護国の英雄とかいう与太話
目からウロコの韓国史㉓
日曜特別読み切り:ペク将軍と拳銃のハナシ
護国の英雄とかいう与太話 ペク・ソンヨプ お前見てきたのかよ
奴も韓国人だぜ 江南の自社ビルとか知らねぇんだろ
開城市(ケソン市)は今はキタ朝鮮ですが、当時は韓国側最北端に位置し古くからの古都(アタリマエジャン)で知られ、ソウル遷都の前には都があったような立地です。今はキタ朝鮮軍の駐屯地になっている開城第1師団には韓国軍の痕跡は全く無いそうです。(ニホン陸軍の使っていたレンガ兵舎は今も残っている)
まぁ当時の開城の先の国境には遮断機があるだけで、民間人の徒歩での出入りは自由でしたし、軍人が近所の農家から徴発するのは当たり前だったので終戦から5年目の1950年当時でも、ニホン式の軍服を着たのが警備したり徴発したりしていました。※韓国軍が米式装備支援を受けたのはソウル奪還後だかんね
▲だからこんな思い出もたしかにあったわけです。赤い腕章には(헌병)憲兵ってね
当時の韓国軍は徴兵制ではなく、食い詰めたり警察に追われた韓国青年が3度の麦飯目当てに集まるような組織ですよ。入隊もその場で姓名と生年月日、家族構成を口頭で申告して指印で即採用です。しかも定数が揃ったことは無く開城陸軍第1師団なんて言っても全員が整列してみるとそのたびに増えたり減ったりしていたみたいです。実数との差は部隊の上層部の取り分となるので充足率は70%台だそうですが、それさえも疑わしいし、当時の兵隊には名簿すら存在していません。そんな最前線の開城陸軍第1師団なんてところの師団長ですから当時の韓国には優秀な人材が枯渇していたことがよくわかります。
▲ゲートル巻きの日式装備の南朝鮮国防警備隊~韓国軍、銃剣は30年式ごぼう剣ね
ちなみに当時の韓国軍の武装では小銃はType99改。つまり30.06口径の九九式小銃ではありません、ニホン軍が残してきたものをそのまま使って朝鮮戦争が始まったのです。
朝鮮戦争の勃発を受けて、大韓民国国軍の小銃不足を補うため、アメリカ軍が接収した九九式短小銃を改修して装備することになった。これは薬室を削り直して7.62mm×63弾(.30-06スプリングフィールド弾)を使用できるようにするもので、改修は東京兵器補給廠(TOD)で行われていた。また日本で警察予備隊が発足するとこちらにも配備されることになり[5]、名称は九九式口径.30小銃で、配備数は約75,000挺、改造のベースとされた九九式短小銃は日本国内の他米国からも供与(返還)が行われたという。
さて開戦の当日には早々と開城市がキタ朝鮮の手に落ちます。遠くで聞こえる銃声がまばらになるころロシア式の軍服を着た朝鮮人がやってきたわけです。逃げなかった市民のハナシによると食べ物や水の要求があり、きちんとタバコなどを置いて行ったそうなので、キタ朝鮮軍のほうが規律が良かったんですね。
ええ、開戦前でも物々交換で国境の出入りをしていた開城市民はロシア式軍服の北朝鮮兵を見慣れていましたから兵隊の種類が変わったくらいしか感じなかったようです。
当時の北朝鮮軍の軍服は独ソ戦のお下がりですよ。ですから「愛の落下傘」みたいのを想像しちゃいけません。
さて、6.25が本格的な侵攻だと分かると取り残された韓国兵はそれぞれに南をめざして南下します(アタリマエジャン) 真っ先に重たい銃はそのまま銃架に置き去りにしてちゃうし、軍服を着ていると落ち武者狩りに合うので農民を脅して着ている物を奪います、お腹が空けば盗みに入り、何よりも脱走兵は銃殺なので警察と軍服から逃げ回りました。釜山まで来てみると市内は開戦と後退でごった返していましたが、町の噂から軍部隊を再編していると聞いて迷った挙句に空腹に耐えきれず一部の兵隊はふたたび陸軍第1師団の門をくぐります(当時陸軍第1師団は釜山の小学校に在った)このあたりの釜山までの逃避行はかなり長々とあります。
その頃、キタ朝鮮軍は規律が良くてソウルの市民には歓迎されてました(うそじゃないかんね)
円筒形は米軍供与のバズーカ砲かな?独ソ戦のお下がりです。使い道無かったけどね
