minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

河川に実弾30発とk2小銃1挺を落とした

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一等兵、最前線で川に銃を落す

増水した川に落とした銃は水が引くのを待って捜索する予定
韓国軍の銃の紛失ってどのくらいある? ひゃあ びっくり



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[国防ミーナ]この11日午後2時48分ごろ、江原道鉄原(カンウォンド・チョルウォン)の陸軍某部隊A(21)一等兵が対侵入総合訓練中に実弾30発とk2小銃1挺を紛失する事故が発生した。
 
12日、軍当局によると、同日、A一等兵は、訓練中に徒歩で移動し、雨天によって滑って河川に実弾30発とk2小銃1挺を落としたという。
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幸い、A一等兵はすぐに同僚たちによって救出されてけがをしたり、目だった外傷はなかった。

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現在、軍当局は、この河川の水位が前日降った雨によって高く、捜索作業を展開することができないので、水深が下がることを待っている状態だ。

軍関係者は "前日に降った雨に河川流れが速く、水深が深く、2次事故が憂慮され、現在は、捜索作業を行っていない状態" だとし、"水深が下がるなど、安全性さえ確保できたらすぐ金属探知機などの装備を活用して紛失した実弾と小銃を捜索する計画だ" と話した。

一方、今月11日の1日間、江原道鉄原郡(カンウォンド・チョルウォングン)に降った雨の量は34.5ミリだった。


(ソウル/みそっち)




実は朝鮮戦争初期(1950.6.25~1950.12.31)に韓国軍が紛失した武器というのが国連軍に報告されています。これは韓国軍を後方で再編成して武器を供与するつもりで報告させたものです。
(注:同年9月の仁川上陸作戦には韓国軍は全く参加していない)

1950年6月25日~12月31日まで韓国軍が亡失した銃砲は個人火器、機関銃など各種の火器を含めて65,472挺。 このうち個人火器のカービン小銃は14,785挺、ガーランド31,250挺、マシンガン468挺、自動小銃1,379挺、拳銃1,283挺で、計49,165挺だった。 カービン銃とM1ガーランドだけでも5個師団が完全武装しても残る量だ。(このほかに機関銃や60㎜迫撃砲などがある)http://www.earticle.net/Article.aspx?sn=244024
※個人火器じゃないその他の火器が多すぎる気がする

というような惨状が韓国人の参戦した近代戦闘の1年目の総決算ってことでした。
この中には手ぶらで後退した将兵の銃ばかりでなく、銃と一緒に行方不明になった者や、帳簿上にだけ存在していた兵隊が持っていたことになっていた銃などが含まれています。 その後1970年代までに回収されたり発見された銃が7000挺ほどでしたからほとんどがキタ朝鮮や中共軍に戦利品として持ち帰られて5個師団くらいに装備されたと結論付けされています。(米軍供与の装備品で完全武装したキタ朝鮮親衛師団説)※それさえも嘘じゃないかという疑惑もある


その後なんですが、武器の紛失はね、韓国軍では無いことになっているのですよ。無いのです どうやらこれは何年かごとにリセットされるみたいなんですよね。





失くすのが伝統の韓国軍

まぁ古くは朝鮮戦争のころのハナシになるんですが、


"あなたの軍団はどこありますか?"、"わからない"

縣里の戦いで惨敗した韓国第3軍団は、米第8軍司令官ヴァン・フリート将軍によって1951年5月26日、電撃的に解体された。 また、1軍団指揮権も米8軍が直接統制するなど、作戦統制権が米軍に引き渡されるきっかけとなった。
※作戦統制権は1950年7月13日に国連軍が継承している。すなわち韓国軍はその時点で解隊されたことになる
 
当時、韓国第3軍団解体の過程でヴァンフリート将軍と劉載興(ユ・ジェフン)将軍との対話は有名なエピソードで残っており、これも軍内外では取りざたされている。

ヴァン・フリートは、"劉将軍、あなたの軍団は今どこですか?" すると、劉載興(ユ・ジェフン)将軍は "分からない" と答えたという。
これにヴァン・フリートは "あなたの隷下師団はどこですか? すべての砲と輸送装備を喪失したというのか."と詰問すると、"そうです。"と答えた。 これにヴァン・フリートは"あなたの軍団を解体します。 他の補職でもやってなさい!"と話した。

イメージ 2んまぁわかりづらいのはいつもの通りですけど、劉載興(ユ・ジェフン)将軍っていうのがいて縣里戦闘っていうので兵力の6割を失ったのだそうです。それは1951年5月ですね。
※武器を捨てて逃げたので壊滅だったらしい

韓国軍の将軍ですからこれはもう、ニホン陸軍に4年いただけで、朝鮮戦争前から韓国軍の偉い人だったのですよ。ニホンでお馴染みのペク将軍とどっちが偉いのかというと、進級はちょっと早くてどっちも師団長だそうですから似たようなものなんですけどね

そしてこのひとは割と長生きしたのですが、2011年に亡くなりました。朴正煕のころに重用されて、タイ、スエーデン、イタリアなどの大使をやってましたよ。(これを左遷とも言う)ぺク将軍のほうはその時に中華民国(台湾)の大使でしたから軍人出身者としては破格の昇進ですよね。(階級が少将だった朴正煕が追い出したとも言う)

