minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

ソウルの独立門が話題になってるって?

2ちゃんねるから拾ってきましたょ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1323314985/
 
1 名前:ニライカナイφ ★ 2011/12/08(木) 12:29:45.83 ID:???
◆ソウル独立門の由来に現地若者「日本からだ!」→正解は中国

井沢元彦氏は1954年、名古屋生まれ。週刊ポストに連載中の『逆説の日本史』は
シリーズ累計440万部を突破した
。10月より小学館ウェブマガジン『BOOK PEOPLE』にて『逆説の世界史』も連載中の
井沢氏が、朝鮮半島の過去現在未来を、東アジア流転の歴史から読み解いている。
* * *
朝鮮半島の国家は歴史的に「つらい」国であった。
日本のように海に囲まれておらず、中国と陸続きであるから、
何かと中国が戦争を仕掛けて来る。

七世紀高句麗百済は唐に抵抗したが、新羅の金春秋(武烈王)は結局
唐の臣下(新羅国王)となってライバルを滅し半島を統一する道を選んだ。

これ以後、半島の国家は新羅であれ高麗であれ朝鮮であれ、
すべて「国王」すなわち中国皇帝の臣下であった。
それが歴史上のまぎれもない事実だ。

だからこそ、日本が清との日清戦争に勝って、下関条約で中国に初めて「朝鮮国の独立」を
認めさせた時、これで長年にわたる屈辱から解放されたと喜んだ朝鮮人は、欣喜雀躍して
独立門を建てた。これが今も大韓民国ソウル特別市にある独立門だ。
つまりこれは「中国からの独立」を記念して建てられたものであり、
朝鮮人もそれを明確に意識していたということなのだ。

現在ある場所に建てられたのも理由がある。
ここは、迎恩門といい、朝鮮歴代の王が中国皇帝の使者を迎えるにあたって
土下座以上の屈辱的な三跪九叩頭の礼をさせられていた場所なのである。
骨の髄まで中国文化(儒教文化)に染まっていた朝鮮は漢民族の国家である明が滅ぼされ
遊牧民族が清を建てた時、「野蛮人には従えない」と明に義理立てした。
 
怒った清は朝鮮に「征伐軍」を送り、朝鮮の仁祖王を追い詰め「土下座(正確には
三跪九叩頭礼)」をさせて服属させた。これは「神話」ではない、事実である。
しかも、清国皇帝は「お前たち朝鮮人を滅ぼさないで済ませてやったのだぞ。
恩義と思え」と強制し、歴代国王に三跪九叩頭礼を強制した。
その場所が「迎恩門」なのである。

日本が清に勝ち、朝鮮の独立を認めさせた時、まず朝鮮人たちが行なったことが
迎恩門の破壊であった。そして、募金によって独立門が建てられたのだ。
ところが、韓国の若い世代はこのことを知らない。
「有史以来、朝鮮半島の国は独立国家であった」などというデタラメが
学校で教えられているからだ。

独立門前で「この独立って、どこの国からの独立?」と質問すると、多くの若者は
そんなことも知らないのかと憤慨しつつ「日本からに決まっているだろう」と答える。
しかし、そこで「でも、説明板を見てごらん。この独立門が建てられたのは一八九七年だ。
韓国併合は一九一〇年だし、光復(独立)は一九四五年だろう。
それ以前の話なんだよ」と言うと、彼等は絶句し思考停止してしまう。

週刊ポスト 2011年12月16日


えと その通りですがなにか変なことでもあるんでしょうか?
 
多くの韓国人が信じて疑わない独立門って 中国からの独立だったのを知らないんですか
中国様をお迎えするために特別製の門をつくって這いつくばって歓迎してたんだとおもいますょ
 
迎恩門って言うんですか いまは礎石しか残ってませんね
 
イメージ 1それではここで彼らが主張する"独立"は誰(どこ)からの独立を言うのでしょうか? ご存知のように独立門が建てられた1897年当時、朝鮮の国運が傾いていたのは事実だが、まだ国の主権を喪失したわけではありません。 日帝によって外交権を剥奪された"乙巳条約"締結(1905年)は、それから8年後のことであり、1910年の国権喪失は、それから13年後のことです。
これにより、この時に"独立"の話は、いったいなぜ出てきたのでしょうか?
以下のいずれかで、我々は、彼らが主張した"独立"は、誰からの"独立"であるかを確認することができます。

一つは、独立門を建てた場所で、もう一つは、独立門の建設が決定された時の独立協会が示した姿勢です。 
まず、先にも述べたように、独立門が建てられた場所は、都心ハンガウンデイン光化門の位置でもなく、ソウルの関門といえるの南大門場でもありません。結局、これは日本も、アメリカも、ロシアでもないまさに、中国(当時は清国)からの独立を意味するのです。(*この点について、ほとんどの人々は独立門が日帝からの独立のために建てたと誤って理解しています。)

イメージ 2
 
このような事実を立証するよりも明確な証左です。独立門の建設が決定された時の独立協会は、"朝鮮は、数年を淸の属国でいるが、神のお陰で独立した"と喜んだことが知られています。
つまり、独立協会は、独立門の建設を通じて、朝鮮は"清の属国から脱したことを記念し、"しようとするものであり、そのような理由で独立門の建設位置を对中国政策の象徴であった迎恩門を壊してとったものです。清は日清戦争で敗れた後、1895年、日本と締結された下関条約で"朝鮮に対する宗主権の放棄"を公式に明らかにした事があって、独立協会が言及した"神"は、結局日本人わけです。
 
 
というのを引用してみたのですがどうやら独立門についての正しい論争をすると韓国公安に逮捕されちゃったり謝罪させられたりするようなのです びっくり! なんと韓国のWikiにある独立門関連の記載にはそーいう事実が載ってませんね 正しい韓国情報はニホンから~~
 
迎恩門 は、中国(清)からの使者を迎えていたです。 今日のソウル特別市 西大門区 ヒョンジョドンにあった。 1896年独立協会がこの門を壊して独立門を立てた。取り壊され、残りの礎は、 史跡 33号に指定されている。 1979年に道路工事のために、現在の位置に移設された。  韓国Wiki
 
 
イメージ 3
▲こういうものが残っているが主客転倒 中国の使者が朝鮮皇帝にひざまづいているという解説がついているといのも韓国らしさが伺える (実際は上座にいるのが清國の使者であり、朝鮮国王が這いつくばっている)