▲キタ朝鮮軍を歓迎する花電車はソウル解放時に焼き討ちされた。
一方その頃、手ぶらの兵隊が釜山に集まってみると彼の部隊は釜山で再編されたことになりますが、大火事の小伝馬町牢屋解き放ちみたいなことになっていたのです。えぇほとんどが集まらなかったんです。 えっ?部隊を再編しながら北朝鮮軍を攻撃して戦果を挙げながら釜山まで後退したですって? もうすでに武器を捨てて後退している部隊に戦えって言う方がどうかしてるですよ。それを信じちゃバカですよ。事実じゃありません。命令もないのに戦ったら軍規違反ですよ。負け戦になったら個人の判断で戦っちゃうやつは馬鹿です。みんなのいるところまで行くのが先決です。だって、個人なんてコマンドーやランボーみたいのは存在しませんよ。部隊で行動してないやつが小銃背負ってたり拳銃持ってたらすぐ通報されちゃうのは今も同じでしょ。
でもね、そんな戦線後退時期を従軍期間ににカウントしてくれって言い出した軍人年金受給者が「従軍期間に含まれない」として却下されたことがありました。つまり彼の部隊はそれっきりです。なんで受給期間に含まれないのかというと韓国軍の存在が無くなってしまったからです。そいうわけで朝鮮戦争従軍で年金を受け取った兵隊はほとんどいません。
なんで?
韓国軍の指揮命令権は国連軍の米軍に丸投げされていたのです。李承晩が「マッカーサー元帥に指揮命令権をお渡しできることをうれしく思います」なんて言ってましたからそっちが正しいようです。 その日から韓国軍は解散して米軍の荷役部隊として再雇用されました。お給料は米軍持ちなので韓国の従軍記録には残らないわけです。これが開戦から3週間目ですね。ってことでこのあとは米軍の記録になります。 それ以外の活躍の記憶はすべてフィクションか創作でしょう(もちろんそれ以前の撤退戦での大勝利もすべてデタラメだね)
原則的に主権国家の作戦権は、その国の軍統帥権者が有している。 しかし6·25戦争勃発直後の1950年7月14日、李承晩大統領がマッカーサー国連軍司令官に韓国軍の作戦指揮権を委任した結果、韓国の作戦権は大統領から国連軍司令官に移譲された。 作戦統制権は作戦計画や作戦命令上に明示された特定任務や課業を遂行するために指揮官に与えられた権限だ。 作戦統制権は主に時間的·空間的·機能的に制限された特定の任務と課業を遂行するために指定された部隊に任務を付与し、部隊を展開して再割り当てするなどの権限を言う。
だから朝鮮戦争中の韓国軍の活躍は米軍に記録として残っているのです。せんそうでジャンジャン死んじゃうアメリカの若者より、韓国の将軍が戦っているなんていう厭戦プロパガンダに利用されたのがペクヨンソプだったのです。そいだけですよ。
▲これが正しい参戦韓国軍精鋭のようす。あるいは米軍の募集する荷役隊に応募した韓国男子。手にもっているのは杖、履物は米式の半長靴にレギンス(脚絆のいいヤツ)
▲軍幹部は韓国軍が解体されると焦りから国民防衛隊として ”韓国軍” を再編しようとしました。こっちのほうが年齢が若いね、やがて全滅するんだけどね(ここは履物に注目、ゴム靴の登場はもっとあと)
米軍とペク将軍は同じ釜の飯、お給料も米軍から支給されていた
何で米軍はペク将軍が好きなのでしょうか。それは彼の身分が米軍に派遣された同盟国の将軍だったからです。パットン将軍のような白いグリップの大型拳銃をアメリカの大統領から貰ったこともあるんです。アメリカの軍人だったらこれはもう問答無用で最敬礼しちゃうんです。だって軍人の最大の名誉じゃないですか。勲章もたくさん貰いました。
▲ロバート・エイブラムス在韓米軍司令官(左)がマイケル・ビルズ米8軍司令官(右側)と一緒に、白善燁(ペク・ソンヨプ)予備役陸軍大将の100歳の誕生日を祝って撮った写真。
※あの戦車M1のエイブラムスっていうのが古い将軍で、そのせがれがエイブラムス在韓米軍司令官ね
このお二人はペク将軍のことなんて全然知らないので「韓国戦争の国民的英雄さま」なんて言っちゃうわけです。彼の指揮した部隊なんて無かったことはご存じないのです。
