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嫌韓(いやかん)ってホントはどうなの?

あれっ? 政府樹立70周年特別展はじまる


政府樹立70周年でいいのか?

大韓民国歴史博物館では政府樹立70周年'彼らが夢見た国'特別展を開催
来年は100周年の記念行事が目白押しの韓国なのに 波乱の予感


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[ソウルミーナ]26日、韓国メディアのイメージ 2(ニューシース)が大韓民国歴史博物館のイベントで”政府樹立70周年特別展”を紹介した。


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韓国人にとって暗黒の時代だったとされる日帝統治期が1945年のアメリカ軍政期から1948年の政府樹立までのわずか3年間に現在の韓国式社会原点ともなった不信社会へと変貌していった様子やハングル教育の迷走などが展示されたりしている

大韓民国歴史博物館が行うのは、大韓民国政府樹立70年を迎えて、この27日から12月2日までの特別展 '彼らが夢見た国' である。 
  
つまり大韓民国歴史博物館で、12月2日まで ”大韓民国政府樹立70年企画” を実施するというわけだ。 大韓民国政府樹立70年といえば全世界的にみてもアフリカや東南アジア諸国の独立のようなゴタゴタして時期に、なし崩し的な独立をしたのが韓国だと知っているが、一部のバカやチョンである韓国のムン大統領が涙してやまない来年100周年を迎える1919年の『3.1宣言』から始まったとされる ”3.1運動の崇高な独立精神を継承し...。” という憲法前文による建国神話を真っ向から否定する決定でもあるわけで、波紋が予想される

つまり会期中に展示企画の題名が差し替わることもありそうだということだ。
※7/26時点ではまだ韓国民のほとんどが気づいてい無いようで、大統領府請願に匿名請願してみようと考え中みな


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今回の特別展には、解放後の大韓民国政府樹立まで関連した主要資料200点余りが展示される。 特に、文学家であり、法学者、兪鎮午(ユ・ジンオ)(1906∼1987)の憲法草案原本、制憲国会議員たちの姿を描いた'制憲国会議員の写真帖'など政府樹立直前時期の様々な歴史を見せてくれる多様な資料が展示される 
※1948年施行の現憲法の手書きの原本をすでに紛失したので個人が保存していた”憲法草案原本”が登場する。
  
計5部で構成した特別展のうち、第1部'激動の空間、韓半島'では解放後に人々が新しい国を作ろうとそれぞれの政治理念と価値を表現した姿を描いている。 '解放記念ポスター'、'大韓民国憲法'、'兪鎮午(ユ・ジンオ)憲法草案-第1回表'、'兪鎮午(ユ・ジンオ)憲法草案・司法部に提出した案'などが展示される。   


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兪鎮午(ユ・ジンオ)による朝鮮民主共和国臨時約法(試案)


第2部'解放以後'では社会構成員の健康な暮らしのための保健・医療、交通・通信などの基幹産業と博物館・図書館など文化基盤施設の構築に至るまで多方面で起きた新たな動き、日本の統治下で喪失した民族アイデンティティと自らの言葉・文章、そして歴史教育のための努力を紹介する。 関連資料は'朝鮮語大辞典1~3'、'ハングル文化の創刊号'、'ハングルの正しい道'などだ。 
朝鮮語辞典はニホン総督府監修で完成していたものを奥付けを差し替えるのに3年かかった物。ハングル文化は日本が広く教育したもの。

3部'苦しい生活と希望'では、経済悪化と困難にも海外に滞在していた多くの韓国人が祖国に戻って希望を抱いて行く手を開拓しようとした話、自分の社会的位置を自覚してともに豊かに生きるために努力した人々を紹介する。   
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'米穀自由販売指令の第1号'、'米穀収集割当量通告書'、'米穀収集令ビラ'、'米穀の出荷命令書'などが疲弊した民生を示している

