minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

韓国軍は本当に仁川上陸作戦に参加したのか?



"仁川上陸作戦の作戦の図面が消えた"


韓国海兵隊が仁川上陸作戦に参加したという記録がないなんて
戦闘に参加した将軍も言葉を濁すばかり、本当に韓国軍は仁川に上陸したのか?
米軍の資料によれば韓国軍の本格参戦は中国軍の反攻にあわせ1951年以降



イメージ 1[国防ミーナ]仁川(インチョン)上陸作戦を素材に映画を作るという話を聞くや否やその製作者を探した。 戦争と関連した本は大部分が一万部も売れないのが現実だが、映画はうまくいくと数百万からたちまち千万だ。
このように影響力を持った映画というメディアの完成度を高めるため、シナリオを事前に確認して事実と異なる部分を直さしてもらえたら、これこそ戦争史研究者の甲斐だという気がした。


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普段から知っていた映画製作者から歌謡作曲家たちまで電話を回した。 うわさを頼りに映画監督の電話番号を確認したが、私の文字メッセージに彼は返事しなかった。 ある日、国防部軍事編纂研究所史料閲覧室に見知らぬ男女が座って何かを熱心に見ていることに何か用かと聞き返した。 こんなことが。 彼らが映画〈仁川(インチョン)上陸作戦〉の助監督だった。


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▲仁川上陸作戦を軸に恋あり笑いありの本格空想活劇


以降、事は一瀉千里に行われた。 映画のシノプシスと台本を先に受けた。 台本の各頁には、流出を防止するため、受領人の名前が門の扉にウォーターマーク処理されていた。 以降に製作部長、各チーム長と助監督たちを次々に出会い、映画助言を開始した。 撮影現場に出ている彼らとは主にSNSメッセンジャーと電子メールを利用して意思疎通をした。
 
担当分野は軍事全般に関する考証だった。 しかし、後には作戦、戦術と同じ教理分野はもちろん、韓国海兵隊のボタンの色までも討議しなければならなかった。 美術、衣装チームからの連絡も時々来た。
韓国内の軍事考証分野には専門家がいないうえ、特に、仁川上陸作戦に関する内容は映像や写真が貴重であることから考証が非常に難しいためだった。 ちなみに、ここに載せる写真と文章、説明は相当数が、最初の発掘で、初公開であることを事前に明らかにしておく。
    


上陸戰団はどのように仁川に入ったのか
 
仁川(インチョン)上陸作戦の考証が難しい理由のうち、まず第一なのは当代DデーHアワーの映像、写真がないということだ。 時間と場所の奇襲が肝心の秘密作戦だった、そのため軍事作戦以外の要素を徹底的に排除したためだ。 すべての記録は5分内外の映像一つと5枚前後の写真だけがすべてだ。
 
※写真は無いけど上陸に参加したアメリカ兵はたくさん記録が残されています、もちろんネットでもすぐに拾えます、戦友会だってあります。韓国人はどこにも写っていません。


第二には、人手不足、編制未組成が挙げられる。 つまり、映像、写真を撮る人がなかったという話だ。 1945年9月9日までなら、米軍は強く、大型だった。 第2次世界大戦の慣性だった。 戦闘や戦闘勤務支援部隊がツーカー状態だったので、航空写真撮影などが可能だった。 しかし、すぐ動員が解除され、国防関連人員と予算が削減され、米軍はこれ以前と同じではなくなった。 6・25戦争が勃発した時、極東軍司令官が運用できた師団が24師団のうちのたったの一つだったという事実がこれを反証する。
 

だから仁川上陸作戦の上陸シーンを撮影することにした際、映画〈真珠湾〉や〈プライベート・ライアン〉のように臨場感あふれる画面を構成できる源泉素材がなく、製作陣の悩みが大きかった。 映画撮影過程に何度も問い合わせが来てKBSと国防広報院の資料室まで聞き込みしたが、結局なにも出てこなかった。

※韓国軍が上陸作戦に参加したという公式記録は韓国国防広報院にも無い、1950年夏に済州島海兵隊部隊を徴用し編成したという記録も無い。韓国軍海兵隊の活躍は1952年頃から散見できる


仁川(インチョン)上陸作戦当時、上陸部隊の編成と進入順序はどうだったか、マッカーサー将軍がどこに位置していたかどうかどこにもその記録はなかった。
 
そのため、ここに提示する写真、1945年9月9日、米軍が仁川(インチョン)に進駐した当時の記録が流用して貴重である。 米国立文書記録管理庁(NARA)RG59、国務省ファイルとRG338陸軍ファイルに関連文書と写真が保管されている。

