映画"赤いマフラー"を笑う
ものすごく活躍した韓国空軍のこと
[ミリタリーミーナ] 朝鮮戦争のとき"韓国空軍"がF-86セイバーで大活躍したのだということを真実だと思っている韓国人は数知れない。それどころかほとんどの韓国人は朝鮮戦争のときF-86セイバーに乗って韓国空軍が大活躍したのだと言ってはばからないのが現実だ。
なにしろ"戦争博物館"に展示されているF-86セイバーの解説版には"朝鮮戦争で活躍した国軍機"とまで書いてある、とにかく逃げ回り物資を隠匿してきた韓国軍の歴史を塗り替えようとしている韓国の闇の歴史だ ※国軍機とは国連軍機のこと
なぜ彼らはそうまでして"韓国空軍"大活躍を信じて疑わないのだろうか。
1949年10月
▲1949年10月、空軍は韓国史上初めての別の軍に独立した、戦闘機導入とあるのは"いずれ戦闘機も買う"という希望的観測が文字化したものである。
最初の飛行機は飛行訓練に使えない連絡機
当時の韓国政府は、米国の軍事顧問団の戦力増強の要求をしたらしい、顧問団長·ロバーツ(William L. Roberts)准将もこれに同意し40機のF-51戦闘機をはじめ、いくつかの機器を支援することを本国に要請した。 しかし、国軍の治安維持程度に必要な存在であると認識していた米国政府は、このような要求が過度だとサポートを拒否した。
△韓国空軍が戦闘機を装備したのは停戦交渉の始まった1952年のこと
※P-51ムスタングは1948年に、アメリカ空軍(USAF)全体にわたる命名規則一新計画によって、制式名P-51(P: Pursuit aircraft、追撃機を表す)から、F-51(F: Fighter、戦闘機を表す)へと名前が変更されました。
▲キタ朝鮮軍の地上部隊を"爆撃"して被弾したとされる韓国空軍のマークをつけたL-5センチネルの貴重な写真、実はこれは戦争初期に飛行場に放置された韓国空軍機の写真である。この写真は戦後になって公開された。
※L-4グラスポッパーのほうはもっと軽飛行機っぽい外観らしい。
1950年5月
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▲ 韓国戦争勃発40日前1950年5月14日には念願の練習機が10機ほど運ばれてきた 複操縦装置を装備した練習機の導入によって飛行訓練がやっと開始されることになった。 しかしこの直後1機が着陸に失敗して失われている。
※写真は休戦後に撮影されたもの、しかも稚拙な合成写真である。
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大韓民国空軍が10機のノースアメリカンT-6練習機をカナダから導入して汝矣飛行場で盛大な命名式をしたが、これは単なる飛行機の導入イベントではなく、最初から全国民の期待と願望を込めていた感激の出来事だったのだ。
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※T-6練習機テキサンのこと、この飛行機の代金は募金で賄われたとされてきたが韓国では出所不明の支出は募金で賄われたとすることが多い (実際には無償援助+実費請求)しかも航空燃料が買えなくて駐留米軍が残していった燃料廠を国が買い戻している。
活躍した記事は見つかりません
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2001年、パク予備役空軍准将とのインタビュー
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▲先生は韓国戦争のとき最初の戦闘機パイロットに選ばれたのですね
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△わたしは2期生でした
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▲当時の状況をお聞かせください
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△わたしが空軍に入ることになったキッカケは戦闘機の整備をしていた経験があったからです、やがて日本空軍は敗戦をむかえ私も故国に帰ってきたのです。
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▲日本では当時何をしていましたか?
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(太刀洗は陸軍・知覧は海軍の基地なので両方はありえないことね)
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▲韓国戦争のときのことをお聞かせください
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△あれは49年ですから戦争の一年前です、空軍が作られるというのであわてて書類を作り応募したのです、当時は国中が混乱していましてね、それで空軍に志願したのです。
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▲最初の勤務地は?
