minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

日曜ミーナ ハングルちゃん

 

ハングルで考えると韓国人になっちゃうよ

今週もハングルちゃんです

 

韓国料理と言えば残り物を煮たものを想像してください。えぇ テーブルの上に残っていたものを集めてじゃんじゃん石鍋に放り込んで煮込んじゃえばチゲの出来上がりです。昔の朝鮮・韓国では、すべての料理が並んだお膳の向こうにおとうさんが座ります。おとうさんはすべての料理に箸をつけて、食べ終わるまで家族たちは手出しせずにそれを見守っています。お父さんが食い飽きて、やがてメシもキムチもひとつの汁物椀にすべてが投入されるとようやく各自のスプーンを持った家族の食事がスタートするのです。

取捨  炊事  취사 (チェサ)

取捨:良いもの・必要なものを取ることと、悪いもの・不要なものを捨てること。用いることと用いないこと
炊事:食物の煮たきをすること。

 

食べ残しを選んで集めて調理するんですから同じ動作ですよ

 

먹고 마시는 식습관에 그려진 한국인의 자화상 | 연합뉴스

▲朝鮮時代の良く知られる写真です。これをみて「朝鮮人って大食いだったの?」なんて誤解するバカがいますが、これは彼の世帯に住む家族全員分の食事です。家族全員の分を1つの丸テーブルに集めて、家で一番偉い家長がすべてに匙を付けます。一度箸をつけたものを嫁や子どもたちなど家族に与えることで彼は家の中で一番偉いのだという優越感を持つことが出来ます。

こうした朝鮮の食事習慣は明治末年に朝鮮を訪問した加藤政之助というひとが紹介していました。食べ残しを家人や使用人に与える文化は儒教社会では手軽に上下関係を理解させる手段として行われてきたものです。

この特異な習慣は戦後しばらくまで韓国の田舎では日常的だったようです。こうした習慣を嫌って、韓国人はソウルを目指して新生活を選んだのでした。

 

韓国経営 加藤政之助より 食事

 

山盛りの料理は残るでしょ、どうするの?


山盛とせる料理は容易に食ひ盡すべきにあらず其残物は如何にする乎と問ひたるに、家人等再びツツキ合ひて之を食し其残餘を下僕に迥はすなりとの答なりき、日本にて佛事の際飯等を山盛として佛前に供するの風あるは蓋(けだ)し此習俗の入りたるものにあらざる

※山盛りで提供される料理を、客人と主人がまずつつき、家人が残りをつつき合ってこれを食し、残ったら下僕に遣わすっと。奴婢のいる社会ですから無駄なんかありません

 

외국인이 혐오하는 한국 식습관: 과연 그들의 과거는? | 1boon

▲やがて、大きな鍋に残ったものを放り込んで、ほかの家族全員でよく混ぜて食べるんです。家長が偉いところを見せるためにこういう食文化が発達しました。女性やこどもは後回しになります。特によそから来たお嫁さんは後回しにされます。1960年代になってもちょっと地方に行けばこうした食事習慣は一般的でした。
※ニホン統治時代を経て韓国の経済成長が始まると大家族制が消えてゆき、それぞれの家庭で食事をするようになったが、今でも食器の代わりにラーメンをなべぶたで直食べする食習慣が残っています。

 

実は韓国では今でもこうした習慣を守ろうという人たちがいるそうです。そういうお年寄りは口々に「ようやく自分の番が来たのだから文化や習慣を守ることが大切だ」とおっしゃいます。

しかし、こういう500年続いた朝鮮文化の習慣でも、実際に調理するのは女性陣だったことで、お父さんに食べさす前に先に美味しいものを食べちゃうことが多かったとも言われています。つまりお父さんこそ食べ残りを盛って並べて、あとはぐしゃぐしゃにして鬱憤を晴らすみたいなことですね。 ※今でも韓国の田舎のおばあちゃんは祭礼でも何でも料理のすべてを作って、一番最初につまみ喰いしちゃうのね。

 

 

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韓国人の海外留学好きはニホン統治初期の出稼ぎ労働から韓国の独立まで一方的かつ爆発的に増加した。朝鮮がまだあった頃はどうだったのだろうか? 

