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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

国俗未開の韓人がやって来た 紳士遊覧団

 
 
ニホンが岩倉使節団を海外派遣した10年後
開国した朝鮮は朝士視察団(紳士遊覧団)を編成してニホンを見聞する
しかし用意した宿舎から逃げ出した朝鮮の使節団  そのホントの理由 
 
 
イメージ 1[日曜ミーナ]岩倉使節団からおよそ10年後の明治14年のこと、およそ60人からなる朝鮮の視察団はニホンの定期蒸気船で釜山から対馬~長崎を経由して神戸に入り横浜に到着すると汽車に乗り換え東京に到着した。東京での彼らの宿舎は当時、芝公園内にあった海軍宿舎が使われたという。
これが1881年のことである。その5年前の1876年に朝鮮が明治新政府と近代条約を結んだばかりで、この日朝修好条規を結ぶとその返礼使がこの前年とその前に条約締結返礼の使節がやってきたことがある。 ※テロリストの安重根は1879年生まれ
 
朝鮮という国の存在は神功皇后三韓征伐やヒデヨシの太閤記加藤清正の虎退治などでよく知られていたが、その実情は徳川将軍の代替わりに使節がやって来たくらいで、奇怪な文化習俗の国というのが一般的な認識であったようだ。朝鮮アサガオやチョウセンブナ、チョウセンバカマなどのように食用に適さない品質の悪い物を示す枕詞として広く残されている。
彼らは200年間に11回ほどやってきたが、朝鮮通信使が最後に江戸までやって来たのは大政奉還より100年以上も前の宝暦年間のことだった。
※そのあとは対馬で引き返しているので江戸に最後にやってきたのは1764年のこと
 
江戸時代に庶民の間で普及していたかわら版などで残された莫大な資料を見ると朝鮮人がやってくるのは迷惑でしかなかったという。
21世紀になっても地方の自治体などが韓流ブームを受けて、朝鮮通信使を再現したりしながら批判を受けていることはご存じだろう。せっかくならば史実に忠実な行列を再現すればよいが、韓流ドラマに出てくるような仮装大会風のきらびやかな衣装などには辟易するしかない。
 
時代が明治になってもやはり朝鮮人と言えば、物珍しい身なりをした奇行をする連中という印象があったようで、文化文明の劣る途上国のことは明治当時の主だった新聞社が連日のように彼らの見物先や訪問先を細かく伝えている。
 
 
わずか5日で宿舎から退散したその理由とは
 
さて、兵舎や造幣局に銀行から税関まで盛んに各所を見学した朝鮮の視察団だったが、わずか5日でニホン側が用意した宿舎から出てしまった。彼らの行き先はすぐ近くの旅館である。
 
旅費に当たる交通費は全額を当時の外務省が負担していたし、海軍宿舎での食事も晩餐会とまでは行かないが、十分なものが用意されたというから旅費や食事に困った訳では無さそうだ。
※朝鮮使節団の両班にはお金という概念が無かった、汽車の改札に並ぶということが理解できなかったという。それでも相応な官費として金貨などを持ち込んできている。
 
旅館に宿を移してからも彼らはいろいろなところを訪問しているのが記事になっているので隠れたくて宿を変えたわけでもない。
 
では、なぜ彼らは外務省が用意した海軍宿舎を引き払ったのだろうか。その理由は簡単だったのだ。それは毎朝やってくる便意だった。
彼らはどこにでも糞をする生活習慣を持っていたのだが、いざニホンに来てみると誰もが便所というところで用を足すことに衝撃を受けたことが彼らの残した記録の中にも出てくる。
生活習慣とは容易に変えられるものではない。しかしいざ知らなかったとは言え、外務省が用意した外賓専用の宿泊施設を毎日糞便で汚したことに彼らが赤面したことは言うまでもないだろう。
 
彼らの世話を命じられた宿舎の雇員が毎朝の道糞を通詞(通訳)に告げ口したことが彼らをいたたまれなくしたのだ。朝鮮人の大便には白いのがにょろにょろしていたという
 
朝鮮の近代化の中で劣悪なトイレ問題は伝統住宅で最も悩みの種であった。1896年、独立新聞に「道ばたの家の窓の外に汚物とおしっこと水を捨てられないようにして、おとなと子供が道端で大小便をしないようにして…」と書くほどであった。

1934年、朝鮮総督府は便所との戦争を宣言する。「朝鮮市街地計画令」で「居住用建物敷地内にお手洗いを設置すること」と釘をさしたのだ。
 
朝鮮に住む彼らは朝鮮総督府が業を煮やすまでさらに数十年もの間、トイレ、便所、厠、とは無縁の生活をしていたのである。
 
道端に垂れ流すのは貧しい庶民ばかりというわけではない、朝鮮時代の宮殿には便所くらいあっただろうと考えがちだが、実は手水場 トイレ、便所、厠、雪隠、はばかり、御不浄などの遺構がまったく見つかっていない。庶民も国のエリートも誰もが道端や軒先で力むのが朝鮮文化なのである。
 
あるいはおまるに出して、それを道に捨てたのである。だから総督府は朝鮮をきれいにしようと朝鮮人トイレの習慣を真っ先に躾けたのである。
 
 
 
江戸時代にも朝鮮人嫌悪感情はあった
 
朝鮮人みたいになっちゃうよ」と言われればたいていの人が立腹するだろう。実際にそのひとことで暴力事件が起きるくらいだから、ニホン人の朝鮮人嫌いは相当なものである。実はこの朝鮮人蔑視のような感情が江戸時代以前からあったことが最近の研究でも明らかになってきている。今のニホン人には馴染みのない彼らの生活習慣や商習慣といったものがどれほど奇異な目で見られていたのか驚くしかない
 
江戸時代の朝鮮通信使の宿泊事情は同じだったと知られている、しかし外国からやってくる幕府の賓客が「トイレも躾けられていない」とは当時の奥ゆかしいニホン人には記録すら出来かねることだったのだろう。
 
江戸時代の朝鮮通信使の経路にあたる本陣は一日も早く次の宿場に移ってもらうことを願うし、やがて彼らの宿所は宿場の本陣ではなく街道の寺社が使われるようになった。
街道も人の往来のある表街道ではなく裏街道を主に利用した。
理由はもちろん異文化を町民に見せないためだったことは言うまでもない。
 
ここでいう異文化とはどこにでも糞をするかれらの文化習慣のことである。
 
 
 
 
 
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ずずず~っ