minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

崇礼門、地面はいつから1.6m高くなったのだろう

 
 
 
崇礼門の床の高さは超時空空間で説明できる
 
 
イメージ 5[今日のミーナ]崇礼門(南大門)復元の過程で石造りの部分、地表面を掘ってみたところ1.6mも下に埋もれた石畳の遺構が見つかったのだという新聞報道があったのは2010年のことだ。
 
崇礼門の基壇にある通路部分とも呼ぶべきところが1.6mも高かったということはまた言うなれば埋まっていた部分を足せば崇礼門はより高かったという事になり韓国人の誇りを思い出させるのに極めて有効に作用したようだった。
 
 
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▲掘り出された地下遺構を見学者に披露している、最下層から石畳が発見されたこともあり建立当時の地表面は今より1.6mも低かったことになる
 
これはまた、言いかえるなら後世になり建設当時に比べて通路部分の床部分が1.6mもかさ上げされたということになる。
当時の大人の身丈にも相当する1.6mである、ところが朝鮮王朝実録を精査しても崇礼門の記述はほんの数行しかない、おおまかに建立された1396年と再建された1447年、1479年の記述があるだけだ、その中には到底理解し得ない事実とされる誤認も数多く発見されている。
その後、崇礼門慶長の役では豊臣軍が入城した際に加藤清正凱旋門として使いその後は歴史の舞台から遠のく時代が続いた。 
 
ではなぜ崇礼門の通路は1.6mも高くされたのだろうか、またその工事はどの時代に行なわれたのだろうか。
崇礼門の歴史から見てゆこう 崇礼門は1396年(太祖 5年)に創建された。1447年(世宗 29年)と1479年(成宗 10年)に修復工事がおこなわれている。 それだけである。 
時代背景から言えばニホンでは南北朝時代の終わり頃にあたる、その当時朝鮮ではその後500年余りも続く李氏の時代が続いた。崇礼門は王城の正門として強固な石垣とともにつくられたがその結果、国の財政はわずか50年余りで疲弊しその後、全く顧みられることも無く500年ものあいだ放置されてきたのだろうか。 
 
崇礼門が火災で焼失したのは2008年のことだったが、その火災焼失より前の2005年頃から崇礼門の城郭構造の実地調査が行なわれている(城じゃないけど石垣など全部の構造てことで城郭構造ね)
 
 
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▲説明版には1.6m下の石畳と電車開通で埋められたとある
 
2005년 11월 숭례문 석축 하부에 대한 시굴조사 결과, 현재의 지반보다 약 1.6m 아래에서 석축의 지대석, 성문의 지도리석(확석), 박석이 발견되었다. 이와 같이 숭례문의 통로 바닥이 높아진 원인은 19세기 말, 전차가 숭례문의 홍예를 통과하게 되면서 성문 구조에 대한 손상을 최소화하려는 목적으로 박석 위에 진흙다짐을 하고, 전차 선로를 구성하기 위한 것으로 판단된다
 
 
南大門通路の床が高くなったことが電車のためだろうか?
 
実は興味深いことに崇礼門の床が高くなったのはニホン統治時代の路面電車開通の際にかさ上げされたのだという説が現在まで主流になっている。また発掘調査が行なわれた2005年の公式記録にも同じくニホン統治時代に路面電車開通のために地盤が整地されたということになっている。
ところがである。南大門(崇礼門)に電車が開通したのは1899年でありそれ以前の軌条の無かったころの写真も数多く残されている
 
 
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▲1894年イギリスの外交官ジョージカーソンの撮影した崇礼門のようす
 
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▲1890年代といわれる写真、当時でさえ南大門は外国使節団の利用する正門ではなく宮殿から遠く離れたところに残る朝鮮時代初期の遺物だった。
宗主国中国からの使者でさえ宮殿から遠く離れた迎恩門そばの迎賓館までしか近寄らなかったみたい
 
 
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▲電線は見えるがまだ軌条が敷かれていない、開通よりまえの撮影だと思われる
 
