minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

臨時政府の"国璽"は空襲で無くなった

あれもこれもそれも全部燃えた 燃えちゃった 
まったく痕跡もなく消え去った"大韓民国臨時政府国璽と秘密文書?"
06.06.19
 
[ニュースミーナ] 制憲憲法原本と大韓民国最初国璽が紛失したのに続き、朝鮮時代の国璽も全部なくなったことがこの前の監査院調査で明らかになった。
宮中遺物2千点余り中に記録上13個がなければならない朝鮮時代国璽が全部消えたことなのだ、特に米軍政期当時マッカーサー将軍が日本から還収して我が国にまわしてくれたことで記録されている玉璽6個まで行方不明にされたというと、真に情けなくて、担当公職者らの身の振り方が実に情けないだけだ。
 
それで日帝強制占領期間の間私たちの亡命政府が作って使った大韓民国臨時政府国璽は現在の存在するだろうか? 不幸にもそれやっぱり'違う'だ。
1951年朝鮮戦争中1・4後退が始まって、国璽を含んだ臨時政府の公認箱を臨時に引き受けて保管した人が京畿道(キョンギド)安城(アンソン)のある家地下に埋めて置いたのに、避難を行ってくると、奇異にもよりによってその場所が空襲にあって、印章が皆つぶれてしまったという。
 
疑問だらけの臨時政府国璽と文献の'被災'
"この印章は手に持つことができるほど小さい箱なのに、6・25事変前までは大韓民国臨時政府国務委員だったチョ・ギョンハン知事が自ら保管していて、ソウル解放の時避難をするためにソウルを離れながらその時、恵化洞(ヘファドン)に住んでいた趙泰国青年に任せた。
その後1953年6月にソウル、新堂洞(シンダンドン)に住む柳善基青年がチョ知事が一時留まっている全州市の居所にきて報告することによれば、1・4後退の時自分も二番目で避難をすることになって、年配の方が任せた功績の物品と私的な物品をタイ軍と分担して保管することにして、臨時政府公認箱とその他物品半分を自分が持ってソウルを離れたし、それらを京畿道(キョンギド)、安城郡(アンソングン)町に住む友人の家地下に埋葬したところ、その後奇異にもよりによってその場所がロケット弾空襲にあって公認が皆、灰になったりつぶれてしまったといった。"
 -大韓民国臨時政府国務委員だったチョ・ギョンハン(1900~1993)知事が1953年10月に作った'大韓民国前臨時政府文献被災転末記'で
 
임시정부 문헌 피재 전말기 〓 (大韓民国前臨時政府文献被災顛末記)  そんな文献ないですよ
 
私たちの臨時政府と関連して、不幸であきれることはまたある。 誇らしい大韓民国臨時政府27年の歴史を記録した大切な文献がやはり同じ朝鮮戦争の時まるごと消えた。 伝えられる言葉では、ソウル、敦岩洞(トンアムドン)ある住宅倉庫に保管しておいたが、米軍飛行機が発射した焼夷弾に合ってみんな火に焼けたとするが、疑問だらけだ。
 
中国重慶政府にも冷遇された"大韓民国臨時政府"
"1945年8月日帝の崩壊で、その年11月に大韓民国臨時政府と臨時の暫定知事が中国重慶から帰国しながら、二つの機関が持っていた重要文献らを整理して臨時政府の文献と物品を入れた箱十個、イム議員の文献と物品を入れた箱三個、合わせて全十三個の革箱を持って帰国した。
その時から1946年1月中旬までは白凡が泊まっていたソウル市京橋荘にそれらを大事に保管して、その後何回保管処を移す過程で、イム議員の文献と物品箱三個はイム議員の後身の'非常政治会の'本部に移して、臨時政府の政治文献と物品が入った箱十個だけはその年5月にまた整理して箱十個を八個に作った後、6月に組濫職(趙南稷、臨時政府秘書処庶務委員会ヨンド課長で服務中)の恵化洞(ヘファドン)住宅に移して保管した。 その後組濫職は家庭事情で恵化洞(ヘファドン)から城北洞(ソンブクトン)に、城北洞(ソンブクトン)でまた敦岩洞(トンアムドン)で二度移ったが、保管物もその時ごとに共に付いて回った。
 
そうしている間1950年6月25日朝鮮戦争が起きた。 物品管理の総責任者の、前臨時政府国務委員チョ・ギョンハン知事は真っ先に南に避難して行って1953年夏ソウルに戻って、その年10月資料隠匿家族が生きている敦岩洞(トンアムドン)の家をうわさをたよりに捜して訪ねて行った。 そしてその時そこで臨時政府の文献と物品が皆消えたのを知ることになった。
 