※米軍側にも仁川上陸作戦の記録は本当にほとんど残されていない、さらには韓国軍が米軍上陸部隊と一緒に上陸作戦に参加したという記録も一切無い。上陸用舟艇が直前まで足りずに米軍部隊では装備の一部を後送したのに韓国兵を乗せる余裕などあるはずがない。韓国軍海兵隊の活躍という文言は恐るべきことに停戦後に湧き出てきたらしい。


 

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▲1945年9月6日に米軍が仁川沖に到着したようす(朝鮮戦争時ではない)


1945年に日本軍を武装解除して南進するソ連を牽制する目的で米軍は韓半島に上陸した。 同日、仁川に入ってきた米軍の編制、進入ルートは、仁川上陸作戦のそれと非常に類似している。 この写真(〈写真1、2〉)を製作陣に提供したとき、視覚効果(VFX)チームは万歳を叫んだ。
 



 
金大植(キム・デシク)大佐のボタンの話
 
仁川(インチョン)上陸作戦という歴史的事件で上陸船団の規模、大型、方向と同じ要素はスケールがとても大きなものと、制作スタッフは映画でも迫力あふれるコンピューターグラフィック(CG)と表現することだ。 大きくてはきはきした上陸船団の機動に比べたら海兵第1連隊長の金大植(キム・デシク)大佐のボタンの形の問題は何もないように見えるかもしれない。 しかし、そのボタン一つに込められたストーリーの包みを解いてみたらの中に入っている内容物が、一つや二つではない。
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▲彼が戦史に登場するのは李承晩と一緒にソウル解放後の9月29日である


衣装チーム長と仁川(インチョン)上陸作戦当時、韓国軍海兵隊の服装と関連した細部の考証をしていた時だ。 参考にするような資料がなくて、俳優たちに何をどのように着せなければならないか困惑した。 1950年9月に海兵隊は、仁川(インチョン)上陸作戦のため、急きょ済州島で約3000人余りの身柄を集めて1個連隊規模の編成を終えたばかりのところだった。 それで関連写真や記録がほとんど残っていないのである。
 
済州島海兵隊部隊が編成されたのは事実だが、1952年になってからのこと、参戦したとされる3000人は顔も名前も給与支払記録さえも残っていない。
1952年に編成された部隊は訓練中に停戦を迎えるため実戦には参加していない。



そうしているうちに使用していない国防部軍事編纂研究所の倉庫を整理して紙封筒に入っている写真の束を見つけた。 開けてみると、初見の資料たちがどっとあふれ出た。 どんな理由でここにあったのか分からないが、ほとんど唯一本、貴重な本の6・25戦争期、1960年代、国防関連の写真だった。 次〈写真3〉から見てみよう。


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この写真には何の日付記録もない。 しかし、背景の地形と既存の海兵隊の戦闘史を比較してみると、この写真は、釜山港に集結した韓国海兵隊を撮ったものだ。 上陸作戦訓練を受けるため、釜山に集結した9月6日に推定される。 当然最初の発掘、初公開だ。

※写真は釜山港だが兵隊の装備が米式になっているので停戦後に撮られた一枚だと断定できる、韓国兵が米式装備の配給を受けたのは停戦後の1954年~である、これは軍需衣料類の移動記録からも明らかだ。 


〈写真4〉も一緒にあった。 裏側の背景を見てみるとここは仁川港だ。 上陸作戦部隊が、地上作戦を展開するための足場を作った後、陸地に上がっている韓国軍海兵隊の姿だ。 防弾ヘルメットには部隊と職責を認識できる表示をしておいた。 これも初の発掘、初公開だ。 宝箱が開かれたのだ。
 
※ヘルメットに書かれている白いペイントは金大植(キム・デシク)大佐がその後指揮することになる韓国海兵隊第1師団のものと同じである、すなわちこの写真▼は1955年以降に撮られたものだろう。

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次の〈写真5〉を見てみよう。 結論から言えば、写真の中の人物は第2代海兵1連隊長だった金大植(キム・デシク)大佐だ。 もちろんこれも初公開される写真だ。
 


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なぜか服装は、米陸軍の服装だ。 どうして陸軍服装なのか。 韓国海兵隊がこの時できたばかりだったので彼に合う軍服が供給されなかったためだ。 とり急ぎ左側胸に'海兵隊'とネームを貼っておいた。 また名札の代わりに胸の左側上段にペンでゴツゴツと'の金大植(キム・デシク)'と書いてある。
※彼の着ているのは戦闘服ではなく作業着に分類される
 