定義孔子とその弟子たちの教えである経典を研究する学問。 儒学・開設本来、孔子学徒の教学内容を意味することで、儒教·儒道·儒術のような言葉で使われ、時には儒教を勉強する人の意味でも使われ、儒家·儒門·儒林などと通用して使われることもある。

 

儒学  留学   유학 (ユハ ク)

 

変遷と現状

1. 伝統時代の海外留学

韓国民族(半島民族)は三国時代から近隣の中国をはじめ、遠くインドにまで留学に行ったことが分かる。最初の公式記録は『三国史記』の高句麗領流王5年(622)に出てくる渡唐留学生で、これが留学の嚆矢だ。このような記録ずっと以前にも近接国家間の頻繁な人的・物的交流がなされたことから見て、異国の文物を見聞いたり学習を導入しようとする、いわゆる留学に該当する事例も少なくなかっただろう。>>>>>このように韓国の歴史研究はニホンの歴史分野の例えば遣唐使などからの引用が習慣的に行われがちだ。

儒学者の伝記を収録した中国の歴史書は「史記」·「漢書」などのように「儒林伝」として載せたり、「旧唐書」·「元史」などのように「儒学伝」として載せたりして、二つの用語を同じ意味で使用している。中国では地方に建てた学校を「儒学」としたり、元の時代は地方に建てた学校の事務を担当する官庁を「儒學提擧司」と呼んだ。 このような事実から、留学は儒教の中でも学校ないし学問と関連した側面を指していたことが分かる。

朝鮮からの留学僧派遣は世宗大王が全廃した

ニホンが遣隋使や遣唐使を派遣していた頃の三国時代の高麗などはやはり学問の本場となっていた中国に学識を修めるための留学生を派遣していた。ニホンは遣唐使を最後にしたが朝鮮では応仁の乱のころまで続いていた。やがて世宗大王の時に中国が宋になるとようやく全廃されて以来400年余りの間、留学する朝鮮人は皆無となった。これは朝鮮が鎖国していたこともあって自由に海外に出かけることが出来なかった時代だったからである。しかし現代の研究者の中には、朝貢する貢物輸送団が留学を同じ海外情報を持ち帰る役目をしていたと主張するなど、あいまいなところもある。

朝鮮時代の最末期になると朝鮮は江華島条約によって開国し1881年に最初のニホンへの朝士団派遣が行われたが、それ以降の朝鮮の国費留学生はすべてニホンへ留学した。 

1882年には西洋技術を学ばせるために再び中国に学徒派遣が行われたが、滞在経費に対する送金遅延や壬午軍乱が発生したことで学習期間も半年程度で全員撤収した。

その後、ニホンとの接触が頻繁になるとニホン留学が急速に拡大していった。パク·ヨンヒョの『史話記略』には、壬午軍乱の後、政府からパク·ヨンヒョ(朴泳孝)ソ・グァンボム(徐光範)などをニホンに使節として送る時、学徒10人余りがこれらの修身使一行と同行したと記されており、キム·オクギュン(金玉均が2度目にニホンに渡る時、シン·ボンモ、ビョンス、パク·ユゴンなどを連れて行って慶応義塾に留学させた。以後、キム·オクギュンがニホンに捕鯨権を抵当に入れた資金として60人余りを送ったことをはじめ、ソン·ビョンヒがニホンに亡命する時、東学党の資金を持ち逃げして数十人の留学生を連れて行ったりもした。 また、政府側からも陸軍幼年学校・慶応義塾などに留学生を多く派遣した。このような留学生のうち、のちに反政府活動家になったソ·ジェピル(徐載弼)や、朝鮮貴族を返上したユ·ギルジュン(兪吉濬)らはニホン留学を経て欧米まで行った初期留学生となった。

    

