC-701)の朝鮮海峡海戦や空軍10人のP-51空輸などの創作戦記物を得意としている


空軍の記念日ってちょっと前までは

空軍も同じ頃にやらかしている、あの「ムスタング空輸」という与太話がそれである。
6月27日李承晩はマッカーサーに「ムスタング機の供与」をお願いしたことある。これはどうやら事実のようだが、韓国空軍の精鋭パイロット10人が、その機体を福岡板付空港まで取りに行って半島に帰り着くやすぐに爆装し、機銃弾を全弾装備して3.5インチロケット弾まででくくりつけてキタ朝鮮軍の機甲部隊を攻撃し編隊の指揮官だった●中佐は敵弾を受けると地上にある敵戦車に体当たりして散華した、それを記念して空軍の創設記念日となっている >>> ひとつも事実でないことだけが事実なんですけどね。


当時は在韓米軍も縮小されていて、F-80シューティングスターのようなジェット機朝鮮半島に無かったわけで、遠慮がちに 「F-51ムスタング機でも持ってくればキタのやつらに云々」という李承晩大統領の言葉まで創作したのですね。

そういうわけで、韓国空軍のパイロットで戦争序盤に明確に死亡したのは部隊の指揮官だった某中佐(死後昇進)ただ一人だけなのです しかも地上滑走中に機体が転覆して死んだ韓国人パイロットがどうやらその人みたいで  つまり嘘っぱちなんですね。

この地上転覆事故死はアメリカ側にも記録があるわけですが”トレーニング中に事故死”ということなんです。これはアメリカの資料にすぐ出てきます。そうなるとウソも苦しくなってきますよね。そこで空軍では次のウソをひねり出しました。




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▲戦争記念館にある絵、後年の創作である。

韓国空軍には練習機があった。

駐留していたアメリカ軍の規模が縮小されていたころ置いていった飛行機がありました。L-4とかL-5っていう連絡機ですね。操縦課程なら同乗飛行訓練のあとに16歳の少年が単独飛行するような小さな機体です。
だけどね、ほら連絡機ですから複操縦装置が無いんですよ、これは飛行経験者の単独飛行練習用か本来の目的である連絡にしか使えませんね。
そういうわけで韓国空軍では練習機としてT-6テキサン(カナダから貰った)を手に入れました。これはずらりと並んだお写真がよく知られています。これが開戦の1ヶ月前のことでした

T-6テキサンは中間練習機ですから操縦桿を握ったことがあるひとが高等訓練に使うものです。 それってつまり初等練習機が無いってことなんですね。
※ニホンでは3式練習機~93式中等練習機(赤とんぼ)~旧式となった実用機(あるいは2式陸中練)~現用機というふうになっている。単独飛行は10時間目くらいで30分の同乗飛行を20回くらい飛ぶと単独飛行となる
L-4とかL-5っていう連絡機は初等練習機に成り得ないのかというと、複操縦装置が付いてませんから練習機には使えません。飛行経験者のお遊び用ですね。


1961.10.1の新聞

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檀記83年(1950年)5月14日カナダから余剰だった建国機(T-6テキサン)10台が輸入され命名されたとある ※テキサンの性能は97式戦闘機にあらゆるシーンで劣るくらい


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▲1950年4月の東亜日報紙面に練習機がやってきた記事がある

ハナシを戻しますが、複座の連絡機と練習機が開戦当時に韓国空軍にあったわけです。
そんな飛行機に自在に乗れるパイロットは旧日本陸軍”元加藤隼戦闘隊”とかの経験者がいたわけです。(朝鮮籍のが数人いる)

ニホンの航空隊経験者であれば戦闘機や爆撃機パイロットじゃなくても偵察や機銃係りが”操縦適性でふるいわけられる”前に単独飛行程度の飛行訓練はしているわけで、そうなれば5年ぶりでも観測機くらいは飛ばせるという”自称飛行士”というひとが結構いたわけです。うっかりすると整備のひとにも少年飛行兵経験者がいたりする