資料隠匿係りの夫人が話した。 '六二五動乱中臨時政府保管物を母屋で一メートルぐらい落ちた小さい倉庫の中底辺に敷いておいて、その上に家の各種世間を積んでおいた。 夫は北に引きずられて行ったし、八十舅姑と子供と共に色々な険難を体験して過ごした。 1951年1月4日国連軍がソウルを撤収することになって、母子は病気にかかった舅姑お二人様だけ家に残しておいて釜山(プサン)で避難に行った。 そしてまた上がってきてみると、その間にこの家が焼夷弾をむかえて倉庫が完全に火に焼けてなくなったし、その中に置いた保管物も当然その時みな消えた。'
 
愛国の志士だった臨時政府物品を保管したその住宅の色々な状況が焼夷弾で同じように火災を起こす砲弾をむかえたようではなかったが、家族の話を疑うことも、それ以上追及することもできない境遇なので、深い傷心だけ抱いて帰ってきた。"
 
二種類物品保管の総責任者であったチョ・ギョンハン知事はその時の心情をこのように表明した。
"国璽が入った公認箱が空襲に消えたという話を聞く瞬間感じたその時の傷心を決して忘れずにいる私として、もうまた再びこういう青天の霹靂のような事変(文献紛失)を弱り目にたたり目に重なって当てられて見ると、何と今のこの心情を言葉で表現するのが難しい。 過去の歴史にも変乱で重要な歴史文献が消滅した例が時々あるが、こういう場合はとても常識外のまれなことだと認めたい。
しかも私たちの民族が更生のドアを開けて将来を切り開いていくこの時に、(民族)定義の手本とするほどのこの物品が一様に痕跡もなく消えるということは恐らく民族の運命がまだ暗黒でぐるぐる回ることになるということを一部象徴するということでないかして、より一層悲しくて恐れ混ざった悲嘆に耐えなくなる。
したがってなくした遺物中でたとえ裂けてつぶれたことでもただ一切れではあるがこの世どちらか一つのすみに残っていて、幸いにも空が助けて不幸な時期に取り戻すことができるならば、それはあたかも竜の鱗と鳳凰衣足の爪と同じ目出度い物を得たように、私たちの民族に慰労と喜びがよいはずであるので・・・! 私は一筋残った将来の希望にそんなになることだけを祈ってやまない。"
 
 
 
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国璽変遷過程 (c)京郷新聞 (この記事がインチキ国璽センセ登場の前なので2008~は うふふ)
 
以上が国璽をはじめとする臨時政府の貴重品と独立運動資料として申し分ない貴重な臨時政府文献すべてが世の中から消えた顛末だ.
どうであれ私たちの副注意と関心いいかげんに、私たちはこの民族が代々永久保存しなければならない大韓民国臨時政府の象徴であり歴史資料の国璽と文献らをなくした罪人になった。 ところでより一層通したらしいことはそのような物らをなくしても取り戻すつもりがないわが政府や関連学界の無関心さだ。
臨時政府27年の歴史. 尹奉吉義士の偉業直後中国、上海で日帝軍警の目を避けて杭州に移して中日戦争が起きて、牛皮箱いくつかに分けて木船にのせて揚子江について避難の道に上がった、その貴重で貴重な臨時政府の公認箱と文献箱ら.
その時から武漢を経て創社、広州、リュ低右、チジャン、重慶に達するように中国ミッド フィールド大陸をさ迷ったあげく、日帝崩壊と一緒に解放祖国で帰国する時までも支社様がいつも大切に、本当に命をかけて保管してきたものなどなのに、それをなくすとは・・・!
臨時政府が帰ってきて六十年ぶりにこの土地にははじめて臨時政府を記念する団体ができた。 それでこの団体はどんなことを一番最初にしなければならないだろうか? 私の考えには何よりもなぞのように消えた国璽と文献箱らを探す民族全体的な運動に直ちに出なければならない。
大韓民国臨時政府記念事業会が一番最初に着手しなければならない事業はすぐにこれだ。 いや、このことは記念事業会が一手に引き受けなければならない神聖な義務だ。 私は今あの空で私たちを見下ろしておられる烈士様のまなざしが恐ろしい。
 


恥ずかしい建国説
この話には尾ひれがついているんです、"大韓民国臨時政府"の貴重資料は当時のキタ朝鮮が発掘して持ち帰ったし、その資料の中に含まれる"重大な朝鮮建国の秘密"の重大さに驚いた当時のキタ朝鮮の金日成主席は"数回の南北会談"の中でこのことを"半島永遠の秘密"にするという約定に署名までしていると言うんですが・・  それっきりになっているんだとか
 
現在資産で600兆ウォン程度の秘密資金
さらには"大韓民国臨時政府"への海外同胞(あるいはフリーメーソンみたいな?)らからの潤沢な資金提供が強国建国の基礎となったが、その過程に於ける不透明な資金回遊となって現在でも"スイス銀行"に保管されているんだとか   この場合預金をおろすのに必要なのが"消えた国璽"であるというSFまであるんです、 その小さな理由として"日帝残滓である通帳預金での印章制度の全面的廃止"っていうのがその理由なのだそうです
 
 
着のみ着のままで重慶から歩いて朝鮮に帰った"大韓民国臨時政府"の秘密はどこにあるんでしょう?