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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

ソウルの人口は20万人に増加するのに約400年かかった

 
 
300年再建されなかった宮殿とか
 
丙子胡乱で城門や宮殿の修理改築を禁止された朝鮮時代、あらゆる文化が停滞した500年のあとにやってきた大混乱
 

イメージ 1[ソウルミーナ]1394年10月、ソウルが朝鮮王朝の首都となってから600年余りの歳月が流れた。これまでソウルの人口は100倍以上に増え、面積も38倍も増えた。
朝鮮時代のソウルである漢城府は、その時代の初期の人口は約10万人程度で、人口が20万人に増加するのに約400年(朝鮮王朝の世宗から純祖まで)がかかった。
 
ニホン統治時代 25万人⇒100万人に10年
 
日帝時代のソウルつまり、京城時代の初期の人口は約25万人で、100万人に増加するのに10年かかった。大韓民国政府樹立後、ソウルは、ソウル特別市時代が始まった1945年の人口は90万人であり、人口100万人から、 200万人になるために15年、200万人から400万人に、また、400万人から800万人になるために、それぞれ約10余年がかかった。また、人口の増加に伴い、行政区域も解放当時の136.04㎢、1973年の627.06㎢で展開され、現在605.95㎢に達している。
 
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このような巨大な人口増加と面積の拡張が行われる間、ソウルは我が民族の歴史とともに大きな変化を経験しなければしました。壬辰の乱をはじめとする外部勢力の絶え間ない侵略、都城内の火災などに市街地の再修復をしなければであり、日帝時代には首都としての役割を喪失したこともあった。光復後には、6.25動乱に市街地が廃墟と化したが、1960年代以降の飛躍的な経済発展と都市の成長に今、世界有数の巨大都市のうちの一つになったのだ。

 首都移転のソウル
朝鮮半島の中央を蛇行する漢江沿いの一帯は、すでに長い間、地政学的な観点からだけでなく、文化史の側面からも重要な地域であった。ソウル付近は、先史時代以来ずっと、韓半島の要衝として、民族の歴史の中心で成長してきたことを記録と遺物、遺跡が物語っている。
先史時代の住居が形成されていたソウルは、三国時代に至って百済の都として選択されて初めて、首都の姿を現し始めた。
その後、三国の角逐場になった百済の都慰禮城は高句麗の南進政策の結果として、高句麗領土である北漢山州、南平壌にその名が変わった。
三国時代後期に至って三国の主導権が新羅に移るとソウルは再び新羅の外れ、漢陽郡となった。

ソウルが都市としての堂々とした姿を取り揃えるようになったのは高麗時代に来た。1067年(文宗21)に三京制度が整ったに応じて、ソウルは高麗王朝の南ソウル(南京)として宮廷が立てられるようになり、住民の移住が施行されて初めて、都市としての枠組みを備えるようになった。
その後、ソウルは三京の一つではなく、本格的な首都の候補地として新たな局面を迎えることになった。
高麗時代のウ王とゴンヤンワン時期にそれぞれ6ヶ月間、生地が現実化され、実際に首都がなるまでに至った。特にゴンヤンワン2年(1390)には、関西を見物(個性)と神経(ソウル)の栄養素て遷都したが、叙情システムの不備、互換性の毛蟹事件による民心の不安などにより、翌年環してしまった。

漢陽遷都
太祖は朝鮮の開国とともに、新しい都の建設を強力に推進しました。
易姓革命をした君主は、必ず都を移すには正当性の下に散らばった民心を一新させようという契機として、旧王朝との目に見えないひもを切ってしまうため、意図として生地の必要性があった。
しかし、これらの太祖の意志にもかかわらず、1392年に太祖が漢陽遷都を命じた後、新しい王朝のための新しいみやこが実質的に確定されるまでの13年にわたる議論を経た。
遷都の候補地を決定する基準は、風水地理であった。
鶏龍山が候補地として浮上したのも、舞楽が議論されたのも、そして開城を固守しようという意見も表面的にはすべて風水に基づいたものだった。風水から見た地域を巡っても意見が交錯していた。
太祖の後を継いで王位を継承した定宗が開城に戻したこともあったが、最終的に1405年10月太宗によって漢陽にの電撃的な遷都が行われた。太宗は最後まで議論された3つの候補地である漢陽、舞楽、開城を置いて最終決定し、最終的に漢陽が首都として決定されたものである。
 
