minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

恥ずかしい"韓国型歴史観"⑭

 
 
連合国の植民地の独立もいっぱいあったけど半島の正当な後継国はキタ朝鮮でもイイような気がしてくる
 
 
イメージ 1[今日のミーナ]1945年8月15日の "解放"まで朝鮮は35年間の植民地状態に置かれていた。 これは1910年8月の "併合"から計算したものである。
併合前の5年間の "保護国"の状態でも植民地状態に準ずるものと見れば、広い意味での植民地時代は40年にわたるものであった。

朝鮮の解放は、第二次世界大戦の結果であり、建国もその余波の中で行われたことだった。
朝鮮半島は連合国の分割統治ということになりましたね、ニホンも主権を回復するまでには講和会議などをまたなくてはなりませんでした。
 
 第2次大戦は朝鮮だけでなく、世界中の多くの国々の独立をもたらした。 解放と独立の意味を正確に理解するためには、第2次大戦がどのような様相を呈した戦争だったのか、まず把握する必要がある。
ベトナムを手放したくないフランスがぐずぐずと戦争の準備をしたり大変だったんだからね
 
 
イメージ 9ところで、私たちの社会だけでなく、全世界的に第二次大戦の記述は、戦勝国の立場から、そして冷戦の陣営論理に基づいて行われたもの非常に多いので、冷戦が終わって21世紀に入った今となっては振り返って見る必要がたくさんある。

第2次大戦はドイツ - イタリア - 日本の3国同盟を中心とした枢軸国勢力と対抗した連合国の勢力の間の戦争だった。 大きく見ても帝国主義勢力間の戦争とすることができ、その点で1次世界大戦と同じだった。
第一次大戦終結当時のニホンは戦勝国でしたから"半島民"も日の丸を振って大喜びしていたわけです。
 

イメージ 2ソ連と資本主義国家間の葛藤を漢江に見れば、同じ資本主義国家である枢軸国と連合国の間の葛藤を支流の川と言えるだろう。 ところが支流の川に洪水が大きくて漢江(ハンガン)​​がしばらくの間見えなくなったわけだ。 米国、英国など資本主義国家とソ連は同じ連合国に戦争に臨んながらも吴越同舟の間であった。 連合国の葛藤が明らかになるにつれ、戦争後の状況に備えた相互牽制が始まった。 冷戦の前哨戦といえる。

第2次大戦で連合国の勝利に最も大きな功績を立てた国がソ連アメリカだった。 ソ連は戦傷者が多かったしアメリカはお金で戦争したわけだ。 300万人に迫るソ連の人命被害は他の連合国の被害をみな合わせに匹敵するレベルであり、米国が提供した戦争物資は、他の連合国の提供をみな合わせたよりも多かった。 そしてソ連は欧州でドイツ制圧に中心的な役割を担ったアメリカは、アジア - 太平洋で日本制圧の主体となった。
※ここには南京30万人とかが夢物語だという意味もあるようですね
 
 

イメージ 10終戦直後作られた国連の国際連合の5大強国が安保理理事国に特権を占めたが、終戦当時、米 - ソ両国と他の三つの国の位相には顕著な差があった。 中国とフランスは国を奪われるほどのひどい危機に瀕しているが、連合国の勝利のおかげで "解放"されたわけだった。 英国はそれよりちょっと良い都合だっただけ、勝利の主体であったとは言えない。

したがって、米国とソ連終戦後、最も大きな国際的影響力を持つようになった。 欧州の周辺部で一歩遅れて近代化を遂げて列強の隊列の後部に追い付いた二国が第2次大戦で超大国として登場したのだ。

膨大な独自の領土を持つ二つの国が世界に圧倒的な影響力を行使するようになった状況で、植民地解放の風が席巻した。 枢軸国の勢力を削り出しのために、その植民地を独立させたのはもちろんのこと、連合国の植民地も終戦後十数年の間にほとんど独立の道を歩むことになった。
※たいがいの韓国人ゎ"ニホンの植民地"だったと言いますがニホン人が住むには適していなかった半島のことを植民地と呼ぶのはどうかとおもいますね、"朝鮮に入植"なんてはなしきいたこと無いでしょ
 
