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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

ニホンの陸軍士官学校、1945年3月入校





”空軍創設の主役”トーマス·チョン前空軍参謀総長死去

いくらなんでもニホンの陸軍士官学校に1945年3月入校って遅すぎ
それなのに経歴には陸軍航空士官学校卒業”だって 繰り上げ?


イメージ 1イメージ 2[国防ミーナ]第9代大韓民国空軍参謀総長を過ごし、駐エチオピア、フィリピン、デンマーク大使と第10代国会議員を務めたトーマス·チョン(張志良)予備役中将が2015年2月2日(陰12月14日)午前9時06分老衰で死亡した。享年91歳。

1924年全羅南道羅州で出生したチョン前総長は光州西中を出て陸軍航空士官学校60期(日本陸士60期)を修了した後、解放後の1948年韓国の陸軍士官学校を5期卒業した。
同年国防警備隊に勤務し、空軍力の必要性を削減し、航空基地司令部に身を入れた翌年10月、空軍創設メンバーとなった。

張 志良(チャン・リンシャン、장지량、1924年12月15日-)は大韓民国の軍人、外交官。創氏改名時の日本名は張本昇男。
1924年12月、全羅南道羅州で生まれる。陸軍士官学校60期生として在学中に終戦。 
陸軍士官学校60期:1945年3月27日入校 3004名 うち1499名が1月28日予科士官学校卒業前に一次生としてすでに派遣 他に満州国陸軍軍官学校候補生6期30名、1945年6月18日伍長に進級1945年8月終戦により復員
※階級が伍長ですから厳密には士官ではありません

 
チョン元総長は6.25戦争で直接戦闘機を操ったり、指揮官として洛東江防衛戦、北朝鮮平壌(ピョンヤン)ミリム飛行場占領作戦など、大小の戦闘に参加した。 慶尚南道泗川(キョンサンナムド・サチョン)にある戦闘飛行団作戦参謀として在職していた1951年7月の金永煥(キム・ヨンファン)当時、飛行小隊長を補佐して進行した智異山、武装共産軍討伐作戦で、慶尚南道陜川海印寺爆撃を中断させて八万大蔵経を守り抜いた。
※この部分かなり創作が含まれています、海印寺の爆撃命令はありましたが
実際には爆撃はありませんでした、空軍の”超時空活躍戦記”で確認されますが海印寺を守ったのが誰だったのかさえ韓国では混乱しています(キムヨンファン説とチャンリンシャン説がある)。
チョン元総長は「キム·ヨンファン前大佐(当時は少佐)に武装共産軍が隠れている海印寺を直接爆撃せず武装共産軍が移動したとき、攻撃することを提案した」と自伝を介して明らかにした。
キムヨンファンは1954年に事故死しているためチャン元空軍総長が回顧録で嘘を言っていると見る意見もあります
1951年には第10戦闘飛行団所属のF-51機が敵の対空砲に露出して人命の損失が発生すると緊急脱出した生存操縦士を迅速に救出するために赤いマフラーを身に着けるよう提案して「赤いマフラー」の由来となった。

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1952年からは、最前方の江陵戦闘飛行団を指揮しており、1953年2月東海岸351高地トンネルの破壊作戦で近接航空支援爆撃を成功的に遂行し、米国ブロンズスター勲章(1957年に、駐米大使館にいたときに”韓国軍人出身者”として受賞)を受けた。続いて1953年7月の休戦直前まで最大回数の出撃を導くこともした。  戦争の後、1954年から駐米大使館空軍関係を務めており、韓米軍事協力を通じた空軍戦力強化に努力し1959年空軍准将に進級した。  5.16直後には、朴正煕大統領との縁で軍人身分を維持したままの大韓重石社長に赴任して赤字にあえいでいた会社を黒字に転換させた。

1966年空軍中将に進級して2年間空軍参謀総長を務めた。 除隊後、1969年にエチオピア大使に任命された。駐エチオピア大使を務め時、セラシエ皇帝と密接な関係を結んで1972年エチオピアが韓国の国連への加盟賛成票を投げる大きな役割を果たした。(韓国の国連加盟は1991年)
任期を終えた後、1973年にフィリピン駐在大使に席を移し、76年まで大使職を遂行し、デンマークに、任地を移して78年に帰国した。 デンマーク大使を終える頃、維新政友会議員に指名され、第10代国会議員として議政活動に取組んだ。
1979年には大韓体育会副会長として、懐疑論が広がっていたソウルオリンピック誘致申請を主導した。1995年から社団法人韓国の軍事学会の会長を務め、97年から2年間予備役将軍の集まりである星友会の5代会長を歴任した。 チョン元総長の遺族には張大煥(チャン・デファン)毎経(メギョン)メディアグループ会長など3男2女がいる。(この記事は毎日経済のものです)
遺体安置所は、ソウル峨山病院の葬儀場20号室。出棺2月4日午前7時30分。
告別式は4日午前7時ソウル峨山病院1階の告別式場で、空軍葬で執り行われ、ソウル銅雀洞の国立ソウル顕忠院に安置されている。



