minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

そういえばペク将軍が100歳だってよ

 

朝鮮型軍隊考❸

韓国軍ってなんでダメなんだろう

 

韓国人の考える正規軍、つまり給料をもらう軍隊が一般化したのは、それほどむかしのことではありません。
朝鮮(~1907年)では、兵隊に給料を支払うどころか、兵隊に必ず必要な物品、例えば鎧、武器、軍靴などを支給することもありませんでした。 武器や軍服を買うのは国家の役割ではなく、戦争に参加する個人の役割でした。それが租庸調の庸の役ですから

※「矛盾」という説話では行商人が槍と盾を売る姿が見られますが、行商人から一般市民が槍と盾を買う理由は、その武器を持って戦場に出るためです。

 

つまり手弁当で兵隊になったわけです。その一方でそれを指揮する将軍と言う役職は毎年任命されていて、いわゆる官職ってやつですね。これが正副3人ってところでしょうか。それぞれに部下が付いているのでお着換えや任地への移動はどうにかなったようです。まぁせいぜい中国の三国志を読んだことがあるくらいの軍事通が指揮官でした。

そして租庸調で新しい兵隊も毎年寄せ集められます。決定的に少なかったのは中間の指揮官です。ええ兵隊はまとめておけば古い順に階級が出来て自然と任務の分担をするので兵隊のまとめ役は特に不要だったのです。

そいじゃ将軍と兵隊だけ? そーですね文官になれなかったのが武官としてニホンでいうお目見え以下の不浄役人、判任官が兵舎に通勤します。彼らは兵隊の上官じゃありません。住むところもちがうしお給料は朝鮮朝廷から支給されていました。白服の兵隊の朝鮮時代は戦争が無かったので城壁の石積みがメインのお仕事でした。

やがて開国をせまるアメリカやイギリスロシアがやってきます。ところが朝鮮は水が悪いってことで有名ですから帆船の列強海軍は朝鮮に興味無かったのです。

※ニホンでは手振りでしらせる黒船に樽入りの水を届けている

 

その当時、武器の価格は非常に高かったでしょう。 分業の原理? そんなのはあるはずがない朝鮮時代で、国産の武器はその数が限られていたし、はるばる中国から輸入して来るしかありませんから、今でいえば小型車一台分の値段になっているはずです。※ちなみに縫い針はすべて輸入だけ、釣り針は禁令が出るほど高価だったらしい

今の私たちの見方からすると、そんなに高いお金を出してまで、特に得のない軍隊に行くのは理解できませんが、その当時の人々は自分のお金と時間を浪費し、命を担保にしながら喜んで戦場に出ました。 彼らが戦場に出た理由は戦場に出ることによって、彼らは自由民(平民)としての権利を主張できたからです。※朝鮮民の多くは年貢から逃げた土幕民とよばれる野良暮らしをしていた

 

ヨーロッパでは貴族が軍隊に行く

韓国人に理解できない概念にノブレスオブリージュというのがあります。これが韓国人には全く理解できません。現在でも高位層の子供であれば絶対に兵役に行かないことがお約束となっています。※救世主たらんことを

これを「朝鮮時代は文官と武官のうち文官が重く用いられた」なんて解説しがちですが、朝鮮の失われた500年間には武官の仕事が無かっただけで、功績の立てようも仕事が無いので出世しなかったわけです。そいでも役職としてはあったのでそれなりの名家みたいのがありました。丙子胡乱のあとの敗戦国の状況で説明すると、旧ニホン軍軍人の公職追放清朝末期のどさくさの頃までずっと続いていたというニュアンスでイイかなと思います。


西洋では軍隊に行くこと、つまりみんなを守るということは、他の人より偉いということを意味したのです。ヒデヨシやムサシの頃のニホンでは戦に行くことは侍大将から大名になれるという夢がありました。だからこそどんなに怖くて武器代が惜しくても名家であれば軍隊に行くしかなかったし、志がある百姓家の次男三男は足軽になったのです。

