大韓帝国最初の戦艦 揚武号を汁
忘れられた亡国? ソウルで会う‘大韓帝国’の再発見
[ソウルの再発見] 'の帝国'がきまり悪くて "旧韓末"とする人のためのソウル探訪
[ソウルミーナ] "亡国の招いた国、名前だけの帝国、無能な国"。 このような一方的な偏見の中に大衆の胸に忘れられてしまった歴史がある。 "大韓帝国"である。
人々が話すきまり悪くて "旧韓末 '(旧韓末は、文字通りの帝国末期という意味であるべきです、人々は朝鮮から大韓帝国を結んで国運が傾いて滅亡する国の末期という否定的な意味で使っている)と呼ばれる未知の単語に変えてしまった歴史、それが "大韓帝国"である。
解説:大韓帝国の歴史、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号、1905年(明治38年)、11月の第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて大日本帝国の保護国となった。日清戦争以後、大韓帝国政府は日本から巨額の借款を受け入れて、近代化を推し進めようとした。1907年(大韓帝国隆煕元年)には1300万ウォンに達した。この借款は1910年の日韓併合でどうなったのかさだかではない。
しかし、東洋初の電気施設の設置、東京よりも先に進んだ電車の開設、西洋近代都市改造、近代企業20倍の増加と国の輸入250倍に増加し、西洋建築様式の積極的導入とアプリケーションを通じた自主フォームの開発、独立した新聞創刊リードとサポート、2倍以上増えた兵力と海軍艦導入し、独立国の地位を確保するための外交戦など、日帝強占前の帝国の前半のわずか6年余りの短い期間に数々の難関と限界の中で自主的に近代化を急速に推進した国に"大韓帝国"を覚えているこれらはあまりない。
これらは理解できることである。 1897年から1910年。 14年間しかない帝国の歴史の中で、それさえも大韓帝国が自主的に近代化を推進することができた時間は、日露戦争で勝利した日本が実質的な強みを始めたときから7年もなかった。 過度に短く、その開始は遅すぎた。 そして結果は滅びた。 最終的には日帝に国を奪われた国恥の主人公に残るようになった。 まだ植民地の歴史の傷を抱えている私たちに、亡国としての帝国が残した努力と成果が意味を持たなかった背景にある。 そしてここには、日本が併合した大韓帝国の自主的近代化の努力と成果を消してしまおうとする日帝植民史観の影響も少なからず作用した。
近代化という名目で諸外国から借金をくりかえし返済の目途も無いまま浪費をしたため建国からわずか4年目には税収の2倍にも及ぶ返済金が返せなくなり繰り延べを申し出ている。
※当時の借款の利率は10~45%であり産業を持たない朝鮮には返済は不可能な借金となった。
自主的近代化? はぁ?? 自主的に独立したと思ってる韓国人って多いですよね
朝鮮戦争初期に失われたとされる電線もまだ残っている、電線の略奪は停戦と前後して韓国国民の手によって行なわれた。
▲朝鮮時代の"近代的消防操法"と伝えられる写真、近年になって再現された
▲大韓帝国軍の兵隊、当時兵舎などが無く、兵隊は自宅から通勤していた。
元の船は英国の商船で、この船を25万ウォンで買ったものを大韓帝国は55万ウォン購入する、しかし大韓帝国軍の解体があり1909年初めには日本に売られた。 価格は4万ウォン。 そして、日本の輸送船として1916年に鉄鉱石を積んでシンガポールに行く途中沈没する。
▲漢城(京城・ソウル)の路面電車には貴賓車もあったが市民の手によって破壊されたりもした。出典 http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9C0DEFDD1E39E433A2575AC2A9609C94689ED7CF
▲廃墟となったソウルでの客引きの様子、相手は戦争中の米兵だ。
※ニホンでは飛脚は民間主導で行われたが朝鮮では役人のすることとなり不正腐敗が相次いだ