誰かペク将軍の部下の証言を探してみてくださいな。
ペク将軍の拳銃の思い出
アメリカ育ちの韓国軍少佐手記:「ほとんど彼の通訳として同行していました、いつも米軍といっしょに行動していました」、「彼が軍の部隊を指揮したことは無かったと思います。」、「韓国軍少佐だった私の給与は米軍から出ていました、ペク将軍も軍人として米軍から給与を受け取っていたはずです、なぜなら韓国軍の指揮命令系統はすでに解体されていて兵食や衣類はすべて米軍から支給されていたからです」、ペク将軍はアメリカでも将軍だったのですか?「ペク将軍は階級が将軍だったので任命権は李承晩にあったのです。だから新幹線よりも早く進級しました(彼が大将になっても私は少佐のままでした)」、「将校だと拳銃を持ち歩かなければなりませんが、かれは丸腰ですね。私もペク将軍も銃を持たせてもらえなかったのです、それを悲しんだアイゼンハワー米大統領がペク将軍にリボルバーの大型拳銃を進呈したことがあります。」 ※多分コルトSSA45ではなくコルトM1911オートの象牙グリップだった。
「ペク将軍の拳銃は士官学校に展示されていましたが大使をやって帰ってくると無くなっていたと聞きました」 ※アメリカでオークションに出たことがある
追記:このアメリカ育ちの韓国人少佐はペク将軍の大使赴任にも同行したそうです
▲この手の装飾銃は市販品と同様に鉄砲店でいつでも売っている量産品
次回予告
なぜ、韓国人は日章旗に反応するのだろうか❻
韓国でよく燃やされ破かれる日章旗はニホン軍の侵略の証だという。たしかに朝鮮半島に進駐していたニホン陸軍であれば、「連隊旗」の模様は現在の日章旗とおなじだ。
朝鮮に駐屯していたニホン陸軍は時期にもよるが最大でおよそ6000人程度である。そのほとんどが営内に住み官舎に住む者もいたようだ。このほかに憲兵隊が10000人くらい
憲兵がたくさんいたが、およそ半数の現地採用の朝鮮人憲兵は素行がわるく問題になることが多かったようだ。 つまり朝鮮人の彼らは連隊旗なんて見たことも無いのだ(むしろ朝日新聞の沿道応援アカヒ旗のほうが見慣れていただろう)
さて、海軍旗が日章旗であるのも一緒だが、ニホン海軍と朝鮮半島とのつながりは、釜山港が軍港であり、あとは元山(今は北朝鮮)に航空隊があったくらいである。そんな海軍連合艦隊では朝鮮人を採用しなかった。つまり海軍は朝鮮(あるいは二等国民)との関わり合いを避けていたようだ。 ※ニホン軍出身の韓国軍人のなかに海軍縁故者は皆無なのである
じつは韓国の日章旗嫌いはここに原因があったのである。ニホンは海軍について朝鮮人に何も教えなかったことが今も彼らを刺激しているのだ。
1948年頃にいよいよ朝鮮・韓国も独立してみると、南朝鮮国防警備隊は国軍の体裁をとるようになり彼らも海軍も欲しくなった。韓国の初代海軍参謀総長は孫元一という。かれは軍人を経験せずに二等航海士からいきなり海軍のトップになった人だ。彼の乗艦した船が戦闘したこともないし、彼自身が戦闘に参加した経歴もないのである
また彼の中国での経歴はそのほとんどがウソだったことが明らかになっている。
単に李承晩に気に入られた(というより韓国人で船乗りという経歴が珍しかった)ことで初代の海軍総司令官になったりもした。(これは航海士の制服が軍服に似ていて選ばれたのだと知られている)
ペク将軍らニホン陸軍あるいは旧満州軍出身者が韓国軍のなかで重責を占めるなかで唯一軍人の経歴を持たない彼は、後ろ盾となる李承晩が海外逃亡すると他の軍主要人物が次々に海外の大使に出世するのを横目にただの民間人となるしかなかった。
近年になり韓国海軍が大洋艦隊宣言を出し、孫元一を見直すようになると、ここで韓国型思考がいかんなく発揮されることになった。ニホン海軍が何も教えてくれなかったことへの反発が高まることになった。つまり今も彼らが憎いのはニホン海軍の日章旗なのである。 ちなみに孫元一は潜水艦に名前を残したが、輪切りとなった214級潜水艦はネームシップの度重なる不具合から現在では 張保皐Ⅱ級潜水艦と呼ばれている アハハ