これらの写真でもわかるように型の城門の形はその後のものと余り変わらない、むしろ若干開通当時よりも地表面は高く見えるかもしれない
 
 
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▲草葺の住まいから瓦屋根へと短期間に変わっている、ニホンが統治した時代に朝鮮は文化的にもニホンに追いつくチャンスがあった時代だ
※この時期に自然崩壊の危機にあった崇礼門を当時のニホン政府は大きな手間をかけて軒先の波打ちを直している。
 
 
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▲その後皇太子殿下の朝鮮訪問にあわせ左右の城壁は取り壊され路面電車も門を迂回することになる。これは1910年頃
 
 
 
 
 
これら多くの写真により崇礼門が歴史に再登場した19世紀末にはすでにいま見る高さであったことが明らかだ。
 
 
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▲門が低くなれば扉も作り変えることになる、この立派な鉄の鋲の打ってあるドアもまた再現されたなかで金銭の不正授受が確認されている。
 
 
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▲鉄の鋲が打ちつけられた重さ4tを超える巨大なドア、韓国のことだといえば誰もが思い浮かべる不正。釘や鉄材も伝統式の製法ではなく韓国伝統の不正様式で用意された。
 
 
実は興味深い話がある、まず加藤清正軍の入城の際の足軽の証言による、”河を上り船着場に船をつけるとそこから大きな門が見えた”という部分である。
当時の漢江にあった河岸は遺構こそ残っていないが麻浦(いまの汝埃島の対岸付近)付近からだと崇礼門を見ることができただろう、上陸した清正軍は城門に向けて兵を整えると進軍する、やがて左右にひろがる城壁が見えてくるはずだ、そこまでの距離はおよそ5km、清正軍は途中で兵を休めさせ斥候を送った。 こうして漢陽への入城は粛々と行なわれたが城門のなかにも敵兵は一人もおらずすべて逃げ出したあとだったという。ここで興味深いのは城門にあるはずの門扉の存在である。
中国などの城塞都市では夕方ともなると門扉が閉められ外界と隔絶されるが朝鮮の崇礼門には扉が無かった(あるいは機能しないであった)という記述があることである。すなわち加藤清正の入城した1592年5月にはすでに城壁は崩れ城門は無きに等しくおどろくべきことに南大門をくぐるとそこから景福宮までが良く見えたということである。 ※南大門から見えたのは東大門かも

小西行長軍と合流した加藤清正は城門の中でまた兵を休ませている。その遺構が今も残っている、これについては諸説あるが、明治期に進駐したニホン軍の資料によれば、”京城(けいじゃう)に、清正の井コレ有り水量豊富ニテ枯れることなし” その遺構は石塔でも有名なタプコル公園(当時は联芳院で廃墟だけが残っていた)に今もあるという。 清正の井戸説は明治期の創作だとも言われている
 
城門には門が無く敵兵もいない敵地に陣を敷いたところ朝鮮軍はそこから南方の南山に陣を敷いているとの報に兵を向けるがさらに朝鮮軍は後へと下がりそのまま次の敵地へと進むことになった。
 
ここで注意しておきたいのは朝鮮軍が後退する際に現在の感覚では釜山から上陸してきた敵軍から逃げるため北に向かうのではと考えがちな点である。
漢江の近くに都をきめた李氏朝鮮王朝にとって敵軍は河をさかのぼってやって来るものであり当然逃げる先は川の上流であるということだ。戦国時代の兵が大勢で移動するには道が必要だが当時釜山から漢陽(いまのソウル)まで通じる道はけもの道程度しかなく水運を使っての移動しか手段がなかったことはその後400年もあとになってニホンはまず道を整備し鉄道を敷いたという事実からも見て取れよう。
 
この項続く
 
 
 
 
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崇礼門焼失前のようす
 
 
 
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▲裏側は見せられない韓国型の復元想像図(これは見慣れない裏側の写真)