本当は韓国軍はわれ先に逃げちゃってるんですが、キタ朝鮮の地上部隊はどんどんやってきますよね。爆撃機はもちろん機銃を積んだ戦闘機も無い韓国空軍ですが、なんと、『迫撃砲弾を加工して爆弾を作り雨あられと敵機甲部隊に・・・・』
ええ、お手製爆弾の登場という主張なのです。初出は1965年の朴正煕監修の超時空戦記(国防部発表)に出てくる手持ちの練習機の登場ですね。これは加山雄三主演の『青島要塞攻撃命令(1964)』のパクリなんですけどね


ムスタングの10人(空輸したのはアメリカ軍なのに)

ムスタングを空輸したらすぐに作戦出撃ニダ? 整備をするひとや航空燃料はどうするの?  これわねムスタング空輸説のどうしようもないところなんですよ。

7月末の大邱飛行場にムスタングは到着するんですが、そのときに地上支援の整備士や燃料も一緒に大所帯で移動しています。その基地もまもなくキタ朝鮮軍に占領されちゃって済州島の飛行場まで後退するんですよね。
ええ、もちろん韓国軍には関係ないし朝鮮半島ムスタングを空輸したのはアメリカ人のDuane“Bud” Biteman中尉の指揮するアメリカ人10人ですよ。




その後、韓国空軍の精鋭は済州島で飛行訓練をうけて戦争の終盤になると地上攻撃に参加することになります。
(1952~3年ころにアメリカから少数の初等練習機が運ばれてきたらしい、それでも済州島基地で初等練習機から飛行訓練を受けた韓国人パイロットは40人にも満たない)

韓国型思考のここが変④
ムスタングと韓国人パイロットさえあれば、飛行場も整備士も爆弾も燃料も機銃弾も寝る時間も無くても 居所のわからない移動中の敵軍の戦車部隊をたちどころに殲滅できるらしい       しかも戦果のスコアは自己申告という都合の良さ

戦争がはじまるとすぐにアメリカ軍はB-26インベーダー(マローダーじゃない)をニホンから飛ばします。これはニホンに帰ってくれば基地があるから全弾装備で飛べるんですけどね
それでも攻撃目標は「なんとなくあの辺を南下してくる敵軍」なんていう頼りないハナシだったりするんですよ。 

関連過去カキコ:韓国空軍のここがスゴイ



1895年の下関条約で中国の属国から解放された朝鮮ですが、大韓帝国になり僅かばかりあった旧式軍隊(ニホンから幕末の官軍の武器を買ったもの)も1907年には完全に武装解除されて、ニホン領朝鮮(1910~)だったころには兵役の義務から完全に隔絶されてきたのが半島人の現実だったわけです、
いっぽうのニホン軍は完全に内地のつもりでニホンの兵隊さんの陸路での経由地として朝鮮を見ていたかもしれません。
その後も空襲は無かったし(四川省から九州を爆撃しに来たB-29が爆弾を落としたりしない)

韓国軍は1950年4月に建国以来初となる徴兵制の実施を予告したわけですが、増える兵隊に食べさせるだけの食料が用意できないことや、兵舎が無いことなどを理由に掛け声ばかりの"徴兵検査"だけで終わったと記録されています。(韓国軍の定員数である10万人はアメリカ軍政期に軍予算をアメリカが負担することで調整されたもの)


いち早く徴兵制を敷き、軍部隊を組織したキタ朝鮮

もちろん韓国軍は軍装備の近代化を目論んでいたわけですが、当時の韓国の混乱した状況の中では国防予算などは国会内の対立から不成立という有様であり、38度線付近に配置された最前線の師団でさえも民間人のやっている南北交易の許認可での利権の取り合いをするなど、国境の警備というよりも南北交易の掠りでようやく自活していたというのが現実でした。

執権3年目の李承晩にすれば開戦の直前に告示された国内選挙での与党議席数の過半数獲得だけが目下の最大の重大事案であり、未曾有の食糧難やお役人の不正などから「こんなはずじゃなかった」という国民の目をそらすためにも何かドンパチが始まることを期待していた様子さえ伺えるほどの手薄な国境付近だったのですね。