でも、それは韓国にとっては外国の話であって、韓国の場合には兵役不正が当たり前の普通です。 まさに兵役不正共和国と言えるでしょう。 例えば、延坪島砲撃で焼けた魔法瓶とキタ朝鮮の砲弾を区別できないある与党の代表(当時)の履歴を見れば次の通りです。

 

 

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 ▲延坪島砲撃事件のとき現地に行ったアン・サンスセヌリ党代表(当時)が手にしているのは焼け焦げたキタ朝鮮の新型122㎜ミサイル弾だと言った。

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それ魔法瓶じゃね? いいえ、砲弾です。

 

当時の与党代表まで行くこともありません。 ムン大統領は兵長で満期除隊ですから韓国では絶大な人気があります。でもその息子は兵役とは無縁の障碍者2級です。

ソウル市長は息子ともども兵役不正で話題になったりしています。まぁ彼らの頃には大学に進学していれば兵役が無かったからかもしれません。(ナイワケナイケドナ)

 

それでも兵役不正には国民の眼が光ってますよね。「俺も行ったのだからお前もな」と考えているのでしょう。

 

さて、朝鮮戦争がはじまる前に創軍された近代の韓国軍ですが、これはハナシが長くなるので別の機会に説明します。まぁ、仁川被服廠に大量に残されていた旧日本軍の軍服を着て九九式小銃で装備したりしてました。履物を見ると分かりますが軍靴はおなじみの旧日式左右共用の短靴でゲートル巻きなんですが、鉄兜だけは余計になかったみたいで、韓国軍や南朝鮮国境警備隊がニホン式鉄兜をかぶっている写真は殆どありません。

 

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▲旧日本軍装備の韓国軍の訓練の様子。マッカーサーも驚いた韓国軍が米式の装備品を受け取るのはソウル奪還後のこと 髪型は坊主じゃない

 

 

 

 

そんな韓国軍の開戦前の仕事は、物資の横流しでした。それこそコメや毛布に燃料までせっせとキタ朝鮮に運び込んでいました。南北交易というものです。

 

 

南北交易というのは朝鮮戦争前であれば、南北で品物の貿易をして金儲けするというシステムで、韓国側では国軍の前身である国境警備隊(国境近くの駐留部隊の役得)の利権だったんですね。交易証の発行は最初こそアメリカ軍政でしたが、やがて38度線を警備する韓国軍(最初は軍じゃなかったけどね)が管轄するようになりました。なにしろ品物の不足していたころでしたから運び屋さんは儲かるし許認可する軍にも莫大な利益が・・・これは違いますよ、各地の38度線を警備する部隊の司令官な人たちのふところを潤したのでした。この辺の仕組みは朝鮮時代の国境交易と同じですね。釜山が栄えた理由は早くからニホン商人がたくさんいて好き好きに税を取り立てていたからですよ。だから真っ先に開港地となってニホンの軍隊がそれを見張るために駐留したのです。

こうした南北交易は公式には1949年3月まで続いたそうです、これはキタ朝鮮による送電停止(1948年3月)の1年もあとまで丸々続いていたことになりますよ

交易というのは儲かる方にどんどん運ぶのが大航海時代のゲームの進め方ですよね、運びすぎて値が下がっても本能のようにじゃんじゃん運びます。そこで下朝鮮のコメはどんどんキタ朝鮮に運ばれました。

つまりキタ朝鮮にせっせと食料品を送りキタ朝鮮からタバコを運んでくるということを国家ぐるみでやっていたものです。その後、南北対立みたいなことがあってからは食糧援助などで品物やお金が動くところに付け入って1990年代には途中で抜け荷をするという非常にわかりやすい経済構造を現在になっても続けていました。

 

兵隊の給食だって不正するでしょ。そういうのが伝統なのです。そいうのに反発した軍人もいたようですが、ニホン式の教育を受けた人たちだったので親日人名名簿みたいのに名前が残ってたりします。現在でもよい評価を受けていませんね。

 

 

 