 
第2次大戦を通じた左翼の成長は欧州だけの仕事ではなかった。 終戦後、ソ連の勢力拡大の努力は東欧に集中した。 中国とベトナム共産主義国家が立ち上がるのにソ連の支援はほとんどなかった。 それにもかかわらず、共産主義国家が自力で立ち上がったのは、反帝国主義闘争の過程で共産主義者の役割が目立ったからだった。 そして被圧迫諸民族は民族解放と帝国主義の克服という二つの課題が接続されていたので解放 - 独立運動から社会主義性向が大きくなる傾向があった。
 
 

イメージ 11朝鮮の場合も同じだ。 左右合作民族運動とすることができる新韓会が1931年解体された後、右翼のかなりの部分が親日転向妥協路線など様々な形で闘争の隊列を離れた。 そして軍国化した植民地支配者たちは一切の民族運動を "左翼"という名前で弾圧した。 だから解放当時、朝鮮では "左翼"の名が民族運動の文脈でも大きな尊敬を受けていた。
※ここでサヨクって出てきましたよ、当時のサヨクは弾圧されてたんですね、今の韓国人は弾圧されていたという過去が大好きですから当時の朝鮮の抵抗の歴史をそのままいまの歴史につなげようとしました>>さぁたいへんです、なんと今のキタ朝鮮のことになっちゃうじゃないですか
 

イメージ 12第2次大戦終戦時点で二超大国はそれぞれの勢力拡張の条件を持っていた。 米国はその後10年の間に世界の工業生産の半分を引き受けるほど強大な経済力を持っており、ソ連は先進国で後進地域まで、世界中の強化された左翼勢力の足場があった。 軍事力では対等だろう。 終戦一ヶ月前まで互角だった。

1945年7月16日、ポツダムの連合国首脳会談開幕の前日、米国が原子爆弾の実験に成功した。 この事実をトルーマンは、7月25日になってスターリンに発表された。(チャーチルにはその前に発表された。)戦争と関連しても大きな重要性を持つことに関する情報を毎日顔を合わせる同盟国の敵に8日間隠していたのだ。 両国関係に大きな影響を及ぼすこの情報を最も効果的瞬間を待って決めます。
ポツダム宣言終戦、>>ここでニホン統治時代はおわりましたが困ったことに朝鮮半島の独立は1948年まで待たなくてはなりません、何でかなぁ?
 
 

イメージ 13核爆弾の理論​​的可能性は第2次大戦勃発直前に明らかになっていた。 ドイツ、英国と米国の科学者たちがその理論にアクセスしていたが、戦争が起こると開発事業が米国で進行され、イギリスの科学者たちが結集した。 マンハッタンプロジェクトに帰結されたこの事業に、英国は米国に協力したが、ソ連は排除された。 しかし、ソ連は詳細なインフォメーションを確保していたので、ポツダムトルーマンが "強力な新しい武器"の話を取り出した時、スターリンのさりげなさにトルーマンがむしろ驚いたという話がある。 (スターリンが火のように怒ったという話もある。)

イメージ 3ポツダム会談の最初のトピックは、ヨーロッパの戦後処理方針であり、第二の主題、日本との戦争仕上げだった。 ドイツとの戦争に全力を傾けてきたソ連はドイツ降伏(5月8日)後席月を休んだ後、日本との戦争にも参加することに連合国の間で議論がされていた。 結局、ソ連が8月8日に宣戦布告をしたのは、この議論に基づくものであった。
ソ連樺太ほかの北方領土朝鮮半島上半分に進駐しました、まだ朝鮮はひとつだったんだけどね(朝鮮民国建国っ)

 
 
 
イメージ 8米国が広島と長崎に原子爆弾を落としたのは、日本の最後の抵抗を寝かせて戦争を早く終わらせるための目的だったが、そこにはソ連が参戦を通じて分け前を増やす機会を与えないという意味があった。 原子爆弾は、ソ連の参戦を前後した8月6日と9日に投下され、日本は直ちにポツダム宣言受諾の意向を伝えてきた。 日本が狙っていた最後の抗戦に出た場合は、数ヶ月間の戦闘延長が予想されていたが、その中にソ連軍が朝鮮と日本の相当範囲に進撃したものであり、戦後占領地域の設定に大きな差があったのだ。
※韓国人の歴史観ってよくわかんないね