1901年には 柔道を学ぶために8人の学生がニホンの講道館に留学したりもした。このようにニホンをはじめとする様々な国への留学が活発に推進される傾向があったが、1910年の国権喪失と共に欧米留学はほとんど凍結され、この頃から光復までニホン統治下での留学は朝鮮王族青年の陸軍士官学校入学などニホンへの留学ばかりになった。 日韓併合の1910年当時、ニホン留学生数は非公式集計であるが、2,000人内外だったと推算されている。不良鮮人らが就労目的でニホンへ大量渡航して問題になるのはこのすぐ後である。

 

結論

今世紀の韓国学生の海外留学は現実逃避と時間稼ぎのためにやってること。儒学儒学者儒学生らが論じる朝鮮の国教のようなもの。それをユハ クユハ クと繰り返していたら海外遠征留学と儒学の研究が同じようなものだったということになる。

 

 

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留学と儒学はハングルで一緒なんですよね 

 

【コラム】韓国史上最も低劣な外交論争

韓国は外交で死に、外交で生きる国
だから歴史的に外交論争が頻発
国を生かす論争も、殺す論争もある
だが、こんな質の悪さは本当に初めて見る

 

外交使節金弘集(キム・ホンジプ)によって日本から持ち込まれた外交指針書『朝鮮策略』を、儒生らは寄ってたかって攻撃した。「髪が逆立ち、胸がわななき、痛哭(つうこく)した」と言った。同書の中心的な内容は「中国ともっと近くなり、日本・米国と手を取り、朝鮮自ら強くなることでロシアを防ぐべき」というものだ。1880年、ロシアの膨張が今よりも世の中を脅かしていた時代だった。中国の外交官が、中国政府の世界戦略に基づいて書き、親中を前面に押し出していた。なのに、その中国を敬う儒生らが著者を「斯(し)文乱賊の嚆矢(こうし)」と非難し「書を持ち込んだ金弘集を罰するべき」と立ち上がった。 「万人疏(そ)」と呼ばれる上疏文で、儒生らは「あんな文を受け入れて、中国がこのことをもって問い詰め、うるさく騒いだら何と言って釈明するつもりか」とつづった。オランカイ(北方の異民族)の国に対して中国と対等に決然と連帯することをうんぬんしたら、中国が怒るのではないか、というわけだ。世間知らずな声だった。朝鮮策略は、中国政府の工作で朝鮮に持ち込まれたものだ。列強に押されていた中国は、外交において天子の地位を随分前に捨てた。中国ではないし、問題もないのに、遠い国の田舎儒生が「周公と孔子朱子の教えを明らかにすべき」と、中国のために憤慨し痛哭したのだ

儒生らを、情けないとばかりは言えない。彼らにとって、それが世界の全てだったからだ。金弘集率いる使節に同行した朴祥植(パク・サンシク)は郷村儒生だった。彼が遺した使行記『東渡日史』には、巨大な近代文明に圧倒された朝鮮儒生の目まいが記されている。東京での汽車体験をこのように描写した。「飛んでいく鳥が煙に捕まっているように、通り過ぎることができずに後ろへ下がっていく…耳元では雷の鳴る音が長々と消えず、風を止める神仙であってもこれよりひどいということはあり得ないだろう」。驚愕(きょうがく)した心を安定させられる安息所は、東京の孔子廟(びょう)だった。だがそこで彼は、さらに大きな衝撃を受けて嘆息する。孔子廟が近代式の師範学校や図書館、博物館に変わっていたからだ。「棚の中に、ガラスでふたをした本が千万とあるが、洋書の方がむしろ多く、学生は皆オランカイに変わってしまったな」

 時代の限界を超えることはできなかったが、少なくとも彼らは真剣だった。2年後、壬午(じんご)軍乱が起きて朝鮮は中国軍と袁世凱の治下に置かれた。朝鮮でありとあらゆる収奪をすることに血眼だったといわれるが、そればかりではなかった。朝鮮の文臣で接賓官の金昌熙(キム・チャンヒ)は、袁世凱など朝鮮に派遣された中国の支配者らに、朝鮮の生きる道を幾度となく尋ねた。袁世凱は真剣に答えた。彼は朝鮮の五つの物産を挙げ、これを治めれば朝鮮は豊かになれると語った。クワの木を植えて辺境の地を切り開き、三、四千の精鋭軍を養うことができて険しい山の地形をうまく活用すれば、日本の侵略の野心くらいは押さえられると助言した。朝鮮の生存戦略書を特に作って伝えた中国の知識人もいた。いずれも「自強」を求めたが、朝鮮はそこに到達し得なかった。

