minaQのつぶやき 네토미나

嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

煉炭、愛の分かち合いの歴史が もぉ




これは意外、練炭の強制配布は2001年に始まった?

あれ? 日帝時代は練炭なんて配らなかったけど? 練炭の分かち合い 
新しい「分かち合い」の歴史をつくるために2010年ごろには全国的ブームに


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[ソウルミーナ] 冬の訪れとともに聞こえてくる煉炭配布はキムジャン(キムチ漬けイベント)と並んでの今の時期だけの便りですが、韓国で煉炭の強制配布が行われるようになったのはそんなに昔のことじゃありません、それどころか ついこの間ぐらいにはじまった歴史の浅い付け焼刃的な記念写真撮影用イベントとして、知っておく必要があります。
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よくありがちなのが地方選出議員が赤いゴム引き手袋をして鼻の先に黒いのをこすりつけてるような写真です


煉炭の歴史
朝鮮半島練炭が紹介されたのは1920年代のことでした。当時になっても自給していた薪(山から牛に背負わせて運んでくる)で火をおこしていた朝鮮人にとって、お金を払って(働いて)買わなければならない練炭の高火力は憧れの的であり、文化的生活への畏怖畏敬の対象でもありました。 


みそっちのハングル探訪④  あれれ 同じ?
練炭煙炭  연탄 ・ 무연탄


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オンドルに代表される旧朝鮮様式の家屋に適するのは薪だけだったので、オンドルが無くなって行くとともにそれ以外の燃料への転換は1960年代後半になって始まります。
※この頃の朝鮮家屋は床下の無い地べたに板敷きの木造家屋が一般的で暖房は薪燃料のストーブがあり、炊事はかまどのある土間で行っていた

かつてソウルの苦学生たちが練炭配達をしながら勉強をした>>>>このようなよく引用されるハナシが信じられていますが、これは1996年に書かれた起業家の書いた小説のなかに出てくる描写であって、それを引用した当時の新聞記事がきっかけとなり広く信じられるようになったデタラメでした。 
なぜデタラメなのかというと煉炭配達は学生アルバイトを雇うより廉価な、子供のやる新聞配達のような単価の低いもので、いくら苦学生とはいえ煉炭配達を専業でやっても稼ぎがいくらにもならないことで敬遠されていたからです。

しかし1970年代にもなるとようやく練炭コンロの普及で炊事は楽になり、ついでに一酸化炭素中毒も多発するなど韓国らしさが満ち溢れてきたのがこの時代の特徴です。 ※つまり夏でも使うってこと


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▲1970年、斜面に建てられたアパートが崩壊

5階建てで練炭コンロ? 
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人々がソウルに集中しはじめたこの時代に朴正煕大統領の一声ではじまった高層アパート建設(当時は5階建てが高層)では水道配管はありましたが、ガスはまだ普及しておらず、旧式な初期の5階建てアパートの熱源は練炭コンロという時代が1990年代になっても残っていました。 (もちろん風呂・シャワーは無い)
このソウルの超近代的集合アパートが初めて建てられた当時は石油が高く、石油ストーブも輸入品しか無かったためあまり普及することなく現在でもほとんど見かけることがありません。 
韓国で産出する無煙炭から作る練炭は4時間~6時間ほどの燃焼時間があり、翌朝まで火種を残そうとすると不完全燃焼であわわってことになります

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▲年度別一酸化炭素中毒発生件数記事検索Hit数


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この時代にはまだ 『練炭の愛の分かち合い』 なんてことは誰も思いつきませんし、練炭は冬になれば練炭屋店主自らが手を真っ黒にして運んでくるものだったわけです。そのころのソウルの路地といえば練炭の灰(練炭の形をしている)が道路わきに積み重ねられて道普請にも使われることなく山を築いていた写真は今でもよく見ることが出来ます。


韓国は30年ほど前のソウルオリンピックのあたりから発達してきたわけですが、その頃に子育てをしていたのが現世では夫に先立たれ息子は縁遠くなり娘にも愛想を尽かされて持ち家ならぬ持ち部屋で一人ぼっちで暮らしていたりします。 そのへんが現在の練炭やキムチを受け取る生活脆弱層ってわけです。
※伝貰(チョンセ)全盛時代(~1990頃)には持ち家を持つのは家主だけで、ほとんどのソウルっ子は自身の持ち物ではない家に住んでいました。そのまま家は老朽化し居住権を振りかざして出て行かない高齢者が現在のソウルには非常に多くなりました

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分かち合いってキムチ練炭でよく聞きますが これをハングルで言うとナムヌ、すなわち韓国の職業遠征慰安婦が寄り固まっているあの団体の名前と一緒です。 
言うなれば『分かち合いの家』(ハウスシェア(笑)) ということであの団体が出来たころに『愛の分かち合い練炭配布』みたいなことがはじまったのですね。   

あのほら、霜が降りる頃になるとどこからとも無く赤いゴム引き手袋したのが一列に並んで横渡ししていくアレですよ。


赤いゴム引き手袋って何?

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▲大韓赤十字社が12日メルス隔離者に支給した応急救護品、男女下着セットをはじめ、靴下、歯磨き粉、歯ブラシ、石鹸、洗剤、タオル、トイレットペーパー、枕、作業用手袋など病院隔離者にとって切実じゃないものが多い。



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タオルと軍手(赤いゴム引き)、スポーツシャツやトイレットペーパーなどが入った災害緊急救援物資D型、箱のコーナーの赤テープが積み重ねた時に赤十字になるギミックがシュールだ。

韓国の特徴的な物として赤いゴム引きの軍手があります、それと同様にガムテープ(청테이프)で検索すると上位に出てくるのがこの青いガムテープです

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どちらもニホンではあまり見かけませんが韓国ではかなりメジャーなしろものです


 
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▲あつめられたチラシは本人認証の手続きのあと換金されることとなる、ここでも"韓国型軍手"は赤いゴム引きだ。  ※赤いゴム引き軍手は韓国の証だ

付録.2

食事習慣がこんなにも違う

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米食文化圏で韓国だけがちょっと違う

犬食いと揶揄すれば乞食食いと返ってくる韓国独特の食事習慣ですが、これはすべてのごはんとおかずをひとつの大茶碗に盛ってそれを家長から順に食べるという風習からきたものです。お茶碗が家族に一つだけだから持ち上げることが無いわけです。

中国やベトナムはもちろんニホンではひとりにひとつの食器というのが当たり前でしたが儒教文化の深く残る朝鮮、韓国ではこうした文化が現在も受け継がれています。
※一人ずつの個人用食器が無かった時代のことを韓国人は思い出したくないほどひどく嫌っています



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▲バケツで取り分けられるラーメン

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▲七輪でつくるラーメンは”床食”が基本となっている
練炭を使う家庭は現在でもソウル市内に100万世帯ある


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▲大勢でラーメン鍋を囲むところ
お父さんにだけ”マイなべ”がある

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▲職場に”マイラーメンなべ”を持ち込む企業戦士
オフィスの事務机には当時最新型のカラー電話機

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▲床食という基本原理は今も守られている

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▲サウスLA地域の市営図書館で開かれた韓食広報やビビンバ試食イベントに参加したビハンイン住民たちが、地面に座ってビビンバを食べている。


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▲食材を持ち寄って大鍋で混ぜるヤンプンビビンバ
韓国の伝統食です(取り皿など無い、直スプーン)

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▲ホームレスへの無償給食の配食は路上



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