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1961.10.1東亜日報まとめ



そして韓国の海兵隊ですがこちらもデタラメな主張をしています。


ソウル奪還に韓国海兵隊は参戦していない

とんでもない韓国軍、ソウル奪還 国旗掲揚もウソ
総督府の建物を慌てて壊さなきゃならない理由があった


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▲9月15日の仁川上陸作戦がありソウル奪還のお手柄として ”9月28日に中央政庁(旧総督府)に韓国軍海兵隊員が旗を上げているところ” と紹介されがちな写真。ところがこの写真は1950年9月の撮影では無いのです。
※韓国では教科書にもこの写真が登場するそうです
※※政府は1959年9月27日、中央庁でパクチョンモに太極旗の掲揚を再現させて写真に収めた。


実は仁川上陸作戦に韓国軍は参加していないし。もちろんソウル奪還というお手柄も国連軍によるものでした。 なにしろ極秘作戦ですよ 韓国軍が上陸したのは9月29日というハナシもあります。

以下、何枚かのお写真を見てみましょう。


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▲真ん中の丸天井のとんがりのところが少し焼けています
中も燃えたみたいで窓から煤けていますね。


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同じ頃に撮影されたソウル奪還後の中央政庁、国旗掲揚台には国連旗が掛かっています。撮影日1950年9月29日






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という、この国連旗をあげたのはもちろん国連軍でした、ちなみに国旗掲揚台はこの1つしかありません。 こちらも窓が煤けてますよね。 これも撮影の日付が分かっています。1950年9月28日 


 
 
そいじゃぁ2枚並べて見てみましょう

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見るからに焼け方が違いますね。同じ頃に撮影されたようには見えませんよね、もちろんこのトンガリ尖塔は真ん中にひとつあるだけですから同じものを写してるはずですよ。

ということで、まず撮影時期が違います、韓国海兵隊の掲揚式は総督府の建物がお化粧直ししてから撮影されたものでしょう。つまり韓国海兵隊のお写真はニセモノってことなのです。


イメージ 7じつはこの国旗掲揚は韓国の海兵隊がお手柄を自慢するために時々再現していることなのです。そんなお手柄自慢ですが、しばらく行われなかった時期があります。
 
▶掲揚再現シーン各種アリマス(もちろん戦後の撮影だけどね)

朴正煕大統領の時代になりますが、海兵隊の横暴が目に余るとなんと1973年に韓国海兵隊は解散させられてしまうのです。なぜかというと、つまり海兵隊が調子に乗って ”ソウル奪還は海兵隊の単独戦功” みたいなことを宣伝したりやらかしたからですね。
アメリカではソウル奪還はアメリ海兵隊のお手柄となっている
※※仁川上陸作戦再現式典には最近になり韓国海兵隊が参加するようになった

そうなってくると諸外国の記録にある歴史的事象との齟齬で空想戦記もバレバレですよね。そういうわけで、超時空韓国軍の活躍はこの時代に収斂されることになったのです。その結果、戦時統制権を国連軍に渡すまでの約20日間(1950年6月25日~7月14日)ばかりだけに韓国軍の超時空戦果が存在するという奇妙な状態となっています。
白頭山艦の大韓海峡海戦、韓国空軍のムスタング空輸、某対戦車砲部隊の活躍 他


海兵隊部隊の解体は韓国軍の大活躍が戦史研究院などでつぎつぎと捏造された頃と一致します。おなじみのペク将軍なんかは口封じの意味もあって外国に追いやられていた頃です。(大使とかね)

何でか? そりゃもう李舜臣将軍以来の空想戦記がすっかり身に染み付いているからですよ。もう教科書にも載ってるという歴史的事実にまでなっているのです。




韓国人は日めくりカレンダーをめくるように嘘をつくのです みなQⒸ




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ん まぁね




追伸:2012年から使ってなかったパナソニックLet'sNote CF-T4っていうのが使えることがわかったのですが、でも古いXPですから最新のグーグルをサポートしてなくて Yahooにログインできなかったりして ネットが繋がらなかったのです。 こうなったら意地でも新しいのなんか買うもんかっ  ふふっ