太祖(初代)⇒定宗(2代)⇒太宗(3代目)
 
当時、漢陽遷都論者が主張した漢陽の首都としての適格性は、まず風水地理上でソンアク(開城)に次ぐ優れた位置であり、第二海上輸送が便利で、物資輸送に有利で、第三国土の中央に位置しているという点だった。すなわち防衛相に有利で、交通が便利で、中央集権体制に便利な条件を備えた点だった。
また、上記のような現実的な地政学的条件も重要ですが、ソウルが持っている首都としての民族史的正当性も重要であると言わざるを得ない。
ソウルは三国文化のギョチャジとして、古朝鮮から散らばっていた民族の文化を再統合して、統合された民族国家の中心ことができる文化史中心性、開放性を備えた真の意味での国土の中心とすることができる。
 
 新首都の建設
太祖は漢陽遷都を決めた1394年の「
新都宮廷造成図鑑」を設置して新首都の都市計画を構想した。
続いて10月に遷都を決行して11月には「工作局」を設置し、宗廟と宮廷、官庁の工事を開始し、実質的な新首都建設を開始した。
遷都も翌1395年には、1月に大臣たちから庶民に至るまで、住宅を建設する土地を配って、本格的な都市の形成が開始され、9月には宗廟と景福宮が完成した。
 
 
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▲南大門の外側には街が無かった
 
 

一方、1395年6月太祖は新首都の名称を漢陽部で漢城府に固定し新首都を5部52部屋のエリアに分割し、行政区域を確定した。
すなわち漢城府(ハンソンフ)は都城内部と旧周辺の十里区域、いわゆる'
城底十里'で画定されて行政区域上の二元的体制が確立されたし、都城内を5部で分けてその下に部屋を置いた。
しかし遷都と同時に施行しようとした城郭の築造は宮廷と宗廟工事が終えられる頃'都城築造図鑑'という城郭収縮を担当する機関を設置して、合計59,500隻に達する城壁を築く石でソウルを囲んでいる白亜、仁王山(イヌァンサン)、南山(ナムサン)、洛山(ナクサン)の稜線について実測・決めて、翌年である1396年1月から建設が始まって二度の工事終わりに完成された。太祖による約4年間にかけた建設で新首都の枠組みは輪郭を備えて行ったが清州が開城で還都してしまうことによって漢陽(ハンヤン)は再び衰退した。
本格的な新首都の建設は1405年に太宗が遷都した後、市廛行廊建設、新首都内の幹線道路の区画を確定し、1422年に太祖の時に建設された城壁を世宗の時の石垣に改築し、城の周囲を確定し、1403年新首都の中心を東西に流れる小川の整備工事を仕上げすることにより、完成された見るのが正しいだろう。
このように完成した朝鮮初期のソウルの状況は、朝鮮中期の戦乱に見舞われるまで約150年間大きな変化なく持続した。
 
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朝鮮中期のソウル
太祖の世宗期に形成されたソウルの市街地は壬辰倭乱丙子胡乱の度重なる戦乱に包まれて、初期の姿を失っていった。なかでも内乱、火災によって破壊されたソウルは、孝宗(1649-1659)から、英祖(1724-1776)まで100年の歳月が流れた後になっても戦乱の傷を洗って出すことができなかった。
朝鮮中期のソウルは苦難の時期であったと言わざるをえない。
50年近く続いた戦乱で宮廷、市廛商店街、民家が破壊されてしまったが、再建をしようとしても、ソウルだけでなく、全国土が荒廃され、国家の財政が枯渇した状態にあったので、永続的に本来の姿を取り戻すには不可能であった。 ※朝鮮の税制度は平民だけが納税する(平民はおよそ20%程度)
したがって、戦乱の後、約100年に渡って部分的な復旧が行われており、特に正宗に至っては回復が盛んになり、戦乱以前よりも盛んな市の姿で、首都の威容を誇るようになった。