この写真一枚に6・25戦争当時、韓国軍の物資と装備の失政を知ることができる。 6・25戦争が勃発した時、李承晩(イ・スンマン)(李承晩)大統領が極東軍司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)将軍に打電した電文第1号の内容が'韓国軍に銃器や弾薬を送ってほしい'で占めていたほどだ。
 
※開戦当時の韓国軍10万人はニホン式の軍服が支給されていました。


ところでの金大植(キム・デシク)大佐の戦闘服を拡大した同写真をよく見ると、もう一つの興味深い事実がある。 ボタン(〈写真6〉)だ。 とても特異だ。 ボタン穴は見えてない中で文様がある。 一体これは何のボタンか。 なぜこのボタンなのだろうか。
 
もともと米陸軍戦闘服にかかっているボタンは穴4つのの平凡なプラスチックボタン(〈写真7〉)だ。
 
これは、縫い目が表に露出されている。 このようなボタンは陸に上がるとともに地面を匍匐しなければならない海兵隊に合わない。 長持ちしない、摩擦によって糸が別れたらボタンが全部なくなっていくためだ。 そこで、海兵隊は、縫い目が内側に隠れる特殊ボタン(〈写真8〉)を戦闘服に使用する。
 

それなら答えが出ている。 韓国海兵隊は米陸軍戦闘服を支給された。 他のものは臨時方便で形を出したり、なくても大きく問題にならない。 しかし、ボタンは問題が異なる。 それで、誰かが米陸軍が持った物資のうち、外出着ボタンを活用しようというアイデアを出したのだ。 米陸軍外出着のボタンは下の〈写真9〉のように縫い目が外に明らかになっていなかったからだ。 この写真は前記のとおりの金大植(キム・デシク)大佐が戦闘服につけていたボタンとその模様が同じだ。 中に白く塗った部分は初期、米国の13州を意味する。

※この理屈では陸軍は匍匐前進しないのだと考えているようだ


 

マッカーサーはパイプでタバコを吸ったのだろうか
 

ダグラス・マッカーサー将軍の象徴のひとつであるパイプ。これをどのような形で製作するのか。 マッカーサーはこのパイプをどのようにくわえて、またどのように握っていたのか、それで喫煙をしたのかなども製作陣の悩みの種だった。
 
筆者は2009年にバージニア州Norfolk市の米合同参謀大学で米軍たちと軍事作戦の過程を修了した。Norfolkには、マッカーサー記念館がある。 団体で観覧を行った日、東海は'Sea of Japan(日本海)'に記載されたことを発見し、3週間程度説得して'East Sea(東海)'に変えた。 その3週間展示されていたマッカーサー将軍の各種の所蔵品とそこにまつわる話をじっくり読んで覚えていた。 マッカーサー将軍のパイプに対して返事をくれた理由だ。
 
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6・25戦争写真によく登場するマッカーサー将軍のパイプは一種の装身具だったと思えばいい。 彼はこの記事の最初のページの写真のようにコーンパイプを聞いたり、持っていた。 〈写真10〉のようにトウモロコシ芯と手数のまま作れた大きく長いものであった。

 
イメージ 8同時にこれは鞭、指揮棒のような役割もした。 喫煙のためのものはなかった。 一度は、制作陣が"米国のリアム・ニーソン(Liam Neeson、映画〈仁川(インチョン)上陸作戦〉のマッカーサー)側から連絡が来たが、指揮用馬鞭を準備してほしい"、"考証が合うか"とした。

ちなみに軍隊では指揮官になるとプレゼントで馬鞭を与える伝統がある。 私は"考証に合わない"と伝えた。 マッカーサー将軍の若い時期、つまり第1次世界大戦を前後して馬鞭を持っているのはあくまでも写真を撮るための小品に過ぎないと言ってくれた。 製作陣はリアム・ニーソン側を説得してみると述べてきたが、映画にどう出るかどうかは分からない。
 
であるならば、マッカーサー将軍はパイプを持って通うことばかりして喫煙はしなかっただろうか。 彼も喫煙をした。 その時は本当のパイプを使った。 第2次世界大戦初期に撮ったものだ。 この写真(〈写真11〉)な、実際にタバコの煙が出る珍しい写真も一枚ある。
 

イメージ 9しかし、問題はこの写真を見ると、ご存知のようにパイプが手に包まれているために美術チームが、まともな形を見て製作できない隘路事項があった。 しかし、窮すれば通じるもの。Norfolkのマッカーサー記念館に電話をしたらモデル名と購入できるサイトまでご親切に教えてくれた。