ソ連の対日本戦参戦が正式レベルに止むしても第2次大戦全体への貢献を勘案すると、米国の日本単独占領と朝鮮分割占領にソ連が同意したのはすごい譲歩だった。 米国側の実務者たちが、ソ連の同意にびっくり驚いたという証言もある。 この時点でソ連の譲歩は原子爆弾の存在を意識した理由もあるとみられる。

米国とソ連の軍事力は対等なレベルだったが、原子爆弾の登場でいきなり格段の差が生じた。 終戦後、ソ連は至る所で西側との対立を起こしたが最後の段階では、例外なく退いた。 1949年8月、ソ連の最初の核爆弾実験までそうだった。 その時点まで、ソ連の対外政策は、米国の核兵器独占を背景にしなければ理解することができる。

もう解放当時、朝鮮が置かれていた国際的な状況に視野を狭めてみる。

終戦後の朝鮮の独立のための連合国の方針は、1943年11月カイロ会談で決定されたものだった。 その頃、連合国は守勢から攻勢に転換する方向を模索していた。 朝鮮とオーストリアの独立の方針がこのとき出てきたのは、大日本帝国ドイツ帝国の内部亀裂を狙った戦略的措置であった。
オーストリアはごぞんじのように連合国4つによる分割統治ね
 

イメージ 4オーストリアは第2次大戦直前の1938年の春、ドイツに併合された国だった。 圧倒的国民投票で自発的に併合したという点で、朝鮮との差がありますが、連合国の立場から見れば、朝鮮と最も似ている条件に置かれていた国だった。 連合国は、二国の独立を餌に二国の人々の連合国の協力を誘導しようとしたのだった。
※朝鮮のばあいも併合してくださいとお願いしたのは朝鮮からだったのに歴史教育に出てこないのはヤミの歴史だからでしょうか?
 

イメージ 5しかし、両国とも連合国の期待に応えられなかった。 私たち韓国側は "光復軍"の伝統を打ち出して、北朝鮮では "パルチザン"の業績を誇るが、ポーランド人の数十万人が連合国と一緒に戦ったに比べれば体面がない立つ。
※不思議なことに韓国人の誇りである光復軍っていうのが存在したとされる資料が発見されたのは"朝鮮戦争"のあとのことですしキタ朝鮮の"パルチザン"っていうのもその活動内容が脚色されるまでは参加者の資料が一切無いという滑稽な状況でしたよ(どちらも創作されたヨタ話ね)
 

イメージ 6朝鮮とオーストリアに進駐した連合国の軍隊は、表面上、 "解放軍"でありながら "占領軍"の性格も持つものであった。 両国の戦犯国の被害者に見正式な視点と一緒に戦犯の一部として見る実質的観点があったからだ。 両国とも、信託統治を行おうとしたのは戦犯国の協力を戒める意味があった。 オーストリアは左右合作政府を立てて10年間の信託統治を受けた次の1955年にニュートラルに独立した反面、朝鮮は極端な左右対立に終わりに分断建国と戦争の悲劇を迎えた。
※ドイツがきれいに統一しちゃったことも韓国人のトラウマなのだそうです
 
朝鮮周辺の二つの大きな国、日本と中国は解放という朝鮮にあまり影響を及ぼさない状態に置かれていた。 戦犯国で占領統治下に置かれていた日本は言うまでもなく、中国は5大連合 "の看板が色あせるほど、無気力な状況だった。 日本敗北に特別な功労もなく終戦を迎えた国民党政府は深刻な腐敗で内外の信頼を失い、共産党の挑戦に直面していた。
 

イメージ 7両国の東アジア地域での主導権を握ったのは米国だった。 日本との戦争で中心的な役割を担ったアメリカは日本本土を占領しただけでなく、中国国民党政府に絶対影響力を持っていた。
いっぽうのソ連中国共産党を積極的に支援もできないほど、東アジア地域では、萎縮れていて占領した満州まで国民党政府に返さなければならなかった。 朝鮮北部を3年近く占領していて友好的な政権を育てたことが、ソ連はこの地域の橋頭堡だった。  
※キタ朝鮮のこと、経済規模で下朝鮮がキタ朝鮮に追いつくのはずいぶん立ってからになりました
 
 
(翻訳:みそっち)
 
 


 
なんだかなぁ