南北交易証のはなし
韓国の最初の貿易相手はキタ朝鮮だった?
担ぎ屋さんという貿易の登場
[きょうのミーナ]貿易とは品物を運んで売ること、不足しているところに持っていくものはアヘンだったりすると戦争になります。
南北朝鮮がソ連とアメリカに分割統治されたのは終戦直後だったことにしましょう、その後しばらくは南北の往来はまったく自由だったのかというと諸説あるようですが、じつは両国の政府でも無秩序な品物の移動をほったらかしていたわけではありませんでした。38度線の南北にはいくつかの交易所が設けられ政府(最初はアメリカ軍政)の管理のもとで”交易証”を発行していたようです。
半島だけで見た場合コメの生産は下朝鮮が78%ほどをまかない、
電力供給はキタ朝鮮からという具合だったようですね。
ところで下朝鮮から運ばれたものは主にコメだったところに、キタ朝鮮から電気が送られていたのでは貿易とは言いにくいでしょ、日用品や雑貨も盛んに運ばれたそうです。とくに下朝鮮に不足していたのはタバコでした。※コメ1俵が45円だったときに下朝鮮製の”勝利”っていうタバコが3円(当時は圓)
不足していれば品物を運ぶし、値が高くつけばそっちに運んで売るという経済モデル貿易(交易)で儲けたのは言うまでもなく現在の財閥につながるところだというのも知っておきましょう。
交易証の発行は最初こそアメリカ軍政でしたがやがて38度線を警備する韓国軍(最初は軍じゃなかったけどね)が管轄するようになりました。なにしろ品物の不足していたころでしたから運び屋さんは儲かるし許認可する軍にも莫大な利益が・・・これは違いますよ、各地の38度線を警備する部隊の司令官な人たちのふところを潤したのでした。
こうした南北交易は公式には1949年3月まで続いたそうです、これはキタ朝鮮による送電停止(1948年3月)の1年もあとまで続いていたことになりますよ
交易というのは儲かる方にどんどん運ぶのが”大航海時代”のゲームの進め方ですよね、そこで下朝鮮のコメはどんどんキタ朝鮮に運ばれました。
そのころにはキタ朝鮮からはタバコ、スケソウダラ、干し明太、イカ、カーバイト、高麗人参などが運ばれ、韓国からは主にコメ、医薬品、電気製品(電球など)、生ゴム、綿織物、布地、タイヤや自動車の付属品、ミシンなど(この辺はアメリカなどからの輸入品)が運ばれたことになっています。
なんと食べる分までタバコに替えたといいますからおどろきです。
このあとのおはなしをかいつまんでまとめると南北交易で儲けた軍司令官が国民防衛軍の物資の横領をした人です。南北交易でもうけた業者さんはその後、キタ朝鮮に工業団地をつくって金剛山観光まで手がけた財閥のひとになりました。
貿易相手国にせっせと送ったものがそのまま戦争に使われたというお話です
(まとめ:みそっち)
その後も続いた南北交易のヤミ物資の取締り権限は国境部隊の指揮官にありました、(なんと朝鮮戦争の最中にも取引があったとか)押収した品物はそのまま指揮官の懐に入り、”泣き寝入り寸前の業者さん”は軍中枢のえらいさんにチクリます、見かねたえらいさんは指揮官の交代をします。
その結果、”軍中枢に儲けをはこぶ忠実な指揮官”は最前線でキタ朝鮮相手の商売を続けますよ、ただし軍部隊の指揮の経験は無い人だったんだけどね。
ちなみに李承晩の北進統一主張はこうした交易の不均衡を解決してお金儲けをするために考え出されたもので”キタ朝鮮を攻め取れば自給できる国家”になれるという妄想から出たものでした。
※1949年のコメのほとんどがキタ朝鮮に転売されていた。
貿易依存国は最初からだったの