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△汝矣飛行場でした、当時は空軍と言っても出来たてでしたから練習機がやってくると飛行隊開隊式が開かれたりしました、その後、戦争がはじまると我々は飛行場のある大邱、大田へと退却しながら南下していったのです。
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▲戦闘機に初めて乗ったのはどこででしたか
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▲当時の先任者にはどのようなひとがいましたか
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△チェ大尉やキム大尉がいました、私は中尉でした、みんなで飛行訓練をしたのです、 みんな亡くなりました
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▲それでは最初の戦闘のことをお聞かせください、大田の戦いでは大活躍されたそうですが
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△当時までに韓国軍にはおよそ60機の飛行機があり訓練をしていました、しかしその頃にはもう休戦が決まっていましたから、あまり、 その後は空軍処長として長く南稜空軍基地で指揮を取りました。
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(翻訳:ネトミナ)
1950年7月に韓国空軍が受領した10機のP-51ムスタングは海を越え大邱にあった空軍基地に移送されたという、(ニホンの板付飛行場、朝鮮戦争開戦時は爆撃機の専用飛行場であり、戦闘機は基地には置いていなかった) さらに当時大邱にあった飛行場は米軍機の臨時着陸場として使われていたため韓国空軍が使用した形跡はない、韓国空軍への航空機供与に尽力したというディーンヘス大佐の証言にも多くの疑問点がある。開戦初期にムスタング戦闘機10機が韓国空軍で運用されたことを証明する米軍側の記録は全くない。(米軍側の記録では戦後のことになっている)
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開戦から軍の指揮権が米軍に移譲されるまでの僅か20日間だけしか活躍した記録を捏造できる期間が無いための韓国陸・海・空軍部隊の大活躍、"大韓海峡白頭山艦の撃沈戦果6.24"や"飛行時間30分説"~"韓国空軍機大韓海峡を渡る説"~"開戦劈頭、傀儡軍へ痛爆7.2"といった妄想説に"韓国戦争の英雄"が大量に量産されるのは1960年代になってからのことだという。
1964年
赤いマフラーは、 1964年に製作された戦争映画でシン·サンオク監督がメガホンを取ってシン·ヨンギュン 、 チェムリョン 、 ユンインジャなど当代最高の俳優たちが出演した。朝鮮戦争当時、韓国空軍史に唯一の203回出撃記録を立てて、 スンホリ鉄橋爆破作戦をはじめ数々の戦闘に参加して名を馳せたパイロットがすぐに集めゴン一般的に彼を実際のモデルで元老作家故ハンウンサが脚本を書いた作品である。
この映画は当時、韓国軍の全面的な支援を受けて作られましたが、バルジ大戦闘でドイツタイガー戦車にM48があるように、どうしようもない考証エラーが多い。
韓国戦争当時、空軍はP-51ムスタングを使ったが、映画では、 F-86に乗って通うか、爆撃される人民軍の戦車と対空砲がどう見てもM47とM45とかのように。のに、逆にこのような部分は、1960年代当時、韓国空軍のF-86運用状況をうかがうことができる。
この映画はYoutubeでも見ることができる、時代背景は朝鮮戦争の真っ最中とのことで、1960年になって韓国空軍全面協力の下 F-86セイバー戦闘機が撮影に使われた、 これは朝鮮戦争の当時韓国空軍がP-51戦闘機を10機所有していたとする小説を題材にして飛行機がP-51からF-86へと脳内進化した結果である。
※休戦の調印には戦争に参加したすべての国が出席しているが戦争に参加しなかった"韓国代表"の姿は無かったりする。
▲国防記念館には韓国空軍が橋梁爆撃をした史実をしめす絵画が展示されている
しかし、映画の題材となった黒竜江の橋梁の爆撃も国連軍の爆撃によって破壊されたことは戦史に残っている。 活躍した韓国空軍など存在しないのだ。
※これについてもどこか別の橋の破壊をしたのだという主張が表われている
▲韓国空軍史では欠かすことの出来ないP-51戦闘機の編隊飛行を捉えた秀逸な写真 これも合成写真である。 引き込まない尾輪に注目
開戦直後の6月27日、韓国空軍は、米極東空軍の協力でパイロット10人を選抜し、日本の駐留米空軍基地からわずか数日間の訓練を受けて、F-51戦闘機10機を取得し、大邱基地に帰還した時から韓国空軍も戦闘機を運用することになり7月3日から韓米空軍の統合作戦が開始された......
※小型機が編隊を組んで飛行するためには先導機が必要なはずだという疑問が出されると韓国の知識人の間から"編隊はC-47輸送機の先導で飛行し..."という主張が出てきたことがある。 しかしこのように巡航速度が倍も違う飛行機が同時に編隊を組んで飛ぶということは考えられない、このような韓国人の与太話には事欠かない。
※B-29でさえP-51の護衛機とは時間差で離陸するほどの巡航速度の違いがある。
▲戦時中、戦線の後方では変な国籍マークをつけた飛行機が存在した、しかしこのパイロットは韓国人ではない、 しかもこの機体は韓国空軍のものではない、あるいはアメリカ人パイロットの手で空輸されたムスタングかもしれない。
▲10人の韓国人パイロットとアメリカ人教官の記念写真だといわれているが、どこでいつ撮影されたのか分からない。しかも10人そろった空軍士官のように見えるがニホンにムスタング受領に行ったとされる10人の人物では無いことが確認されている
※韓国空軍の機体にお絵かきしないでしょ。
▲朝鮮戦争には大戦を経験したアメリカのパイロットが数多く参戦している、機体につけたパーソナルコードは同じものを使い続けるのが通例だ。これはインベンションマークをつけた大戦中の同型機 ※デザートラットとはカンガルーのこと
くやしいのぉ