(翻訳:みそっち)



ここのところ季節の変わり目で韓国空軍の香ばしい将軍たちが相次いで死んでるんですよ、先月4日にも



大韓民国”空軍の伝説”張盛煥前参謀総長、4日死去

ムスタングを空輸したなどと一言も言わなかった空軍参謀総長
ニホンでは爆撃機の訓練基地出身、朝鮮戦争時には輸送隊なのに


イメージ 4[ミリタリーミーナ]大韓民国空軍の”生きている伝説”であり、第7代空軍参謀総長を務めた張盛煥予備役中将が4日午後死亡した。享年95歳。
韓国戦争当時のF-51マスタングを運転し、最初に出撃していたパイロット10人のうちの一人です。 当時出撃したパイロットのうち生存者はミスターチョン元総長(上記のひと)とキム·シン白凡·金九先生記念社会協会長だけになりました。

張盛煥(チャン・ソンファン、장성환)1920年、ソウルに生まれる。
1941年、早稲田大学商学部卒業。1942年、岐阜陸軍飛行学校卒業。
なるほど、こっちはちゃんと卒業してそうですね、早稲田大学を出たら士官学校に入れませんから幹部候補生だったんでしょうか、軍歴や最終階級はよくわかりません。

1920年10月にソウルで生まれた故人は、1948年空軍学士士官候補生2期任官しており、空軍第1の訓練飛行団長、空軍本部作戦参謀部長、空軍大学校長、空軍参謀次長、空軍参謀総長を務めた。

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中央の黒メガネのひと▲


故人は、6·25戦争当時、故イグンソク大佐、故キム·ヨンファン中佐などと一緒に、F-51ムスタング(Mustang)の戦闘機を日本であるイタツケ基地から買収してきた10人のうち一人だった。当時、米国側が提案したF-51戦闘機の引き取りのパイロット選抜条件は、「訓練がなくても戦闘機に乗ることができるパイロット」だった。(板付基地は現福岡空港
故人は、1500時間以上の飛行と日本での様々な飛行機に乗ったキャリアを認められ選ばれた。 

板付基地からムスタング10機を空輸したのは韓国人じゃないよ
At the outbreak of hostilities in Korea, South Korea’s President Syngman Rhee had asked President Truman for an immediate show of airpower by the South Koreans to discourage the North Korean troops, Lt. Col. (then 1st Lt.) Duane “Bud” Biteman explained.The “Bout One” Mustangs were ferried to Taegu by members of the 35th Fighter Group.
ムスタング大邱まで空輸したのは第35戦闘隊のメンバー)


北朝鮮軍が破竹の勢いで押し降りてくる状況にすべての希望が空軍の活動に集中していたため、当時のF-51戦闘機引き取りの任務は非常に重要だった。故人を含む10人のパイロットは気象状況のためにしっかりとした訓練も受けることもできないまま、1950年7月2日、30分程度の飛行訓練だけ受けて、F-51戦闘機を買収してきた。



(翻訳:2ちゃん番長)


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たぶんね、記事を書いた記者さんが生まれるよりもずっと
前からムスタングの空輸なんていう与太話があったんだょ





ムスタング関連の過去カキコ






韓国軍でムスタングを飛ばしてみたのは運んできた直後にちょっとだけ、そのときに韓国空軍の隊長が墜落死してるのね、ところがなぜか”キタ朝鮮の車両部隊を銃撃中に墜落”したことになっているの。

当時の米パイロットの記憶では”ムスタング”を扱えない韓国人
At first, the Korean pilots were allowed to fly missions together with their American pilot colleagues.However, with the crash and death of the ROK commander, it was apparent that their long absence from the cockpits of the heavy, “tricky” F-51s required that the American pilots fly all the missions.
(韓国空軍の司令官が墜落死)
Soon enough, the “Bout One” pilots just left the Korean pilots on the ground at Taegu to refuel and re-arm the airplanes, and started flying the combat missions themselves,” Biteman said.(大邱で給油して自分で戦闘任務にもどった)
On that Monday, July 3rd, General Stratemeyer (FEAF) directed the 13th AF at Clark AFB in the Philippines to create another squadron of F-51s from the most qualified personnel of the 18th FBG.The new “Dallas Squadron” was soon headed to Johnson Air Base in Japan to be equipped with Mustangs.
(7月3日クラーク基地から飛行可能なパイロットを集めてきた)

その後は、停戦のころまでに済州島で飛行訓練をしていたんだけど、なぜかキタ朝鮮まで爆撃に行ったり、こうした主張は1960年代に捏造され始めて1980年代には戦史に書かれるようになって最近ではムスタングを空輸したのは韓国人”ってことになっているの

たとえば”加藤隼戦闘隊”出身のがいるんだけど彼はビルマで墜落して捕虜で復員しているのね、熊谷飛行学校の卒業年度がいい加減だったり大刀洗と鹿屋の基地で勤務していたっていうひともいるよ(鹿屋が海軍基地でした。)





次回:ポーランド軍出身の韓国軍将校のハナシ