4部'民意の発散'では解放がなり、日帝強占期の抑圧された声が様々な方法で噴出した面を新聞、雑誌、文学作品などで見せてくれる。 
ともに、大衆の間で膾炙した流行語や標語で見た当時の状況を察してみて、多様な作品に芸術的な悩みと時代的使命を留めて表出した芸術家たちの話も紹介する。
  '空と風と星と詩'、'青緑家'、'ソ連紀行'など当代のベストセラーらが陳列される。 

5部'政府樹立、その後'では南北の他の政治の風景から韓国政府が樹立される過程と政府の樹立が日常生活にもたらした変化を見せてくれる。 
政府樹立以降、発行された大韓民国政府機構の規定、海外規則、5・30総選挙資料
集、最初の国定国語教科書、朝鮮旧末、事前、教育法案などの資料が存在している。

大韓民国歴史博物館:光化門広場に面したアメリカ大使館のすぐ隣にある国立の歴史博物館、アメリカ大使館へのデモ行為をする際に、法に触れないようにすぐ隣の大韓民国歴史博物館敷地で奇声を上げるのが恒例化している


(ソウル/みそっち)





ニホン統治とは朝鮮半島の近代化であったし、1945年以後の朝鮮韓国人のやったことはニホンの残した資産の奪い合いと同族同士の殺し合いだったわけです。

ソウルの鍾路あたりにあった小奇麗なニホンの商店を朝鮮人使用人が奪う、自宅も奪う、タンスの中身にもすべて奪う。警察の警官もすべてが朝鮮人になるので名乗り出た順に署長が任命されていました。京城大学ではすべての教授が朝鮮人になるのだということで、こちらも早い者勝ちでしたね。もちろんニホンが作った小・中学校でも校長には朝鮮人ってことで早い者勝ちで任命されました。

刑務所では看守がすべて朝鮮人になるときに、中にいた重罪人をすべて釈放しました。もちろん強盗や人殺しだって釈放されましたよ。

朝鮮人路面電車の駅夫は切符の販売をしながら、すっと不思議に思っていた(見ていた)そのお金をすっかり奪い去る夕方の売り上げ報告のかわりに、切符の代金を自分のポケットに貯めこみますよ。ヤミキップなんてありましたからね。

みそっちのコラム③
えっ?何を不思議に思っていたのかですって? 検札するとお金で切符にハサミですよね。その時のお金がなぜ自分のモノのならないのか。それを彼らは理解できなかったのです。路上の売店であればザルに入れたお金を売り上げとお小遣いの区別なんてしないでしょ。そういう商習慣しかなかったので当時のニホン人経営者は韓国人に現金を扱わせなかったのです。

ビール工場や繊維工場もニホン人がいなくなったあとの無法地帯は彼らのやりたい放題だったのです(工場関連はその年のうちにほとんど動かなくなる)。当時の京城にあった民間と公用の自家用車はおよそ3000台。これがすべて朝鮮人たちのものになりました。(ガソリンの配給は無いけどね)

その年のうちにニホン人のほとんどが引揚げてみると。朝鮮韓国人はすべてを手に入れたのでした。もう早い者勝ちだったし、遅れて、個人の資格” で帰国してきた ”自称臨時政府重鎮”なんかは歓迎されるつもりだったのに 無一文 だったでしょう。 その日に寝るところもなかったのです。
※帰国してお泊りした朝鮮ホテルもニホン人経営者の居なくなった後に入り込んだ朝鮮人の経営していたところ。

これが”第1回分配” とでも言っておきましょう。奪えるものを手に入れてそこに居座ったことで現在の地位を手に入れたってわけです。

もちろんそういう事実を現在の彼らが素直に認めるハズもありませんが、日帝が ”収奪した” らしい、全資産が彼らが分配したのが事実です。”日帝が収奪した” ってところばかりがハングルでは心地よい部分のようで学校教育でもそう教えていますよ。



'米穀収集割当量通告書'、'米穀収集令ビラ'、'米穀の出荷命令書'