護国の英雄とかいう与太話 ペク・ソンヨプ 

あのペク将軍が100歳だそうですよ。護国の将軍なんて言い出したやつはポンコツですね、大佐の彼は自身の指揮する開城陸軍第1師団がキタ朝鮮軍に蹂躙されると部下のすべてを置き去りにして大統領より早く釜山まで逃げていました。手ぶらの兵隊が釜山に集まってみると彼の部隊は釜山で再編されたことになりますが、大火事の伝馬町牢屋解き放ちみたいなことになっていたのです。えぇほとんどが集まらなかったんです。 えっ?部隊を再編しながら北朝鮮軍を攻撃して戦果を挙げて釜山まで後退したですって? それを信じちゃバカですよ。事実じゃありません。

その間を従軍にカウントした軍人年金受給者が「受給期間に含まれない」として却下されたことがありました。つまり彼の部隊はそれっきりです。なんで受給期間に含まれないのかというと韓国軍の存在が無くなってしまったからです。  なんで?

韓国軍の指揮命令権は国連軍の米軍に授受されていたのです。李承晩が「マッカーサー元帥に指揮命令権をお渡しできることをうれしく思います」なんて言ってましたからそっちが正しいようです。 その日から韓国軍は解散して米軍の荷役部隊として再雇用されました。お給料は米軍持ちなので韓国の従軍記録には残らないわけです。

 

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▲これが韓国軍のなれの果て あるいは米軍の募集する荷役隊に応募した韓国男子

 

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▲韓国軍が解体されると焦りから国民防衛隊として ”韓国軍” を再編しようとしましたこっちのほうが年齢が若い

 

 

米軍とペク将軍は同じ釜の飯、お給料も米軍から支給されていた

何で米軍はペク将軍が好きなのでしょうか。それは彼の身分が米軍に派遣された同盟国の将軍だったからです。パットン将軍のような白いグリップの大型拳銃をアメリカの大統領から貰ったこともあるんです。

 

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▲ロバート・エイブラムス在韓米軍司令官(左)がマイケル・ビルズ米8軍司令官(右側)と一緒に、白善燁(ペク・ソンヨプ)予備役陸軍大将の100歳の誕生日を祝って撮った写真。

 

このお二人はペク将軍のことなんて全然知らないので「韓国戦争の国民的英雄」なんて言っちゃうわけです。彼の指揮した部隊なんて無かったことはご存じないのです。

誰かペク将軍の部下の証言を探してみてくださいな。

 

ペク将軍の拳銃の思い出

 アメリカ育ちの韓国軍少佐手記:「ほとんど彼の通訳として同行していました、いつも米軍といっしょに行動していました」、「彼が軍の部隊を指揮したことは無かったと思います。」、「韓国軍少佐だった私の給与は米軍から出ていました、ペク将軍も軍人として米軍から給与を受け取っていたはずです、なぜなら韓国軍の指揮命令系統はすでに解体されていて兵食や衣類はすべて米軍から支給されていたからです」、「ペク将軍は階級が将軍だったので任命権は李承晩にあったのです。だから新幹線よりも早く進級しました(彼が大将になっても私は少佐のままでした)」、「将校だと拳銃を持ち歩かなければなりませんが、かれは丸腰ですね。私もペク将軍も銃を持たせてもらえなかったのです、それを悲しんだ米大統領がペク将軍にリボルバーの大型拳銃を進呈したことがあります。」多分コルトSSA45ではなくコルトM1911オートの象牙グリップだった。「ペク将軍の拳銃は士官学校に展示されていましたが大使をやって帰ってくると無くなっていたと聞きました」

 

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左写真は丸腰のおっちゃん、右写真のサスペンダーにもホルスターは無い

 

 

「韓国兵の米軍式新兵訓練施設が大邱に新設されると糧食のほかに必要なキムチは演習地の農家を言葉巧みに避難させ根こそぎ奪ってきました。」

 

 

ヒデヨシのお伽衆の室町将軍や佐々成政みたいに1万石の大名扱いってことです。ウン

 

 

 

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