 朝鮮後期のソウル
戦乱の中でソウルの人口は激減したが、戦乱の後急増した。戦乱の後、ソウルの人口が急増し、最終的にはソンジョ十里の面(町の外십리以内のエリアに置いた行政区域、ソンジョ十里の面では、森林を保護するために耕作、住宅建設、墓地、伐採が禁止されていた)は居化され、それに応じて面を廃止し、5副官する区域に編入させることになった。
このような人口の増加や市街地の拡大が商業開発のベースとなり、商業の発達は、ソウル周辺の衛星都市を形成し、ソウルの都市構造を変化させた。
龍山、西江、摩耗、ソビンゴ(オクスドン)は、漢江の水運を通じ、全国の物資が集まったところであり、蘆原(議政府市ホウォンドン)、松坡、果川(クァチョン)は、陸路でソウルに入ってくる入口で、交通上の要衝に衛星都市が形成された。これらの衛星都市は、人口規模においても、地方の大都市に匹敵するほどであった。
 
 
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 開港期と日帝強占期
イメージ 2開港期の都市構造に大きな変化をもたらしたのは、外国の居留民の家のだった。龍山一帯と梨泰院一帯が日本軍の駐屯地として開発され漢江路が建設されると、龍山はソウルの新しい南北軸として浮上した。
開港期以降の経済圏を握るようになった日本人が、清渓川以南、すなわち、南村に家住むようにされ、南村地域は一人らによって開発され、新たな商業、経済の中心として登場することになった。このような変化を通じて鍾路地域は政治、行政の中心となって、中区の地域は経済、商業の中心となり、龍山地域は軍事中心に変わるようになってソウルの都市空間構造の再編成が行われるようになった。
 
イメージ 3もう一つの大きな変化は電車路線の建設だった。電車の路線が東西南北の軸をなしながら建設され、朝鮮時代の歩行中心の都市構造は、電車と呼ばれる新しい交通手段の登場により、本質的な変化を余儀なくされた。日韓併合後の電車路線の建設はさらに促進され、1912年ジロ路線の開通により、総延長39㎞に及ぶ交通網が確立されて、前の歩行中心から電車路線網の中心の都市に変化した。
 
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日本は1912年から1918年まで、ソウルの都市の変化に大きな影響を与えることにした市区改正事業を実施した。
 
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その後、1926年には第1次京城都市計画案が策定されており、1次都市計画の後も、1928年と1930年に第2次、3次京城都市計画案が策定されるのたが、実施計画と財政計画が付かず、結​​局、施行されることはなかった。1934年には朝鮮市街地計画令が発表された。
これにより、都市開発の主軸である土地区画整理事業が開始され、1937から1944年まで、永登浦、ドンアム、大賢地区など19地区のソウル外郭地域が開発された。
日帝強占期の末期に駆け上がった1937年には、防空法朝鮮施行令が公布された。これは第2次世界大戦末期の空襲に対する防護策で今日の退渓路、栗谷路、元暁路などは、消防公示計画路線だったように、都市計画にも大きな影響を及ぼした。
 
 

(翻訳:みそっち)
 


 
ニホン人が明治20年代に見た当時のソウルはまるで平安時代のまま荒果てた宮殿が残っているだけの荒涼とした廃都を思わせる風情だったということですから当時のニホンの外交団が漢江を船で上り麻浦あたりで上陸すると南大門まで良く見えたというのも納得できますね(このへんの描写は加藤清正の頃の時代と変わっていない)。
もちろんその頃では周囲の木はすべて薪として燃やされたあとなのでニホン統治時代に植林されるまでの野山は見ごたえもあったでしょうね。
 
 
 
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