 

当時ニホン訪問した紳士遊覧団ってゆうのが、海軍が用意した宿舎を変えた理由は、彼らが毎朝庭にうんちをすることが告げ口されて、いたたまれなくなったことが原因でした。ニホン総督府が、韓国人にトイレの設置を強制するのは20年ほどあとの1934年になります。当時の朝鮮の使節団はトイレが躾けられていなかったんです  関連過去カキコ:国俗未開の韓人がやってきた

 

 韓国の今の状況を朝鮮末期になぞらえて批判すると「当時とは国力が違う」と言われる。現実に合わない、お決まりの比較だという。同意する。だが、韓国エリートの智力がどれほど成長したのかについては、考えてみるべきだ。朝鮮末期の外交論争を読むと、時代を読み誤ったとはいえ、彼らは知的で、真剣で、熾烈(しれつ)だった。政治思想家の丸山真男は、日本の近代化の成功を簡単に説明したことがある。「日本は敗れたら留学生を送った」というのだ。米国に負けたら米国に、英国に負けたら英国に人材を送った。国際情勢を深く知り、世界の中で国の座標がどこにあるかを把握した。朝鮮が日本くらいに当代の知識人を世界に送り出せていたら、中国の磁場から脱出して生き残れただろうと思う。

 

 今、韓国から世界に年間20万人が留学に行く。韓国国民の学習量は世界最高レベルだ。韓国ほどエリートが多い国はまれだ。朝鮮の知識人が夢見ていた国だ。エリート中のエリートが政治に集まっている。ところが今、彼らが日々騒ぎ立てている中心的な外交事案は「この○○論争」だ。世の中には、ありとあらゆるでたらめがある。超能力者ばかり集まっているのか、あるメディアは、見てみれば狂牛病だとか100万人だとか言い、聞いてみればこの○○、バイデンだとか言っている。こんなものは放っておくべきだ。米国も問題ないと言っている。ところが、国が揺らいでいるかのように「外交惨事」だと痛嘆している。反米の先鋒(せんぽう)に立っていた人ほど米国の気分を心配しているというコメディーを繰り広げている。朝鮮の儒生の反発には、彼らなりの哲学と世界観があった。今は非難のための非難があるのみで、何もない。

 

 韓国は外交で生き、外交で死ぬ国だ。要衝の地にあるからだ。だから、歴史的に外交論争が頻繁にある。国を生かす論争も、国を殺す論争もあった。ところが、寡聞ではあるが、今回のような質の低い論争は初めて見る。政治の智力が底辺にまで落ちたのでなければ起き得ないことだ。国はカネだけで維持されるのではない。国を支えるのは「民度」と呼ばれる、社会構成員の水準、とりわけエリートの智力だ。こんな政治、国会を放置していたら、よそが手を出さなくとも国はおのずから倒れるほかない。

 

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員

 

 

(ソウル/みそっち)

 


 

というわけで、ご隠居がかわいがっていた朝鮮日報のジョン君のよくわからないハナシがちょうど留学儒学について書いてあったのでそのまま貼っておきます。 

ちなみに柔道を学ぶために講道館に弟子入りしたのもその頃なんですが、留学してきたのは朝鮮の超がつくエリートばかりで、当然のことなんですが彼らは漢文に堪能だったんですね。そいで、今になってみるとハングルでは 柔道 儒道 유도 と一緒なんですよ。もちろん柔道を学びに来ていて、講道館で儒道は当然だったはずです。ジョンくんの記事は本国ではハングルで公開されてないですが、韓国で韓国人は読んだらニホンの講道館で儒道5段みたいな内容だなと思い込んだにちがいないですね。