付け加えてまだも販売されているモデルとした。 次の〈写真12〉がそれだ。 マッカーサー将軍が吸ったものと同じようなパイプは右から二番目だ。



 
マッカーサー、仁川(インチョン)上陸作戦当日、作業着姿だった理由

 

映画の事実性を高めるための考証は重要である。 当該分野について少しでも知っている人たちが間違った事実を見るようになれば映画にすぐに興味を失うためだ。 この分野でもディテールを知って指摘してくれる専門家が多くない。

 
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〈写真13〉は映画に出てくる一こまだ。 マッカーサーをきちんと描写した。 まず最初に目につくのは彼がかぶった帽子のクオリティだ。 初めて見る方には'一体あれが何だ'という気がするのだ。 手あかのついて火に焼けたしわになった帽子。 太平洋戦争で彼と生死苦楽(生死苦樂)をしたフィリピン総督の正帽だ。 マッカーサーはフィリピンの総督を歴任した。
 
何より今度の映画では、適時的に教えたのはサングラスの色だ。 これまでほとんど白黒写真だけ見てきたのにマッカーサー将軍が黒いサングラスをかけたものと描写した映画、ドラマが多かった。 しかし、実際には濃い緑色のレンズを楽しんでかけた。

 
この事実を教えると、製作陣は調子に乗った。 映画〈、仁川(インチョン)上陸作戦〉でマッカーサー将軍は常にサングラスを使っていることが描写される。 真っ黒なサングラスを書いているとリアム・ニーソン特有の目の演技を生かすことができないのだからだった。 ところで目の動きが明らかにしている緑のレンズとは、問題を一挙に解決する方法が出たのではないか。
 

〈写真14〉は、仁川(インチョン)上陸作戦の再現行事時のものだ。 他のことはたくさん間違ったが、ワイシャツをきちんと着た。 仁川(インチョン)上陸作戦を控え、マッカーサー将軍は楽な室内制服姿で日本のあちこちを巡視して記者たちを引き離し、韓半島に出港した。 秘密が漏れてしまうことを防ぐためだった。 それで軍服ではなく、作業服のズボンに白のワイシャツ、軍用の皮ジャンパーを着ているものだ。
 


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〈写真15〉はマッカーサー将軍の作戦指揮官としての面貌を知ることができるようにした写真だ。 連合軍司令部が駐留した東京第一ビルの会議室での主要参謀たちを集めて作戦ブリーフィングをする姿だ。 大きな模型を作ったり、壁に巨大な地図をかけておいただけではなく、携帯用の地図にも直接描いて示して説明した。 マッカーサーは、このような方式が好きだった。
 

 
仁川(インチョン)上陸作戦の作戦の図面が消えた
 

〈写真16~20〉は、米第10軍団の仁川(インチョン)上陸作戦の作戦計画(Operation Chromite、X Corps Op.Order No.1)の原本を撮影したものだ。 全体ページ中にたった全五枚だ。
 
仁川(インチョン)上陸作戦当時の主力部隊は米10軍団だった。 6・25戦争の指揮体系は、国連軍司令部(極東軍司令部)→米8軍司令部→、米9軍団であり、1950年9月、韓半島洛東江(ナクトンガン)全域(Campaign)で防衛作戦を指揮したのは、ウォルトン・ウォーカー将軍の米8軍司令部であった。

※ここ重要、釜山防衛線担当はW・ウォーカー将軍ってこと、武器を捨ててバラバラに釜山に逃げてきた韓国軍はこのとき兵力の70%を喪失していました。


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言い換えれば、米10軍団は、仁川(インチョン)上陸作戦と将来作戦のために新しく創設した部隊だった。 ダグラス・マッカーサー将軍の長年の戦友である極東軍司令部情報参謀部長エドワード・エルモンド(Edward Almond)所長を中将に進級させて指揮官とした。
 

入手された仁川上陸作戦の作戦計画を見ると、'別紙#2.作戦操作(Operation Overlay)'がない。 つまり、作戦計画の図面がないということだ。 作戦の図面は作戦に関連した味方部隊の位置、規模、機動、火力計画などを軍隊符号と戦術的な統制手段を使用して図式に示したものである。 必要の際、敵部隊の位置と予想される移動経路を表示でき、通常大隊級以上の梯隊では付録として作成している。
 
これを探すためにメリーランド州国立文書記録管理庁(National Archives)とワシントンの陸軍軍事研究所(US Army CMH)をすべて確認したが見つからなかった。
この図面は映画を製作している今までも見つからなかった。 偶然にノーフォークにある米合同参謀大学の資料室にノルマンディー上陸作戦の作戦計画の図面とともにあるという噂を聞いたことはあった。 来る3月頃そこを訪問して捜してみる考えだ。