埋められたのは国立顕忠院というお決まりのコースです。するとそれに反対する意見が出てきたのですね。『最悪の敗戦将軍を国立顕忠院に埋めるのか』ってね。


イメージ 3ぺク将軍ってまだ生きてるじゃないですか、でもあの人だってひどいんですよ。ぺク将軍はソウル陥落前は開城(現キタ朝鮮)にあった第1師団長ですが、戦争開始から2日で部隊は後退しながら漢江を命からがら渡って集結してみたら部隊が見当たらなかったと言うんです。
ええ、ぺク将軍の部隊があったのはその時までですよ。彼はその後、”戦う韓国人将軍”ということでお写真には登場しますが、彼が指揮した部隊はどこにもないのです。 つまり稀代の敗戦将軍といえばぺク将軍のほうなんですよ。 彼は自分の師団のあった場所をキタ朝鮮軍に占領されたという韓国軍でも指折りの将軍ってことなのです。 
開城市開城工業団地のあるところ

さておき、心配してるのはぺク将軍(今年で98歳)が死んだらきっと”最悪の敗戦将軍”と呼ばれるのかなってことなのです。ニホンでも彼の信望者がいるらしいんですが、とにかくひどいんですよ。

イメージ 4ぺク将軍の”超時空戦記”はいくつかあるんですが、最近になってまとめられた インタビュー みたいのがわかりやすいと思います。彼自身の口から”彼の部隊”の動向はひとことも出てきません。そりゃそうです指揮してたのは開戦前だけなのですから。

朴正煕の時代には軍人の地位を上げることが必要だったのでしょう。
そうなると、韓国軍の大活躍さえも組織的に捏造するようになったのです。

ところが、韓国軍は朝鮮戦争の時に大統領の李承晩はわずか3週間目(7月14日)に軍事統制権、作戦統制権を米軍に渡してしまいます。これってつまり、指揮命令系統が米軍の指揮下に入るってことです。すると戦闘の記録も米軍に残ることになるんですね。
 
38度線近くに配置されていた開戦時の韓国軍の総兵力は公称で9万8千人くらい。ソウル陥落時に点呼を取ったら多く見積もっても2万3千人くらい。釜山後退時には実質1万人弱程度まで減っていました。その間にロクな交戦も無かったはずです。どこへ消えたんだってなりますが。最初から兵隊なんていない師団もあったようです。「500人の兵隊がいるから毛布や食料、燃料をくれ」というのが韓国人の指揮官の仕事で、それをせっせとキタ朝鮮に売っていたのが現実ですよ。実際には200人くらいの部隊なのにね。
だから正確な死者数なんてワカンナイのです、朝鮮戦争で死んだ軍人って恩給貰ってないでしょ。そいうことですよ。
 


そうなると、自由に創作できる超時空戦闘記録というのはそれまでの期間だけということになりますよね。なにしろ戦闘の全てをアメリカ人が命令して、その結果もアメリカ人が記録しちゃうわけですからインチキができなくなるのです。


そういうわけで、韓国軍の”まぼろしの大戦果”である、大韓海峡海戦とかムスタング空輸とか爆弾十勇士みたいなヨタ話は、全部が開戦初期の記録が韓国側にだけあるというところだけにしか無いということなのです。
しかもそれらの与太話が出てきたのは恐れ多くも、朴正煕の時代になってからというわけです。朴正煕の時代に、その取り巻きがどんどん戦果を水増ししたのです。※これを朝鮮式実学の時代と呼ぶ


朴正煕自身は朝鮮戦争では大した活躍をしていませんから、当時から有名だった各種将軍が邪魔だったので、もちろん口封じのために各国大使に任命して追いだしを図りながら、彼らのいなくなったところで戦果の水増しをしたというわけです。
あることないこと自慢して話す韓国人ばかりのなかでニホン軍出身の将軍ってあんまり話さないじゃないですか。

海外の大使を歴任してきた韓国軍の将軍が韓国に戻ってきてみると ”アメリカからも勲章が届いていたし、自伝まで出版されていた” というのですから、その驚きようといったら無かったでしょうね。

指揮したこともない部隊が大活躍してキタ朝鮮軍を蹴散らしたと言うのです。
そういうわけで韓国軍の旧ニホン軍だった将軍らはみんな無口なのです。
※このあとの全斗煥盧泰愚あたりの戦後世代になるとベトナムでの活躍なんかを自慢気になって何度も繰り返してみたりしています

んで全斗煥なんですが、ベトナム派遣軍で指揮を執っていました。その時の韓国軍はおそるべきことに『武器紛失ゼロ、捕虜投降ゼロ』なんてことを自慢するようになっていたのです。まさに ”韓国人が理想とする戦争での大活躍” をしてきたのですね。
その後、いないはずの捕虜だったのがキタ朝鮮経由で帰ってきたけどな。

その伝統を受け継ぐ現代の韓国軍では武器の紛失なんて無いのです。脱走兵だって憲兵隊より先に見つければ迷子の遅刻で済ませているのです。
それさえも新聞記事にならなければ憲兵隊も”捜索演習” だったことにしちゃう隠ぺい体質なのです。(スゴイダロ)