minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

おつむゴンゴンの銅板はもう無い

 
 
 
 
まさに屈辱碑の三田渡碑 倒す埋めるの仕業はすべて韓国人
あの歴史的 ”おつむゴンゴンの銅板” はもう無いらしい
 
 
イメージ 3[ソウルミーナ]ソウルの探検って言えば荘厳な造形の総督府はもう無いし、ソウル駅も京城市庁舎も日帝の遺物で古いけどアレですよね、焼け落ちて再建された南大門はもう見たよね。ソウル市がいちおししてるのは漢陽城壁っていうか、ソウル城郭とかいろいろ言い方があるけど、ちょっと足を伸ばして ”おつむゴンゴンの碑” を見に行きましょうよ。 場所は川向こうのロッテワールドタワーのある石村湖のすぐ脇にあります
※ソウル駅からだとおよそ20km タクシーで20,000ウォンくらい
 
 
仁祖が立てる
1637年、朝鮮第16代の王 仁祖が淸の太宗ホンタイジに降伏の例(禮)を上げた受降壇の場所に1639年に建てられた三田渡碑は、漢江の岸辺の南漢山の登り口にあった
高宗が倒す
1895年日清戦争での敗北で清軍が朝鮮の地から完全に追放されると、朝鮮第26代の王、高宗の人によってその碑身が転倒された(⇒当時、高宗が三田渡比を漢江に投げつけてしまうと命じたとか、あるいは地中に埋めてしまえと命じたとかのような情報がウェブ上に広がっているが、三田渡碑を1909年に歴史家関野貞[Sekino Tadashi]が撮った写真が存在するので、これは事実ではない)。
 
イメージ 10総督府が起こす
1910年、朝鮮を併合した日本は、朝鮮の歴史を正しく知ってもらおうと、1917年9月に三田渡碑を再び起こし立てた(⇒ウェブ上には1913年のことだという情報が広まっているが、歴史家谷井濟一[Tanii Saiichi]が作成した「大正6年(西暦1917年)朝鮮古跡調査報告」に掲載された内容から推測すると、これは事実ではない)
1935年5月24日には、この石碑を「三田渡清太祖功徳碑」という名前で宝物第164号に指定する。⇒このような指定は、1945年の解放後も国宝第164号のまま続いたが、恥辱の歴史物をなぜ国宝として保存しなければならなのかという主張が一部で強く提起される。
李承晩が倒す
1955年11月4日三田渡碑の国宝指定解除と埋没決定が下されると、これにより、1956年文化教育部は三田渡碑を埋没処理し(⇒1958年の春に埋没処理したという話もある)は、代わりに石碑が立っていた場所は、1957年2月1日「三田渡清太祖功徳碑地」という名前で古跡第147号に指定した。ところがまもなくのこと
洪水で再び出てきた
1960年ごろに発生した大洪水により、三田渡碑が再びその姿を現すと、政府はこれを原位置から少し離れたところに再度起こし立て、1963年1月21日には、三田渡清太祖功徳碑を史跡第101号に再び定める。この名称は、1981年7月10日「三田渡碑」に変更され、この頃に記念碑周辺が公園として整備された。
イメージ 11⇒2007年2月にバク某さんが三田渡碑に赤いペンキ塗りをした事件が起きて3ヶ月間の回復作業が行われており、2008年3月には、三田渡比の移転を着実に推進してきた市が関連研究物を文化財庁側に提出する。ソウル学研究所で実施したこの研究によると、三田渡碑の原位置は今の石村湖西湖の北東部分だったとして現在位置は、水の中に沈んだ状態になる。したがって原位置で最も近い地域に移動することを前提とした文化財庁の条件付き承認がなされたが、これ基づいて、2009年12月から4ヶ月間行われた前工事の最後に翌年の2010年4月25日、その竣工式が開き。現在の場所に移転された
 
 
 
 
 
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▲こんなことがあって(裏表ですからね 2個あるわけじゃないですよ)
これが2007年のことでした、キレイキレイにして移転したのです
370は370年目ということ あとは意味不明とも言われています。
(ウラ・オモテで철거 撤去、병자 丙子 やっぱり意味不明 )
 
 
 
この事件があったころは現在地から少し離れた児童公園のなかに建っていたそうです。近隣の住民も何の石碑なのか知らないまま全斗煥大統領のころからあったそうですよ。※それまでは埋められたり建てられたりを繰り返していたわけです
 
 
文化財保護なんとかに運び込んで洗浄作業をしたのですが、石碑の移転要求があったり、最初にあった場所がよくね? なんてこともあって2010年にあたらしいところに移転されました。 こんなところですよ
 
 
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三田渡碑 (史跡第101号) とか大清皇帝功徳碑とか呼ばれてますよ。台座は2個あるんだけどね。(小さいほうは使われなかった台座) 裏側が漢文
 

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①三田渡っていうのは漢江の船着場のあったところらしいです。矢切の渡しみたいなイメージでいいかも。
②なぜそこなのかというと清の大軍20万人が整列できるところで選ばれたようです。
③漢江の対岸の地に石碑があったせいで歴代の朝鮮の王は対岸の地(現在の江南あたり)に決して足を向けなかったと言われています。
④現在の場所はロッテタワーのすぐ下になるところ、石碑を見下ろすことで精神的優位性が維持されるという見方もある。
⑤仁祖が降参してから2年の後に朝鮮人の手で字が彫られて建てられた。
 
 
 
あれれ? これしかないけどアレはどこ??  
 
 
 
        これ ↓
 
 
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この銅板は1983年に作られたもので、描写の姿が事実と合わず、文化財的価値がないとして2010年に三田渡碑が毀損されて設置場所が移転された時に撤去した。Wiki
 
撤去した...  そですか 残念っ
 
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▲2010年まで現在は児童公園になっている場所にあった(見ての通りかなり大きい)
 
 
 
◇ ◇ ◇
 
 
教科書でちゃんと教えているのかな?
 
 
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というわけでもう現物が無いのです、2010年に無くなったってことなので教科書にあるイラストもまもなく消え去ることでしょう。 それは歴史上の事実が無かったことにするという ”韓国型代償行為” ってことかな。
 
 
 
おまけ 無限ゴンゴン
 
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朝鮮の敗戦国としての歴史はこの時にはじまった。
 
 
 
 
 
 
 
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ソウルなんて見るところ何にもないんだから