南漢山城、文化遺産
攻めてくる清国軍を散々打ち破ったドラマの舞台にもなったり
文化財庁はユネスコ世界遺産委員会(WHC)諮問機構であるイコモス(ICOMOS・国際記念物遺跡協議会)が南漢山城(ナムハンサンソン)に対して実態調査を行った結果‘登載(Inscribe)勧告’判定を下したと29日明らかにした。
‘登載勧告’を受ければ異変がない限りその年開かれる世界遺産委員会(WHC)で登載がなされるという点で南漢山城(ナムハンサンソン)の世界遺産登載は確実視されている。 南漢山城(ナムハンサンソン)最終登載の有無は6月15日から25日までカタール、ドーハで開かれる第38次世界遺産委員会で決定される。
ICOMOSがWHCに提出した評価報告書によれば南漢山城(ナムハンサンソン)は都市計画と関連した軍事遺産という点、地形を利用した築城術と防御戦術が時代別に結集した超大型ポゴクシク(包谷式・渓谷をかばって築城された酸性)酸性という点、体系的な保存管理で保存状態が良好だという点などが世界遺産としての価値を認められた。
イ・ヘウン文化財委員会世界遺産分科委員長は“南山(ナムサン)城は王宮に関連した施設を備えたし、丙子胡乱時は王が日常的に居住した‘非常王宮’という点が高く評価されたと見られる”として“このような山城は世界的に南漢山城(ナムハンサンソン)しかない”と話した。
南漢山城(ナムハンサンソン)が世界文化遺産で登載される場合、韓国は11個目世界遺産を保有することになる。 その間、海印寺(ヘインサ)蔵経板前(1995) 宗廟(1995) 石窟庵(ソックラム)・仏国寺 (プルグクサ)(1995) 昌徳宮(チャンドックン)(1997)水原華城(スウォン・ファソン)(1997)高唱・和順(ファスン)・江華支石墓(コインドル)遺跡(2000)慶州歴史遺跡地区(月城地区・大陵苑地区) (2000) 済州(チェジュ)火山島と万丈窟溶岩洞窟(2007) 朝鮮王陵(2009)韓国の歴史の村安東河回村と良洞民俗村 (ヤンドンミンソンマウル) (2010) 等が世界遺産で登載された。
(翻訳:みそっち)
南漢山城ってね、解説するとこんなのです。
この南漢山城は首都に近く、防御するにはいいポイントのために文禄・慶長の役のあと急遽築城されたが、実際にはその目的を達成できず、今に至るようになる。南漢山城は築城当時の護国仏教思想の影響を受け丙子胡乱(ニホンでは3代将軍家光の頃)という敗戦の記録を持っているが、その後、清への敵意と民族の痛恨のミスの痛みが立ちこめている場所で人々に記憶される。
光復後1985年まで陸軍刑務所が設置されていたこともあるが現在では移転したため当時の痕跡は残っていない。
明亡き後の清の時代になり些細な戦で無条件降伏をした丙子胡乱(1636)の時に朝鮮王16代目の仁祖が漢陽の都を捨て清軍を避けて南漢山城に避難したという事実の記録が残っている。現在は国立公園化され各種の宮殿風建築物も建てられたため歴史的価値があると思い込んでいる韓国人も多いが、例えて言うならば”コンクリート製の大阪城が世界遺産になるようなもの”との見方ができる。また山城としての歴史的価値も武田勝頼の時代にあった”新府城”程度のものである
南漢山城は、当時の漢陽(いまのソウル)の南を守る山城として考えられている。南漢山城はその名のとおり漢江の南岸にありソウル中心部から南に約24キロ離れたところにある。現在残る宮殿風の建物などの遺構が再現されたのは1960年代になってからであり清の時代にはほとんどが破壊され尽くした廃城である。
”王宮に関連した施設を備えたし、丙子胡乱時は王が日常的に居住した‘非常王宮’という点が高く評価されたと見られる”、というのは全くの思い込みから始まる内容であり、”臆病な王が40日ほど逃げ込んだ山の上の砦”としての歴史的価値があるに過ぎない。また山城の遺構としてではなく”近世まで残った高地性集落”がめずらしいために文化遺産として登録されることになったものである。(城域跡は耕作地であり朝鮮時代末期には2000人程度が住んでいた)
三田渡の盟約にある、城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。という条文にもあるように清国軍への降伏のあと、南漢山城はそのまま再興されることもなく手付かずで放置され、僅かな施設が朝鮮時代末期の仏教の興隆とともに建てられた。
キムチが文化遺産になったと大喜びしてみたら違ったですよね、そんながっかりがまもなく始まりそうです。