(翻訳:みそっち)



っとまあ、アメリカにも資料が残っていないというのはイイんですが、この作戦に参加したはずの金大植(キム・デシク)大佐っていうのが自分の口から言ったセリフって無いんですよね。まるでぺク将軍と一緒ですよ。

記録がなければそこに割り込んじゃえばイイって考えたのです。
どうやら朴正煕のころに、”軍部”が祖国防衛韓国戦争に大活躍したことにしちゃえっという取り巻きがいて次々に超時空韓国軍の戦争を”公式化”してしまったようなのですね。
それに登場する当人らは慣れない外交の大使になったりしてしばらく留守にするんですよね。、そうこうするうちに出番の無かった遅生まれの軍人(全斗煥とかノテウとか)にも出番をってことでベトナムに参戦したりして やがて朴正煕は暗殺されて全斗煥が独裁政治を引き継ぐと言う流れになるようです。




◇ ◇ ◇



仁川上陸作戦に参加する韓国軍海兵隊


仁川(インチョン)上陸作戦で活躍した国連軍の戦争史料はこれまで多く公開されたのですが。 国連軍とともに上陸作戦を控えた海兵隊の決然とした姿を撮った写真が新たに公開されました。


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上陸作戦直後、北進した国連軍の姿も含まれてありますが、戦闘服を着てヘルメットをかぶった将兵たちが深刻な姿で教官の言葉に集中しています。 これらの前には迫撃砲四つと小銃、軍装が秩序整然と置かれています。



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1950年9月、仁川(インチョン)上陸作戦に投入される直前、韓国軍海兵隊釜山港で出動前査閲を受ける姿です。

写真に撮られた軍需物資はすべて米陸軍補給品で、初期の海兵隊の根幹になりました。

海兵隊釜山港で国連軍上陸艦搭乗の予行演習を行う写真も公開されました。
将兵たちは完全武装で埠頭に集まって作戦開始日に従う細部行動指針の教育を受けました。

韓国の海兵隊は連合軍が仁川(インチョン)に向け進撃した9月15日、ついに仁川港に上陸しました。
連合軍の後を支えて市街地戦闘に投入される前で、口を固く閉ざした緊張した表情です。 部隊マークもなく、戦闘帽に分隊表示をいちいち書き込むほど劣悪だったが、勇敢に戦いました。

これまで上陸作戦を主導した国連軍の活躍ぶりは多数公開されたが、海兵隊の活動の様子はベールに包まれていました。

[ナムボラム少佐、国防部軍事編纂研究所]"(仁川(インチョン)上陸作戦は)秘密作戦だったために大衆に多く公開されませんでした。 しかし、今回に出たこの写真は初めて発見されたのであり、そしてまた、これに発見される写真が多いということを示唆してくれる貴重な資料です。"

作戦成功後、北進を開始した米軍は、北朝鮮軍の強い抵抗にもかかわらず、次々と主要拠点を陥落しました。 1950年冬には鴨緑江沿いまで進撃して塹壕を掘り、戦線構築に乗り出したりもしました。
関連写真は、国防部軍事編纂研究所の収蔵庫に保管されていたもので、今回初めて公開されました。


(翻訳:みそっち)



いえいえですから、韓国軍の兵隊にに米式装備が行き渡ったのはソウル奪還後ですよ、どちらかというと停戦交渉が本格化した1952年すぎというのが真実です。
とにかく朝鮮戦争に参加したという韓国兵っていうのはどこにもいないのです。誰もいないの

ぺク将軍の部下だったという人さえ一人もいないのです


あのほら、戦争はじまってすぐにムスタングに乗って大活躍した10人っていうハナシ
あれも創作ですよ、6月27日にT-6練習機に乗って攻めてくるキタ朝鮮軍に爆弾を投げ落としたことになってるひとが、その日のうちにニホンまで行ってムスタングに乗って帰ってくるなんてありえないじゃないですか。それなのに韓国人のほとんどがそれを信じちゃうっていうのも朴正煕のころの”国民愚民化政策”のおかげですよ。
なにしろ国軍と国連軍って違いが分かったら朝鮮戦争の活躍が全部ウソになっちゃうでしょ。ハングル専用化は最優先課題だったんのです。


本当は韓国兵は武器も持たせてもらえずに砲弾運びをしていたのです。

これが韓国軍の真実ですよ





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参考:みなQ、東大卒を罵倒する 児島襄って人の書いたヨタ戦記もの









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