"石造り五重の塔"がスゴイ
みそっちの歴史お散歩道 石仏を見る ⑨
【石蓋仏】
[歴史ミーナ] 古くはインドに起源を求めることのできる仏教が伝播する過程でさまざまな土地風習と融合し各地で独特の文化を形成してきたことは明らかである。
▲現在、京畿道有形文化財第37号に指定がされているメサンリ石仏立像は、高麗初期の祖先の石仏立像と推定する。 狭い肩と比例に合わない造形、頭に置いた宝蓋などに見高麗初期の石仏フォームを示しているからだ。
※宝蓋とは元来仏舎利などを収める石塔の上部に位置する蓋のこと、韓国では破壊された仏教寺院の仏像の復元のさいに石仏のうえに置いたことから石蓋仏という世にもまれな造形が生まれた
▲利川市郷土遺跡第10号に指定されたソンウブリ石仏立像、近所の小川に打ち捨てられていた石仏を掘り起こし現在の位置に安置したもの。
※破壊された部分は石像の上部であり、後年になって遺跡物の指定を受ける時にこの造形が生まれた
▲このすぐれた意匠を持つ石仏は発見されたときには石像上部は毀損しておりその後、推定と歴史的見地から復元がなされた。 石仏の上部はコンクリート製であり復元には細心の注意が払われ史実に基づいた忠実な再現であると解説には書いてある。
▲京畿道利川市ジャンホウォンウプオソクリの高麗前期の仏像。 高さ4.32m。
京畿道利川市ジャンホウォンウプオソクリ村真ん中にあるこの石仏は、上·下2枚の大きな石で構成されている。 頭にドルガトを書いていて四角い胴体の上に四角い頭を上げて、まるで4角の石柱のようだ。
※こちらも発見時には頭部がなく付近の山に打ち捨てられていたものを復元している、頭部に載せられた石蓋は石材の材質も違う上にその意匠は歴史的に見ても500年程度あたらしい時代のものだという指摘がなされている
もちろん石仏の頭部に石蓋が載っていたという伝承は残っていない
頭の上の天盖を除佛身は、太ももを中心にして上下2つの石で構成されている。 新羅法興王15年(528年)に与え李(イ某)が調整の命を受けて5ヶ月がかかって彫刻したと知られています。 しかし、実際に仏像の様式は、それよりもはるかに遅い高麗時代前期の様式を示している。
平面的な顔の目鼻立ちが形式的である。 適当な長さの目は左右に伸びていて、小さな鼻の穴がある鼻は眉と号線(弧线:滑らか形に曲がった線)を描いてつながっている。 そして口は細やかである。 両耳は長く伸びて肩に触れていて、首には深さが浅い三道(三道)が回されている。
国立慶州博物館には"首無し地蔵"がいっぱい
▲慶州の国立考古博物館には頭部の欠けた仏像が大量にコレクションされている、この多くは蒙古軍の進入や倭乱などにより毀損されたと解説版には書いてある。
状態の悪いものや歴史的価値のないものも大量に保管されている。
※慶長朝鮮出兵のさいの記録によれば"朝鮮国仏像悉く頭無く寺院荒れ果てり"との記述にもあるように16世紀の朝鮮時代に禁教となっていた仏教寺院はこのような有様だったと考えられます。
▲比較的原型を復元した"石造り五重の塔"、この復元には慶州大学考古学部による綿密な調査が行われ建立当時の荘厳な雰囲気を忠実に再現している
※五重の塔なのにもかかわらず周辺には"余った石材"が散乱したままになっている、これは五重の塔である、余ったパーツは仏像の頭の上に安置するというのが"韓国型近代式仏像復元術"なのだ。
▲近年になって再現された石仏には石蓋は付属していない、韓国だけに存在する石蓋仏という概念も近世になって疑問視する声も出て来ている。
あの顔に似ているっ
韓国で復元された石仏はまるで"中世から伝わるフレスコ画のような温和な顔をしている" らしい
(翻訳:ネト ミナ)