田舎ではコメの耕作地が最大の被害でしたね。収穫の時期なんてことに無関心だった ”自称五千年農耕民族” らは”日帝地主(集荷業者)”が居なくなった農地の稲穂を次々を刈り取ってしまいました。まだ8月なんですけどね、少なくともニホン式農法では計画的に収穫時期をずらす早稲・晩稲が厳密に守られていたのですが、彼らにはそんな事情は分かりませんから、この年にはすべて一緒に刈り取って台無しにしてしまったのです。
その場ではまだ台無しになったと判っていなかったので、「コメの収穫はもうちょっとあとかな」なんてところまですっかり丸裸に刈り取って誇らしげでしたよ。
すぐにその年から食糧不足が始まりました。(韓国ではコメの収穫量が戦前のレベルに回復したのが1974年ころまでかかった)
そうして耕作放棄した農民がソウルに押し寄せてきたのが1945年の暮れでしたね。しかしB-29の空襲にも遭わなかった近代資産はすべて分配された後でした。

ソウルには上水道もあったんですから流入する耕作放棄民がバラックを建てて勝手に住み始めますよ。 そんな混乱した時期がアメリカ軍政期です。(僅か3年だけね)


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▲半島に駐留した米軍のテントの中の物資の横流しの原点は韓国にある


やがて韓国の独立と李承晩の登場で再び再分配を求める声があがってきます。国民の半分を共匪にして退治すれば残りのひとたちの財産が2倍になるという計算で、共匪狩り” が、盛んになりました。
このころを ”第2次分配” とでも言っておきましょう。

軍の前身だった朝鮮警備隊も国軍になり警察なども勢力拡大のために大勢を殺して埋めるわけです。そんな混乱期が1950年の朝鮮戦争直前までの状況ですね。
もうとにかく殺す埋めるで3~400万人が行方不明です



序盤の負け戦で韓国政府がソウルを放棄して釜山まで後退して国連軍の巻き返しでソウルに戻ってみると ”我が家には知らないひとが住んでいた”。そういう時代です。
ここで不平不満を言い出すと ”キタ朝鮮内通者” として捕まりますからね。
これが 第3次分配 っと。そうやって分配(搾取よりひどい)を繰り返してきたのは韓国の歴史ってことです(1948年からわずか5年くらいの間の出来事)

このように分配の恩恵を受けてきたひとたちのことを韓国では親日派とか親日財産とか言います。ノムたんの親日財産還収”なんていうとひどいことのように言う人もいますが現実には、単に ”分け前を貰い損ねたひと” の理論ですから、表向きはニホン統治時代に甘い汁を吸っていてそのまま韓国建国後も持ち続けていた韓国人財産の分け前を今すぐ寄越せってだけのことなのです。 別にどうってこともありません。

 ”分け前を貰い損ねたひと” の理論はやがて力を付けてくると既得権の強化へ繋がっていきます。”独立有功者と子孫への加算点” といった韓国だけにある不思議な得点制度で分け前の上乗せをしようということになったのです。そのへんが現在の韓国社会なんですよ。 併合で近代化された資産の奪いあいから根を引いているのが韓国の原点なのです。

ええ、そういう奪い合いや政争が無かったキタ朝鮮では日帝が残してきた発電所とか工場がそのまま残りましたからね、朴正煕のころまではキタ朝鮮のほうが経済的優位があったりしてたし、現在でも地域間対立みたいなものとは無縁なのです。

でもそれじゃぁ韓国人とその崇拝者にとって脳内平衡のバランスがくずれるので、キタ朝鮮が苦難の行軍してみたり大飢饉になったりしていることがニュースになるのですね。少なくとも高齢者貧困率は韓国の方が数字が悪いですし、一人あたりの居住面積であるとか、自殺率なんかも韓国の方が悪いです。 朝曰新聞などの ”韓国型脳内平衡メディア” は、GDPがどうのこうのと言い出しますが、物価が安定しているのも食品が安全なのもキタ朝鮮でしょう。(商品が豊富なのは韓国だけど、廃紙拾いの老人はキタ朝鮮には居ない) ⇐このへんはサンケイも知らんふりしているのが不思議ですけどね(廃紙が無いのかもしれない)



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ふひぃ